day7 ラブレター(書きたい相手は)

 それは、学校に登校するときのことだった。


 登校班の集合場所で、皆が揃うのを朝恵ともえは待っていた。やって来た高学年のお姉さんたちが喋っているのに耳を傾けながら。


 車が来たので、皆で道の端に避ける。そのとき、高学年のお姉さんのだいぶ古びたランドセルから、ぱさりと何かが落ちた。それは、可愛らしい封筒だった。お姉さんはお喋りに夢中で、それに気付かない。


 朝恵は道路に落ちた封筒を拾い上げると、お姉さんの手を揺らした。


「おねえさん。これ、おちたよ」


「え? ――やばっ。これを落とすのはまずいよ。ありがとう、朝恵ちゃん」


 お姉さんは朝恵から封筒を受け取ると、慌ててランドセルの奥にしまい込んでいた。――これは余程大事な、封筒なのだろう。


 そこに皆が揃ったので、学校への道を歩き始めた。先程封筒を拾ってあげたお姉さんと並んで、朝恵は小学校に向かう。


 歩く道々、ちょっと気になったので朝恵はお姉さんに聞いてみた。


「あのね、おねえさん。――さっきのおてがみは、だいじなもの?」


「うん、そう。……朝恵ちゃんは女の子だから、教えてあげる。朝恵ちゃんはラブレターってわかるかな?」


 ラブレター。それは何だろう。普通の手紙とは違うのだろうか。朝恵は素直に首を横に振った。


「まだわからないか。ラブレターっていうのは、好きな相手に渡す手紙。これは、あたしの好きな人に宛てて書いたものなんだ」


 そうなんだ。わかった、というのを示すように朝恵はひとつ、頷いてみせた。


「といっても、思い切って書いたはいいけど渡す勇気がなかなか出なくて、ずっとランドセルに入れてるんだけどね。――朝恵ちゃんには、ラブレターを渡したくなるような好きな男子はクラスにいないのかな?」


「うん。いないよ」


「そっか。きっと、朝恵ちゃんにもいつかそんな相手が出来るよ」


 嘘はついていない。クラスには、そんな相手は一人もいない。ただ――ラブレターがそういう手紙だというなら、渡したい相手はもう既にいるのだが。


 校門がだんだんと近くなってくる。今日の国語の授業では、どんな字を習えるのだろう。図書室に本を返しに行って、新しい本も借りなければ。


 学校のことを懸命に考えようとするのだが、先程高学年のお姉さんと話したことで、朝恵の頭の中は、好きな相手のことで一杯だった。


 朝恵がラブレターを渡したいと思える相手――真雅しんがのことで。





 朝恵が真雅と出会ったのは、家の手伝いがきっかけで――そう、あのときも回覧板を持って行ったのだった。


「随分小さなお客様だな? ――ああ、ミヤコ屋のお嬢さんか。俺様に何の用だ?」


 朝恵が名乗る前から、真雅は朝恵のことを『ミヤコ屋の娘』と認識してくれていた。後で聞いた話では「隣の店の娘のことくらい、俺様把握しているぞ?」とのことだったが。


 初めて清遊堂せいゆうどうの前に立ったとき、実は朝恵は怖かったのだ。いつも店内はあまり明るく見えないし、看板はどこか古めかしいし、おまけに店の人のことも、何も知らなかったから。


 怖い人だったらどうしよう。そんなことを考えながら店に入ったので、もの凄くどきまぎした。奥に座っていた店主――真雅が想像以上に若く、そして、とても綺麗だったことに。


「お嬢さん、とこれからずっと呼ばれるのも息が詰まるだろう。――名前は?」


 ――真雅が朝恵の名前を問うてくれたことが、どれほど誇らしく、また心地良く感じたか。商店街では常に『ミヤコ屋さんの子』で、家族以外に名前を呼ばれるのは、初めてだったから。最初店の前に立ったとき、身震いしていたことなんて、一瞬で吹っ飛んでしまった。


 それから度々、真雅は朝恵の相手をしてくれた。手伝いで訪ねるといつも何やらくれるし、裏で出会うと面白い話を聞かせてくれるし。


 ――でも、朝恵の気持ちを決定付けたのは、これらの出来事のどれでもない。


 朝恵の気持ちが固まったのは、朝恵が五歳になる年のある日――朝恵が交通事故に遭いかけた事件がきっかけであった。





 その日母は、幼稚園のバスが到着する時間に出迎えが出来なかった。確か、商店街の用事があったのだ。父は店を外せない。それで、朝恵は一人で店に向かったのだ。それまでもずっと、誰も迎えに来ない日はそうしていたから、この日もいつもと同じように店に向かうだけだと朝恵は思っていた。


 青信号になるのを待って、左右を確認してから横断歩道を渡り始める。商店街の方へと少し足を進めたそのとき、前方から真雅が歩いてくるのが見えた。おにいちゃん、と朝恵が呼びかけようとしたそのときだった。――真雅の顔色が変わったのは。


 ――気がついたときには、朝恵は歩道に投げ出されていた。軽く打ったお尻が痛い。他にもあちこち痛かったが、朝恵は目の前の光景に、声も出なかった。


 朝恵のすぐ側に、真雅が、倒れている。――真っ赤な血を、流して。


 頭を打ったのか、いつも頭に巻いているバンダナも血だらけだ。それよりももっと酷い状態だったのは足で、タイヤ痕の残る真雅の右足は、ずたずたであった。歩道は流れたおびただしい量の血で、赤黒く染まっている。


「おにい……ちゃん……」


 そのときには周りも大騒ぎになっていた。「事故だ!」「トラックの轢き逃げだ!」「誰か、救急車を呼んで!」「警察もだ!」それでも真雅は目を覚まさない。その瞳を閉ざして、倒れたまま。


「――おにいちゃん!」


 朝恵は真雅に駆け寄った。お兄ちゃんを起こさないと。その身体を揺すろうと手を伸ばそうとしたら、側に来た知らない男の人に止められた。


「止めた方がいい。多分彼は頭を打っている。そこに振動をかけるのは、危険だ」


「でも……!」


「大丈夫。もう救急車を呼んでくれているから。――この人は、お嬢ちゃんの知り合いかな?」


「うん……。おにいちゃん、だいじょうぶなの……?」


「きっと大丈夫。救急隊の人が助けてくれるよ。――そうか、お嬢ちゃんの知っている人だったんだね。だから、彼はあんなに必死だったのか」


「……え……?」


「彼は、お嬢ちゃんを庇ったんだよ。全力で走ってお嬢ちゃんを抱えて、歩道に飛び退こうとした。でも二人で逃げるまでの時間はどうも無さそうだとわかったそのときに、彼は躊躇ためらいなく自らの身体を盾にしたんだ」


 そんな――目の前がゆらゆらと、次々に流れ落ちてくるもので滲んでくる。


「お嬢ちゃん、名前とお家は言えるかな? お家の人を呼んで、事情を説明しないと――お嬢ちゃん?」


「やだ……おにいちゃん、おにいちゃん……!」


 身体を揺らしてはいけないと言われたから、その場に座り込んで朝恵は泣きじゃくった。胸が張り裂けそうだ。まさか、朝恵を庇った結果、こんなことになったなんて。


「……そんなに、泣くな……」


「――おにいちゃん!」


 そのとき、真雅の瞳がうっすら開いた。いつもより力は無いが、鋭い黄色の瞳が朝恵をじっと見つめている。


「……大した事は、無い……だから……な……」


「そんな無茶をするな。ほら、救急車が来たから。お嬢ちゃんも、さあ泣き止んで」


 救急車のサイレンがだんだん近付いてくる。周りの大人たちに促されて朝恵は立ち上がったが、真雅が救急車に乗せられていくまで、一歩も動けなかった。


「そろそろ行こう。さっきの彼から、お嬢ちゃんのことは聞いたよ。朝恵ちゃんと言うんだね? さあ、ミヤコ屋に一緒に行こう。事情は全部僕が説明するからね」


 現場に居合わせた男の人に連れられて、朝恵は店に行った。――大人同士の話はよくわからなかったが、事情を聞いた父の顔色が蒼白だったのだけは、今もよく覚えている。


 朝恵はすぐにも真雅のお見舞いに行きたかったが、両親からなかなか許可は出なかった。ようやく許可が出て、母親と一緒にお見舞いに行ったときには、真雅はだいぶ元気そうになっていた。


「おにいちゃん。たすけてくれて、ありがとう……!」


 両手いっぱいの花束を真雅に渡すと、真雅は少し照れたような笑みを浮かべた。


 母が、持ってきた花束を空だった花瓶に生けに行っている間に、少しだけ二人きりで話をする。


「おにいちゃん。ほんとにもうだいじょうぶ?」


「ああ、大丈夫だ。……あのときも、大した事は無かったんだが、救急隊員が俺様を返してくれなくてな」


 真雅は大きな手で、朝恵の頭を撫でた。


「俺様は、朝恵ちゃんが無傷で良かった。……それだけだ」


 視線があった。――穏やかな、とても綺麗な黄色い瞳と。その目は、こんなときでもとても優しくて。何故だか朝恵は泣きたくなった。


 身体のあちこちに包帯が見える。大丈夫なわけがない。大したことが、ないわけない。


 ――それでも決して痛いとは口に出さず、ただ優しい真雅の側にずっといたいと、このとき初めて朝恵は思った。顔も綺麗だけど、何よりもとても心根が澄んでいて優しい、こんな人のお嫁さんに、なりたいと。お嫁さんになったらきっと、痛いとか辛いとかも、言ってもらえると思うから。


 真雅の入院は、周囲の皆が考えていたほどには長引かなかった。本人曰く、退屈だから帰ってきたとのことであったが。


 真雅が退院して少し経ったある日、朝恵は真雅に伝えた。――おにいちゃんの、およめさんになりたい、という自分の気持ちを。


 少し目を見開いた真雅は、一瞬考え込んでから、こう言ってくれた。――大人になっても、そう思っていたらな、と。


 二人だけの、秘密の指切り。初めての、約束事。


 指切りをしながら、真雅はどこか痛そうな瞳をしていたのは、何故なのだろう――?


 それは今も朝恵の中に解消されずに残る、疑問だったりする。





 色々物思いにふけりながらぼんやりしているうちに学校の授業は終わり、下校時刻となった。


 いつも通り、朝恵はランドセルを背負ったまま、店の裏口へと向かう。


 もうすぐ店の裏口に着く、というところまで来たそのとき、朝恵は外に真雅が立っているのに気付いた。打ち水には少し早い時間だ。何をしているのだろう?


「おにいちゃん、こんにちは!」


「こんにちは、朝恵ちゃん。――学校帰りか?」


「うん。いまおわってかえってきたの」


「そうか。――お帰り」


 真雅は鮮やかに笑う。よく見たらその手には何かを提げていた。


「おにいちゃんも、どこかにいってたの?」


「そうだな。ちょっと、仕入れるものがあったからな。車で出掛けていた」


「……おにいちゃん、くるまにのれるの?」


「乗れるぞ。こう見えても俺様、免許を持っているからな」


 真雅は運転免許証を見せてくれた。両親の持っているものと、同じデザインだ。ただ、両親のものとはどこか違う気がするが。


「うーん……おとうさんやおかあさんのとは、どこかちがう」


「――そうか?」


「うん。あとでおとうさんとおかあさんのも、見せてもらうね」


 朝恵は真雅の顔を見上げる。いつも綺麗な、鋭くて冷たそうにも見えるが、実はとても優しい人の顔を。


 ――うん、まだわたしのきもちはかわってないよ、おにいちゃん。


 もし、真雅にラブレターをいつか書けるとしたら、わたしは何て書くだろう?


 裏口から店に入っていきながら、そんなことを朝恵は考えていた。

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