第3話 塔
翌朝、外に出ると雨はすでにあがり、地面は乾いていた。彼は今日も朝早く、自分の部屋から出てきて、どこか気だるげに出ていった。少し歩いて、久々に彼が通っている学校を訪れる。なんとなく、どんよりとした空気が流れている。無機質な灰色の外壁に、足の進みが鈍る。よくこんなところで勉強ができるな……。足を引きずるように歩き、やっと教室が並ぶ廊下に出た。相変わらず控えめに、ひそひそと鬱陶しい雑音が耳に障る。切れ切れに教室から漏れてくる、不安も熱も感じられない、ただ無感情な音。ここに、彼みたいに夢を追っている人は何人いるんだろうか……。いや、そんなことはどうでもいい。休み時間の教室をのぞいて回る。手掛かりはあの時の顔と、女性だったことと、この学校にいたらしいということだけ。よく考えたら、手掛かりが少なすぎる。この学校に通っているのかさえ、定かではない。余計足が重くなる。ああ、面倒くさい……。ふとあの日のことを、おぼろげに思い出す。
彼女は教室の隅で教師と向かい合っていた。まだ基礎教育課程の低学年だった時。授業の休み時間の数分だ。教師と彼女の顔が両方見えていた。僕らは遠巻きにしていた。何を言っていたのか分からない。ただ、教師はやんわりとなだめ、彼女が別の何かに怯えていたように見えた。周りで何人かが声を潜めて話していた。
「……森の中で見つかったらしい……」「……授業中、突然出て行ったって?」「頭がおかしいんだよ。別に珍しくない……」「……あの怯え様、森で怪物にでも出会ったんじゃない?」
僕は聞き流したが、何となく、あの光景は頭に残り続けていた。
一番奥の小さな教室を覗くと、彼がいた。教室には教師と彼の二人しかいない。薄暗い部屋だ。ぼそぼそとした講義の声が聞こえる。声は現れてはすぐ消える。沈黙が濃い湿気のように充満している。辛うじて見えたのは、机についている彼の後ろ姿だけ。
僕は想像する。どんな顔で授業を受けているんだろう。その授業は、楽しいんだろうか。僕は彼の丸まった背中に、心の中で尋ねる。なんとなく、目が離せなかった。廊下に足音が聞こえたので、あわてて彼から目を離し、別の教室へ向かった。
結局すべての教室を見ても、目当ての姿は無かった。どうしようか考えていると、背中にしわがれた声をかけられた。
「あなたは、隣町に、行きたいと、言っていましたね……」
振り向くと、町を出る件で相談した先生が立っていた。相変わらず死んだ目で、途切れ途切れに話す。僕が黙っていると、先生は続けた。
「『所長』が……今日、学校に、いらっしゃるので、聞いてみては」
「『所長』って誰ですか?」
「管理棟の、総、管理人です」
そんな人がいるとは、聞いたこともない。
「分かりました。どこにおられますか」
「さあ……」
「分かりました。ありがとうございます」
僕はこれ以上話したくなくなった。お礼を言って早々に立ち去った。
『管理棟』のトップらしき人物が関わるほどに大事にはしたくない。多少危険でも、やっぱり自力で行こう。どうせあの先生も事前に話を通すとかはしてないだろう。少し後ろめたくも、そのまま足早に学校を後にした。
「歩いて五日か……」
地図を眺めながら、彼が無表情でつぶやいた。案内人を諦めたことに、彼はあまり落胆した様子は無かった。夕暮れ、昨日と同じ芝生の上で、地図を見ながら、進むべき道を試行錯誤する。
「そもそもこの町もかなり大きいから、歩いたら出るのにも半日かかる。そこから町を囲っている森を抜けて、荒野を進む」
「全く舗装もされていない道をね」
「まあ、危険な生物もいないって言われてるし、死ぬことはない」
「町の端まではバスでいいだろ。問題は、食糧が持つかってことか……」
「というか君は授業は大丈夫か?あんまり休むと評価が下がるだろ」
僕は一番気になっていたことを聞いた。
「確かにそうだな……。考えておく」
返事を聞いて、もう一度地図に目を落とす。乗れるけど、自転車やバイクでは無理だろう。途中で瓦礫の山を越えなければならない。地図を拡大し、僕らが住む真円状の町を映す。碁盤の目状に区画された九つの区。北東に進むから、まずは今いる中央区から北東区の端までバスか電車で行くのが良いだろう。そこからはただひたすら歩く。途中で野宿になる。食糧は……適当に、非常食セットと水を持っていくか……。
計画を練っているうちに、気付けば面倒くさくなってくる。いつもの癖だ。膨らんだ想像がしぼんでいく。というか、押さえつけられるような感覚。そういう時はすぐに別のことを考える。そうすればこの無気力な感覚が少しは紛れるような気がするから。
顔を上げると、昨日と同じ場所から、遠くに木が見える。辺りはもう薄暗いけど、あの木は見間違いではなかった。あれは木だ。木って、なんであんな形をしているんだろう。なぜか変なことが気になった。太い街路樹。高さは五メートルくらい。太い根が少しだけ見えている。まっすぐ伸びた幹。そこから枝が広がり、茂った葉は夕日に黒く翳っている。そうか、幹だ。あの幹が不自然に思える。早く輪切りにして中を確かめなければ……。でも、中にいる奴らは切られる瞬間に地中に隠れて、息をひそめる。決して見つかることはない。
ふと横を見ると、彼は眠っていた。今日も一日中授業を受けていたらしい。さっきもぼんやりしていたように見えた。彼は、僕が今まで見た限り、いつも苦しそうに眠る。眉間にしわをよせ、眠っているのではなく、何か難しいことを考えている最中なのかとさえ思う。しばらくここにいよう。僕は彼の寝顔から目を離し、沈んでいく夕陽を眺めた。出発は、三日後ぐらいでいいか……。どうせ、時間はたっぷりあるんだ。
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