day2 喫茶店(お兄ちゃんの名前)
「おとうさん、おかあさん、ただいま!」
真新しいランドセルを背負った
「お帰り、朝恵。偉いな、ちゃんと宿題か?」
声が聞こえてか、奥に顔を出した朝恵の父は破顔した。
「うん。しゅくだいをやってからじゃないと、あそんじゃいけないんだよ」
「そうだな。よし、父さんも朝恵の邪魔をしちゃいけないな」
首から下げたタオルで額の汗を拭くと、朝恵の父は店へと戻って行った。父の背を見送ってから、朝恵はプリントを広げる。今日の宿題は習ったばかりの漢字の練習だ。難しい顔をしながら、朝恵は鉛筆を懸命に動かす。朝恵は早くもっとたくさんの字を覚えたいのだ。
漢字のプリントを全部埋めてしまうと、朝恵はプリントをファイルの中にしまった。これで宿題は終わりだ。あとは楽しい自由時間である。
今日は何をしようか。学校の図書室で借りてきた本を読もうかと、手提げカバンに手を伸ばしたそのとき、店の方から母の声がした。
「朝恵。宿題は終わった?」
「うん! おわったよー!」
両親が呼んでくれたときは、店の方に行っても構わないという約束だ。靴を履くと、朝恵は店の方へと向かう。
「なに、おかあさん?」
「お手伝いを頼める? この回覧板を、清遊堂さんに持って行ってほしいんだけど」
朝恵の母は、手に持ったボールペンで何やら書き込みながら、朝恵に回覧板を示してみせた。
「おにいちゃんのところでしょ? いいよ。じゃあ、いってくるね」
朝恵は回覧板を受け取ると、店の表から外に出た。
商店街は今日も賑わっている。回覧板を両手に抱えて、朝恵はすぐ隣の店――
清遊堂は骨董品屋ということもあってか、静かなことが多い。
この日もそうだった。どこか古めかしく見える看板が出迎える店の入口は、しんとしている。よく知らない者が見たら、店休日かと思うほどに。
だが朝恵は知っている。清遊堂が休みの日は、ちゃんとその旨の札が出るのだ。今日はその札が無い。だから、お兄ちゃんは店にいるはずだ。
よいしょ、とひんやりした扉に手をかけて、朝恵は店へと入った。
「いらっしゃいませ。――ああ、朝恵ちゃんか」
朝恵の思ったとおり、お兄ちゃんはすらりとした足を組んで、レジの側に置かれた椅子に座っていた。朝恵の姿を認めると、立ち上がって出迎えてくれる。
「今日は何の用だ?」
「あのね。――はい、おにいちゃん。かいらんばんです」
「家のお手伝いだな。いつも感心するぜ」
お兄ちゃんは朝恵の手から回覧板を受け取ると、立ったまま中にざっと目を通した。
「これは急ぎか――」
レジのところに備え付けてあったペンを手に取って、朝恵の母と同様にお兄ちゃんは回覧板に何やら書き込む。
「朝恵ちゃんに、お手伝いのご褒美をあげないとな」
お兄ちゃんは引き出しを開けて中を確認すると、軽く舌打ちをした。
「――そうだった。飴は丁度切らしていたんだ。俺様としたことが、しくじったな」
「……わたし、いらないよ?」
毎回、お兄ちゃんに飴だとかお菓子をいろいろ貰うのも悪いと両親は言っていた。だから朝恵はそうお兄ちゃんに伝えたのだが、お兄ちゃんは首を振った。
「いや。そういうわけにもな。――そうだ。朝恵ちゃんにはこれから予定があるか?」
「よてい? なにもないよ?」
「そうか。――じゃあこれから、俺様とちょっと出掛けよう。そろそろ行こうかと思っていた頃合いだったんだ」
「どこへでかけるの?」
お兄ちゃんとお出かけ。一体どこへだろうか。
考えこんでいる朝恵に、お兄ちゃんはにっと笑って告げた。
商店街の喫茶店だよ、と――
回覧板を片手に持ったお兄ちゃんと一緒に、清遊堂を出た。
「これでよし、と」
『現在不在。急ぎの用件がある方はこの番号へ』
そう書かれた札を扉に出して、店に鍵を閉めてから、お兄ちゃんはゆっくり歩き出した。
まずは隣の文房具屋『
「園城さん。清遊堂です」
「ああ、回覧板だね。――おや? 横にいるのはミヤコ屋のお嬢ちゃんじゃないか。どうしたんだい?」
「ちょっと、ね。――さあ、行くか」
それからお兄ちゃんは、朝恵の家であるミヤコ屋を覗いた。
「ミヤコ屋さん。お嬢さんを少しお借りします」
「あら、清遊堂さん。うちの娘ならいくらでもどうぞ。――朝恵、清遊堂さんの邪魔をしないようにね」
「はーい!」
母に手を振ってから、朝恵はお兄ちゃんと一緒に更に歩く。お兄ちゃんは朝恵よりだいぶ背が高いし歩幅も大きいのだが、不思議なことに、一緒に歩いても全然しんどくなかった。
短冊を書いたりする人がいて賑わう広場を抜け、二番街に入る。喫茶店『はるかぜ』は二番街と一番街の境目にあった。
「いらっしゃいませ。――おや? 珍しい取り合わせだ」
カラカラン、という軽いベルの音と共に喫茶店の中に入ると、喫茶店のおじさんが笑顔で出迎えてくれた。
「清遊堂さんはそろそろ来るかと思っていたが、ミヤコ屋さんのお嬢ちゃんまで一緒か。――まさかナンパか、清遊堂さん?」
「俺様に付き合わせたんだ、お手伝いのご褒美を切らしてたから。――そこ、いいか?」
「空いてるとこならどこでもいいよ」
お兄ちゃんが窓際の空いているテーブル席に座ったので、朝恵はお兄ちゃんの向かい側に座った。――思えばこの喫茶店に入るのは初めてだ。喫茶店のおじさんは勿論知っているが、両親に喫茶店へと連れてもらうことはなかったので。
「何にする?」
お兄ちゃんが朝恵の前にメニューを開いてくれる。ドリンク類に、ケーキにパフェ。サンドイッチにパンケーキと、朝恵が思い描いていた以上に喫茶店のメニューは多かった。
「おにいちゃんとおなじでいいよ」
「俺様と同じか? 朝恵ちゃんは、昼食をもう食べているんじゃないか?」
「うん、たべたよ。――おにいちゃんはいまからおひるごはん?」
「ちょっと遅い、な。だから俺様に合わせずとも、好きなものを選べばいいぞ」
そう言ってもらっても迷う。朝恵が難しい顔をしていたら、二人分の水を持ってきてくれた喫茶店のおじさんが口を挟んだ。
「清遊堂さんがそう言ってるんだ。気遣いせずに、好きなものを好きなだけ頼んでやればいいと思うよ。山ほど頼んで焦らせてやれ。――それにしても、お兄ちゃんって呼ばせてるのか、清遊堂さん?」
「生憎、俺様の名前は少々ややこしいからな。朝恵ちゃんの呼びやすい呼び方でいいだろう」
「まさか名前を教えてないのか? ミヤコ屋のお嬢ちゃん、清遊堂さんの名前は?」
「しらないよ? おにいちゃんがむずかしいっていってたから」
朝恵が答えると、喫茶店のおじさんは天を仰いだ。あちゃーと呆れたような声を漏らしながら。
「そりゃあ、あの名前はお嬢ちゃんには難しいだろう。でもな、清遊堂さん。それと名前を教えてやらないのは別問題だよ。これを良い機会だと思って、教えてやりなよ」
お兄ちゃんは鋭い瞳を閉じてしばし考え込んでいるようだったが、しばしして、ひとつ頷いた。
「それも……そうだな。――はるかぜさん、メモ用紙とペンを借りるぜ」
「どうぞどうぞ」
お兄ちゃんが名前を教えてくれる。席を立って、メモ用紙とペンを取りに行ったお兄ちゃんの姿を目で追いながら、朝恵は胸が自然と高鳴ってくるのを覚えたのだった。
先に注文をしてから、お兄ちゃんはメモ用紙を朝恵の前に広げる。
「朝恵ちゃんは、漢字はどのくらい知ってる?」
「学校でならったことと、あとは本に出てきたかんじはわかるよ」
「それだけわかれば上出来だ」
お兄ちゃんは紙にペンを走らせた。黄真雅。――とても綺麗な字だ。学校の先生より達筆かも知れない。
「これが、俺様の名前だ。――読めるか?」
「ううん。わかんない。なんてよむの?」
項垂れて首を横に振る朝恵に、お兄ちゃんは微笑んでくれた。それでいいんだ、というように。
「わからなくて当然だから、そんなに落ち込まなくていい。――この字は、色の黄色という意味だな。『こう』と読む」
「おにいちゃんの目のいろ?」
「そうだな。朝恵ちゃんは理解が早くていい。次の字は嘘や偽りの無いことを示す字だ。『しん』と読む」
「うん。うそじゃないってことは、ほんとうってこと?」
「――その通りだ。よくわかるな。最後の字はみやび――まあ、上品とか風流という意味の字だ。俺様の名前での読みは『が』だ。
確かに難しい名前だ。でも教えてもらえたという幸せが、何にも勝った。胸がいっぱいになってくる。
「あのね、おにいちゃん。どこまでがみょうじで、どこからがなまえ?」
「いい質問だ。この名前は、
お兄ちゃん――真雅は鋭い瞳を細めて鮮やかに笑んだ。教えてもらえた名前は、ちょっと難しくて、ちょっと変わっていたが――お兄ちゃんにとてもよく似合っている名前だと、朝恵は感じた。
「しんがおにいちゃんってよべばいいの?」
「それは、朝恵ちゃんの好きにすればいい。朝恵ちゃんの呼びやすい呼び方で呼んでくれれば、俺様それで構わないからな」
「うーん……じゃあ、やっぱりおにいちゃんにしておくね。ありがとう、おにいちゃん。わたしになまえをおしえてくれて」
「いいんだ。教えていなかった俺様も悪いからな」
「その通りだよ。全く、妙なところが抜けてるな、清遊堂さんも」
そこに、喫茶店のおじさんが注文の品を運んできた。朝恵の前にチョコレートパフェを置いてから、真雅の前にサンドイッチとホットコーヒーを並べる。
「抜けていたんじゃない。俺様、最初に名を問われたときに朝恵ちゃんがまだ幼稚園にも行ってなかったから、俺様の名は難しいと答えたまでで」
「それはただの言い訳だね。教える機会なんていくらでもあっただろうからな」
喫茶店のおじさんに矢継ぎ早に言われ、真雅は少し不服そうな顔をした。――朝恵の初めて見る顔だ。お兄ちゃんでも膨れることがあったのか。でも、その顔がちょっと可愛いと言ったら、お兄ちゃんは怒るだろうか?
「まあ、どうぞごゆっくり。お嬢ちゃん、遠慮無くお代わりしてやったらいいよ」
喫茶店のおじさんはくすくす笑いながら、カウンターの方へと引っ込んで行った。
「……まあ、お代わりは本当に自由にして構わないぞ」
「おにいちゃん。わたし、そんなにたべられないよ?」
「そうか。……遠慮は、必要無いからな」
「ありがとう、おにいちゃん。――いただきます」
長いスプーンを手に取ると、朝恵はチョコレートのかかった生クリームを掬い取る。とても甘くて、美味しいクリームだ。――きっと大好きなお兄ちゃんと一緒だから、いつも以上に美味しいと感じるのだろう。
しばし夢中で食べていたが、あることを尋ねるのを忘れていたのを思い出して、朝恵はスプーンを置いた。
「……あのね、おにいちゃん」
「ん? どうした、朝恵ちゃん」
「このメモね。わたしがもってかえってもいい?」
先程、真雅の名前を書いて一文字一文字意味まで教えてもらったメモ用紙を指さして、朝恵は問いかける。真雅はコーヒーの入ったカップをソーサーに置くと、口の端をあげて小さくひとつ頷いた。
「そんなのでいいなら、朝恵ちゃんの好きに持って帰るといい」
「ありがとう、おにいちゃん!」
顔を上げて朝恵がお礼を言うと、真雅の長い指が朝恵の口元につと伸びてきた。
「この顔で帰ったら、ご両親が笑うぞ」
その指は朝恵の口元についていたクリームを、そっと拭い取ったのであった。
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