day1 夕涼み(ミヤコ屋のお嬢さん)

「おばちゃん、トマトをみっつください!」


「あらあら、ミヤコ屋さんのお嬢ちゃんじゃない。――はい、これね」


「ありがとう!」


 代金を支払ってお釣りとトマトを受け取ると、おさげにした三つ編みを揺らして斎藤朝恵さいとうともえは歩き出す。勝手知ったる、人で賑わう商店街を。


 ここは彩花商店街あやはなしょうてんがいという名の商店街だ。朝恵はここにある衣料品店『ミヤコ屋』の店主の娘である。幼い頃からこの商店街で育った朝恵は、商店街の皆にいつも温かい目で見守られていた。


 七夕が近いから大きな笹が飾られた広場を抜け、商店街の三番街に入る。ミヤコ屋は三番街の中ほどにあった。斜向はすむかいのお茶屋さん『まつだや』から、茶葉を蒸らした良い香りが漂ってきている。


「おかあさん、ただいま!」


「お帰り、朝恵。ちゃんと買えた?」


 店頭の服を畳み直す手を止めて、朝恵の母がにこにこと朝恵に問いかけた。


「かえたよ。はい、トマトみっつ」


「ありがとう。――じゃあ、これを奥の冷蔵庫に入れてから遊んでらっしゃい」


「はーい」


 朝恵はトマトの入った袋を提げて、店の奥へと向かう。店の奥は少し休めるスペースになっているのだ。ここが朝恵の巣でもある。朝恵は今年で七歳、お店の邪魔はしてはいけないと日頃から両親に厳しく言われているのだ。


 冷蔵庫にトマトを入れてから、冬にはこたつになるテーブルへと向かう。学校の宿題はもう全部やってしまった。朝恵は手提げカバンから本を取り出すと、真剣な眼差しで読み始めた。




 しばらく静かに本を読んでいたが、窓からの陽射しがオレンジ色になってきたのに朝恵は気付いた。


 夏の陽射しが、じりじりと部屋に差し込んでくる。――ちょっと、暑い。


 お店に出るのは用事があるとき以外、駄目だと言われている。朝恵は立ち上がってキュロットスカートをなおすと、裏口から外に出た。


 外の空気も熱気を帯びていたが、部屋の中よりは幾分か涼しく感じる。朝恵はひとつ伸びをして、大きく深呼吸をした。


 空を見上げると、だいぶ低い位置に太陽がある。青とオレンジになっている空を朝恵が眺めていたそのとき、涼しい風がそよそよと吹いてきた。周りの空気はまだかなり暑いというのに。


 涼しい空気の漂ってくる方を朝恵が見ると、一人の男がバケツを片手に何やらしていた。


 痩身の男の背はすらりと高い。ウェーブのかかった艶やかな長い黒髪をおろしているのと、黄色――シトリンの鋭い瞳が特徴的な男だ。その肌はぬけるように白く、すっと通った鼻筋と形の良い唇を持ち、額には派手なバンダナを結んでいる。ヘンリーネックの七分袖のシャツと、ロングブーツにブーツインしたスキニーパンツが男にはよく似合っていた。


「おにいちゃん!」


「ん? ――ああ、朝恵ちゃんか」


 朝恵が呼びかけると、お兄ちゃんは端整な顔に笑みを浮かべてくれた。このお兄ちゃんは、朝恵の両親がやっているミヤコ屋の隣にある骨董品屋『清遊堂せいゆうどう』を営んでいる男である。清遊堂は、朝恵が生まれて少しした頃に出来た新しい店だ――と、朝恵の両親は教えてくれた。ただ、どうやって荷物の搬入などを行ったのかが、全くわからないのだそうだが。搬入の車が来ていたと言うこともなく、気付けば、店が営業出来る状態になっていたのだそうだ。他にも、清遊堂とこの店主の男には不思議なところがいろいろあるのだそうだが、朝恵にとっては『大好きなお隣のお兄ちゃん』なのだ。確かに瞳の色は見ない色だが、他は一体どこが他の人と変わっているのかも、よくわからない。


 ところで、この男の名前を朝恵は知らなかったりする。名前を尋ねたことはあるのだが「俺様の名は、朝恵ちゃんにはちょっと難しい名前だな」と言って、教えて貰えなかったので。


 名前は知らないが、お兄ちゃんと呼べばいつも応えてもらえる。だから、本当の名前を教えて貰えるまでは、お兄ちゃんと呼んでいればいいかと朝恵は思っているのだ。


「おにいちゃん、なにしてるの?」


「ああ、これか。――これは、打ち水だな。今日は暑いから、丁度良い」


 お兄ちゃんはバケツの中に入っていた柄杓ひしゃくを、指輪をたくさんした大きな手で持つと、水を撒いた。不思議なことに地面が濡れると、そこからひんやりとした空気が立ち上ってくる。


「うち水って、水をまくことなの?」


「そうだな。こういう暑い日の夕方頃に、水を撒いてやると涼しくなるんだ。――朝恵ちゃんも、やってみるか?」


「いいの?」


「勿論、構わないさ」


 お兄ちゃんは朝恵に柄杓を渡してくれた。朝恵はお兄ちゃんの真似をして、バケツの中になみなみと入っている水を柄杓で掬うと、道路のまだ濡れていない場所を選んで、水を撒く。


「わあ……!」


 ふわりと漂ってきた涼しい空気に、朝恵は目を輝かせた。暑さが少し和らいだのに心地よさを感じて、更に打ち水をした。お兄ちゃんはそんな朝恵の姿を、微笑わらって見つめている。


「ここで本をよんだらきもちよさそう!」


「――やってみるか? 椅子くらい、俺様のとこから持ってきてやろう」


 お兄ちゃんが椅子を運んできてくれたので、朝恵はさっきまで読んでいた本を急いで部屋から持ってきた。


 少しずつ光が夕焼け色になりつつある中、朝恵は本を開く。涼しい空気に包まれての読書は、想像以上に気持ち良い。


「――何の本だ?」


「えっとね。おりょうりの本なの。これはハンバーグつくりが出てくるおはなしなんだよ」


「ハンバーグか。……たまにはそんな夕飯もいいかもな」


 もう一脚運んできた椅子に、すらりと長い足を組んで座ったお兄ちゃんはそうぽつりと漏らした。


「おにいちゃん、ハンバーグがつくれるの?」


「まあ、作れるな」


「おにいちゃん、すごい! わたしもハンバーグ、つくってみたいの」


「朝恵ちゃんも、そのうち出来るようになるさ」


 朝恵が話す本のことや料理の話を、お兄ちゃんは相槌を打ちながら全部聞いてくれた。――お兄ちゃんはハンバーグだけではなく、シチューやグラタンも作れるらしい。今度はお菓子の話もしてみよう。お菓子作りをする本も、朝恵は持っているのだ。


 柔らかな光の中、涼しい風が吹いている。二人で打ち水をしたから、なおのことだ。


 とても心地の良い、夕涼みのひとときであった。

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