day8 雷雨(優しい腕の中で)
「ただいまー!」
小学校から
「困ったな……」
「ほんと、どうすれば……」
――どうやら、何やら困りごとがあるようだ。両親が話し合っているところに口を挟んではいけないが、帰ってきたという挨拶はしないといけない。
「おとうさん、おかあさん。ただいま」
「お帰り、朝恵。もうそんな時間だったか」
首からかけたタオルで額の汗を拭きながら、父が朝恵に微笑みかけた。
「ごめんね、朝恵。まだおやつ準備出来てないわ」
「ううん、いいよ。わたしはしゅくだいをしてるから」
そう言って、いつも通り自分の巣である部屋に行こうとしたら、父が声をかけてきた。
「なあ朝恵。――明日は普通に学校に行って、帰ってくるんだよな?」
「うん。あしたはきゅうしょくをたべたら、かえるよ」
「そうか。――いつもと同じだな」
うーんと父は唸った。母もどこか困った顔をしている。
「おとうさん、おかあさん。どうしたの?」
「いやな。父さんと母さんは、明日品物の仕入れに行かないといけないんだよな」
「うん。じゃあ、おばあちゃんがきてくれるの?」
いつもは、両親が仕入れなどで店に不在の日は、祖母が家に来てくれるのだ。朝恵は祖母と自宅で待つことになる。ところが、父は首を横に振った。
「それがな。お婆ちゃん、明日からお爺ちゃんと旅行に行くから不在なんだと。どうしたものかな。まさか朝恵を一人で待たせるわけにはなあ……」
また父はうーんと唸る。心から弱った様子で。
「誰か、出来るだけ近場で、安心して朝恵を預けられて、なんて相手いないかなあ……」
「あのね、おとうさん。……おにいちゃんのところじゃ、だめ?」
考えていたことがつい口をついて出た。
「え? 清遊堂さん?」
「清遊堂さんか? うーん……確かにうちの店の隣だし、朝恵は日頃からよく世話になっているし……駄目元で、聞いてみるか」
ちょっと行ってくる、と父はすぐに店を出て行った。
「お父さんが戻ってくるまで、ここで待っていなさいね」
「はーい」
母にここで待っているように言われたので、朝恵は店の中をにこにこと眺める。お店はいつも通り綺麗で、明るくて、服で一杯だった。夏だから、半袖の服や薄物がたくさんある。
父はすぐに戻ってきた。店を出て行ったときとは打って変わって、晴れやかな顔をして。
「清遊堂さん、朝恵を預かってくれるってさ。明日は学校から帰ったら、裏口のインターホンを鳴らしてくれって。わかったか、朝恵?」
「はい!」
清遊堂の裏口なら、朝恵はよく知っている。そこには確かにインターホンがあったことも。
「朝恵。清遊堂さんに迷惑をかけないようにね」
「はーい!」
明日は、ちょっと変わった一日になりそうだ――。
それを思うだけで、朝恵は自然とうきうきしてくるのであった。
そして、翌日。
清遊堂はミヤコ屋の隣だから、帰り道はいつもと全く同じだ。
でも、その心持ちはだいぶ違う。今日は両親が帰るまで、
清遊堂の裏口に辿り着いた朝恵は、インターホンを押した。
「こんにちは、おにいちゃん」
すぐに出てきてくれた真雅に、朝恵は元気に挨拶をする。足元を何気なく見ると、珍しく真雅の靴はロングブーツではなかった。今日真雅が履いているのは、かっこいいデザインの黒いサンダルだ。
「お帰り、朝恵ちゃん。――入ってくれ」
清遊堂に表から入ったことは何度もあるが、裏から入るのは初めてだ。気持ちが自然、高揚してくるのを覚えながら朝恵は真雅に招かれるまま、中に入った。
中は、ミヤコ屋の裏とは随分と違う雰囲気であった。ミヤコ屋の裏と言うと、朝恵の巣である部屋が一室と物置、あとはお手洗いと二階に続く階段があるだけなのだが、ここは違った。上の階に続く階段があるのは同じなのだが、他はどちらかというと朝恵の住まう家に似た雰囲気である。
「ここで靴を脱いでくれ。――どうした、朝恵ちゃん。何かあったか?」
「ううん、なにもないよ。おにいちゃん。ここは、おうちみたいなんだね」
「それはそうだろう。ここは、俺様の家だからな」
「――おにいちゃんは、ここにすんでいたの?」
初めて知った事実に、朝恵は少し大きな声を出してしまった。なんとなく、朝恵たちと同様に、真雅にも別のところに家があって、そこに住んでいるのだと思っていたのだ。
「ああ。俺様一人暮らしだからな。そう広いところも要らないから、ここに住んでいる」
この部屋に入ってくれ、と案内してもらった部屋に朝恵は入る。そこはミヤコ屋の朝恵の巣と同様に、和室であった。朝恵の巣には、この部屋にあるような掛軸は飾られていなかったが。
「朝恵ちゃんはテレビを見るか? それなら、二階にしないといけないが」
「ううん。わたし、ひるまはテレビを見ないよ」
「そうか。なら、ここを好きに使ってくれればいい。机はこれだな」
真雅がその長い指で部屋に置いてあるテーブルを指差す。朝恵の巣と違って、そこは掘りごたつであった。きっと冬にはとても暖かいのだろう。
「わたし、しゅくだいをしてもいい?」
「ああ、勿論だ。朝恵ちゃんは、帰ったら最初に宿題をするのか。偉いぞ」
朝恵はランドセルを開けると、中から宿題のプリントと筆箱を取り出す。テーブルの上にプリントを広げると、いつも通り懸命に埋めていった。真雅は朝恵を置いて店に出るのかと思いきや、朝恵と一緒にテーブルに向かって、カバーのかかった本を開いている。
「……おにいちゃん。わたしは一人でだいじょうぶだから、おみせに出てもいいよ」
「ありがとう、朝恵ちゃん。――でも、大丈夫だ。店に人が来たら、俺様気付くようにしてあるからな」
……よくわからないが、お兄ちゃんは店に人が来たらわかるような工夫を何かしているらしい。真雅と一緒にいられるのは無条件に嬉しい。だから、朝恵は深く考えないことにした。
「――漢字のプリントか」
「うん。あと、さんすうのプリントがあるの。おにいちゃんは、むずかしい本をよんでいるの?」
「別に難しくはないな。これは、最近買った小説だからな」
小説。真雅は普段、どんな本を読んでいるのだろう。これは後で聞いてみよう。
早く真雅といろいろと話をしたい。そのためには、目の前の宿題を片付けなければ。
いつも以上に真剣に、朝恵は学校の宿題と取り組んだのだった。
宿題が終わると、真雅はおやつを出してくれた。
「朝恵ちゃんは、葛餅は大丈夫か?」
「わたし、くずもちすきだよ。きらいなおやつってないの」
それはいい、と真雅はその鋭い瞳を細めて笑う。葛餅が乗せられた器は、どこか涼やかな風情があった。きっと真雅のこだわりなのだろう。
冷蔵庫であらかじめ冷やしてあったのか、葛餅はとても冷たくて、美味しかった。――大好きな真雅と一緒に食べているから、余計に美味しいのもある。
「ごちそうさまでした」
「食後の挨拶もきちんと出来るんだな。本当に偉いぜ。――普段は店で、何をしている?」
「本をよんでいることがおおいの。きょうももってきてるよ」
朝恵は手提げカバンから、本を取り出して見せた。今日持ってきたのは、朝恵が気に入っている、料理が出てくる物語だ。これは図書館の本ではなく、朝恵の持ち物である。
「この前はハンバーグの本だったが、今日はグラタンなんだな」
「うん。おにいちゃん、おぼえていてくれたの?」
「ああ。――この季節にグラタンを夕飯にしたら、少し暑いか」
真雅は、朝恵の本から夕飯を考えようとしてたようだ。――そういえばこの前は、ハンバーグを作ろうかと話していたのを朝恵は思い出した。
「おにいちゃんの本は、なんの本なの?」
「これか? これは歴史小説だな。書き手が、どういう風にあの時代を描いているのかを読むのが、案外面白くてな」
大体事実通りのことを書いてあるかと思えば、全然事実とは違うことを書いていることもある。そう真雅は語った。人物の捉え方も著者ごとに違って、それも読んでいて興味深いところだとも。
「おにいちゃんは、れきしのおはなしをよんでいたんだね。わたしにも、よめるかな」
「子ども向きの歴史本も売っているから、朝恵ちゃんはそういう本から入ればいいと思うぜ?」
「じゃあこんど、としょかんでさがしてみるね」
どんな人物の本から入ればいいのかを、真雅に尋ねようとしたそのときだった。外が急激に、暗くなってきたのは。
――嫌な、予感がする。この季節に、急に空が暗くなると言えば、あれだ。
空が光った。次の瞬間、ゴロゴロと轟く、遠雷の音――
「――きゃあっ!」
朝恵は家にいるときと同様に目を閉じ、耳を塞ぐと叫んでいた。――実は、朝恵は雷が大の苦手なのだ。周りは暗いし、大きい音だし、怖いしで。
ざあざあという、雨の降る音も聞こえ始めた。そして、雷の音も鳴り響き続ける。雷が近いのか、激しく光る稲光と音の間隔は短く、その雷鳴の音も、とても大きい。
いつになったら過ぎてくれるのだろう――部屋の隅に行って、瞳を閉じたまま朝恵が震えていたら、隣に人の座る気配がした。
「――こっちに、おいで」
そっと目を開けると、真雅がすぐ隣に座っていた。手招きされるままに朝恵が真雅の側に寄ると、ほんの少しだけ迷うようなそぶりをしてから、真雅がその大きな手で朝恵の身体を抱き寄せてくれた。
「夕立だろう。じきに過ぎる。――それまで、こうしていればいい」
真雅の腕は、朝恵の父の腕よりだいぶほっそりとしていたが――とても温かで、何より優しかった。その腕で抱きしめられているだけで、安心出来る。――ほっと出来た。
雷はなおも続いている。朝恵が身震いするたび、真雅の腕に軽く力が込められた。まるで朝恵を、守るかのように。
「大丈夫だ。――何も恐ろしいことは、起こらない」
その低い声は、どこまでも静かで、心地よい穏やかな響きをしていて。
雨脚は強く、激しい雷は長いこと続いたが――真雅の優しい腕の中でじっと目を閉じていると、いつもは怖くてたまらない雷も、きっと何も起こらずそのまま過ぎていくのだと素直に信じられた。
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