第4話 森

 バスに揺られながら、流れていく町の風景を見ていた。中央区は住宅街、商店街、オフィスビルや学校が『管理棟』を中心に立ち並び、人通りも多い。逆に、北東区になると建物は疎らだ。バスからは、人影一つ見えない。時々大きめの工場が見える以外は、基本田畑が広がっている。

 町の最外縁のバス停で、十キロはあるリュックサックを背負って降りる。周りには僕ら二人以外、誰一人いない。

「重すぎるだろ……。これで四日歩くのか」

彼は出発時からまだブツブツ文句を言っている。僕は無視して、地図を確かめ、遠くに見える森に向かって歩き出す。あれは人工林だろうか、それともこの町は森を切り開いて作られたのだろうか。

「そっちであってるのか?」

「ああ。とりあえず進路は僕が決めて歩く」

「僕もだいたい方角は分かるけど、じゃあ、ついていくか」

十分程ほど歩き、森の入り口に着いた。高さ三十メートルはある針葉樹林。鳥の声も、虫の声も聞こえない。中は真昼なのに真っ暗で、全く先が見えない。

「これはやばいだろ。これに突っ込むつもりか?」

彼があきれたように僕の顔を覗き込む。

「地図では普通に歩いて三十分で抜けられるけど、こんなに深いとは思わなかった。電波も全く届いてなさそうだな」

「で、行くのか?」

「行く」

「明かりは?」

「持ってない」

「正気か?」

「ああ」

正直言って、背中がひやりとする。あんなに不気味な闇は見たことが無い。だけどなぜがあの闇は、僕らの町のどんなものよりも鮮明なものに見えた。直接目に飛び込んでくるような、むき出しの闇だ。自然に、暗闇に歩み入る。木漏れ日すらない。地面にはほとんど植物は無く、やわらかい土の感触だけを感じる。歩きにくくはない。気づくと入り口の明かりは無くなり、完全に闇に包まれていた。手探りで、時々木を避けながら、できるだけまっすぐ進む。

「何にも恐れず突き進んでいくやつってのは、別に勇気があるわけじゃない。想像力が無いだけだ。要は、何も考えてない」

いつかこんなことを聞いた。言ったのは彼だったと思う。いつかは忘れた……。何も考えてない?今の僕もそうなんだろうか。確かに、そうかもしれない。本当の恐怖を前にすれば、誰だって頭が真っ白になるだろう。

「想像力が、人を最後に救ってくれるんだ」

これも彼が言っていた。背中の寒気が肩と腕に伝わる。胸、腹に広がっていく。

 五感が研ぎ澄まされていく。何も見えないはずだ。何も、聞こえないはずだ。この森は。でも全てが見え、聞こえるように思える。進むにつれて冷気が深くなっていく。よどむ冷気、流れる冷気、その密度の違いさえ、鮮明に肌が捉える。次はどんな冷気を感じるだろう。新しい感覚を求めて、夢中で歩き続ける――

「おい」

彼がすぐ後ろから呼んだ。

「どうした?」

「誰かいる」

「本当か?」

「ちょっと止まれよ」

僕は立ち止まった。確かに、かすかな衣擦れのような音が聞こえる。しかしどこから聞こえるのかは分からない。

「人か?」

「この森に、動物なんていない」

彼が早口で答える。音はだんだん近づいてくる……。寒気が全身を駆け巡る。体中が熱くなり、汗が滲む。

「いこう」

彼が僕の服を雑につかみ、早歩きで歩き出した。

「おい、方向は分かってるのか?」

僕はよろめきながら彼に聞いた。

「森に入ってから分かってない。君がふらっと入るからあわてて追いかけた。もう出口も分からない」

「……それは悪かった」

「で、あの音は何?」

「もしかしたら、救世主かもしれない」

「救世主? ああ、案内人か……。でもそれなら声かけてくれりゃいいのに」

「無言で近づいてくるあたり怖いな」

彼は立ち止まって、手を放す。耳を澄ますと、もう音はしない。多少は目が慣れてきたようで、周囲の木々はうっすら見える。

「これからどうする?」

彼が吐き捨てるように言い、どさっ、と座り込む音がする。

「一応磁石はある」

僕はポケットからコンパスを取り出し、携帯の光を当てた。針をじっと見る――

「コンパスなんて意味ないから」

はっとして見上げた。彼の声じゃない。突然現れた異質な声。その少し尖った口調に似合わない、女性の声だった。

「誰?」

彼が叫ぶように尋ねた。

「君らが誰?」

不機嫌そうな声が響く。僕は黙って目を凝らす。

「えーっと、隣の町に行こうと思って、そのために森を抜けなくちゃいけなくて……」

彼が恐る恐る答える。

「アホなの?」

「あ、はい。アホなんです……」

彼が声の方に向かって頭を下げている気がする。

「ふーん。なるほど。それで結局、方角も分からずうろうろしてると」

「今確かめようとしてた」

僕は声に向かって反論する。僕はなぜか、相手の少しきつめの口調を聞いて、逆にほっとしていた。

「だからコンパスじゃ無理だって」

「なんで?」

「……とりあえずついて来れば? ここは暗すぎる」

彼女が立ち去る気配がした。慌てて荷物をまとめ、目を凝らしてその姿を追いかける。僕らと同じぐらいの背丈。少し不安はあるが、もうすがるしかない。彼も黙ってついてきている。僕は歩きながら、彼女の背中に問いかけた。

「さっき僕らを追ってたのも君?」

「はあ?」

「僕らは何か変な音を聞いて、それでさっきのとこまで……」

「逃げてきた?」

「そう」

「それは私じゃない。動物でもない。ここにでかい生き物はいない。この森はちょっとおかしい」

「君はじゃあ、何でここに?」

「ここに住んでるだけ。もう黙ってて」


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