第2話 寮
学生寮の部屋に二人で戻ってくると、僕は急いで洗濯物を取り込みにベランダに出る。彼は冷蔵庫をガサガサ漁っている。
「今日の晩飯は、できれば温まるものが良い」
僕は彼の背中に声をかける。
「料理は僕が全部やってるんだから口出さないでくれ」
「その代わり僕は洗濯と掃除と皿洗いをやってる。あと、本の確保」
「最後のは君が好きでやってるんだろ……。とにかく、僕が食べたいものを作る」
「まあ、いつもどおりあんまり期待はしない」
「切り身が海を泳いでると思ってたやつがよくそんな……」
彼はブツブツ文句を言いながら何やら緑色のものをハサミでぶつ切りにし始めた。あんな料理あるのだろうか。僕は台所から目をそらした。
「だいたいなんでほとんど一緒に育ったのにこんなに得意分野に差があるんだろう」
まだ不機嫌そうに言っている。
「一緒に育ったから分担が基本になってるんだ。君が料理が得意かどうかは別にして」
「一言多いんだよ……」
僕は無視して、洗濯物を無造作に床にばらまき、椅子に座り、パソコンの電源を入れる。明日の授業はどうしようか。彼はいつもどおり行くだろう。僕にはあんな学校の授業に何の意味があるのか全く分からない。『基礎教育課程』でやることを繰り返してるだけじゃないか。あんな授業を二度も受けるくらいなら自分で本を読んだ方が絶対に良い。明日も『管理棟』に行こう。といっても、最近はあまりおもしろい本に巡り合えてはいないけど。
「閲覧申し込み」のフォームに必要事項を入力していると、彼が大きめの鍋を部屋の真ん中の台にどすんと置いた。彼の料理にしては、なかなかいい匂いはする。
「珍しく美味しそう」
「その通り。これは誰が作ってもうまくできる料理らしい。これが美味くなかったらレシピの方が悪いってことだ」
「そのレシピが想定している人間のうちに君が入ってたらね」
僕はスプーンで、香気を放つ茶色のどろりとした液体をすする。口の中に一気に辛味と甘味、そしてスパイスの香りが複雑に広がる。衝撃の美味さだ。
「なんていう料理?」僕は動揺を隠せずに聞いた。彼はにやにやして、「まず感想をもらおうか。そのあと教えてやる」と勝ち誇ったように言う。しかし僕がすぐに、素直に「美味い」と褒めたので、ちょっと拍子抜けしたように頷いた。
「これは、『ぞうに』というらしい。鍋に野菜炒めと水をぶちこんで沸騰させた後、この『ぞうにのもと』を溶かして煮るだけ」
彼は余ったらしい茶色い固形物を持ってきた。
「ちなみにこれはいつもの食材管理所のレジ横で、たまたま隅っこにあったのをなんとなく買った。レシピと料理名はそのあと先生に聞いたんだ」
「なるほど。そりゃ簡単だ」
僕は次々にスープを口に運ぶ。
「それにしても、君も暇だな」
「そりゃあ教養が終わった後は十一年間も自由があるし。僕らはあと六年だけど」
「正直、長すぎだと思う。君はずっと学校に通うのか? で、あのくだらない授業を受け続けるのか?」
彼は「もと」を冷蔵庫に入れて、僕の向かいに座った。
「教養が終わった後、実家でずっとだらだら過ごすやつもいるし、『外』に出て行って二度と帰ってこないやつもいるし、変な粉吸っておかしくなるやつもいる。そんなやつらよりはましだと思うけど。それに、僕の夢のためには仕方ないから」
彼はこめかみのあたりを指でなでている。
「そんな奴らの話はしてない。君は勉強に関してはすごいんだから、もっといいとこに行けばいいのに」
「正規で学者になれるのは、この道しかない。他のところは趣味でやってる人ばっかだ」
「それじゃ駄目なのか」
「予算がでかくて自由にやれるのは国のお抱えだけだ。そのためには国の教育機関の過程を修了しなくちゃいけない」
「教育が杜撰でも?」
「杜撰とは言ってない。ただ、他にやりようはあるはずだ……」
彼は顔を曇らせてため息をついた。
僕にはわからない。未来の自分なんて、なぜか想像しようとも思わない。今がそこそこ楽しければいい。他のことはどうでもいい。今思えば、基礎教育課程――僕らは、長いから『教養』と呼んでいる――の教員たちも、なんとなく義務感で授業してたな……。
「君はどうなんだ。このままずっと一日中本を読むかぼーっと考え事して過ごすのか? 別に僕は構わないけど」
彼が『ぞうに』をすすりながら聞く。
「そうするつもりだけど、ちょっと問題があって……」
僕らの町の管理棟は百冊の本を所蔵していて、そこにしか書籍の類は保管してはいけないことになっている。要はこの町にある本は百冊で全部で、僕はもう読みつくしてしまったのだ。面白くなくて放り出した本もあったし、何回も読んだ本もあった。そしてそんなことを繰り返しているうちに、さすがに飽きが来た。もう読むべき本は、この町には無い。
「なるほど。確かに君は『教養』時代からずっと何やら読んでた。僕もだいたい読んだけど、百冊しかないのか」
彼が感心したように言う。
「それに、よく毎回あの面倒くさい手続きをしようと思うよな」
本当に面倒くさいと思う。まず受付まで行くまでに三重の扉を通過しなければならない。もちろん長い通路の数十メートルおきに監視カメラが見張っている。さらに、本をリクエストして読むのは個人情報を提示すればすぐだが、返すときはなぜか承諾書を書かされた後、検査室に連れられ、心理テストみたいなものを受けさせられる。毎回だ。最初のころは面白いと思っていたが、最近はうっとうしく感じる。何かの研究に使うんだろうか。彼は「あの検査室は怪しい」と言って、自分は管理棟に行かず、僕が借りてきた本をちゃっかり読んだりしている。
「そこでだ」
僕はすでに空になっていた鍋を台所に持っていき、また彼の前に座った。そして神妙に宣言した。
「隣の町の本を読みに行こうと思う」
彼は黙っていた。しかしすぐに賛成した。
「確かに新しい本を読むにはそれしかない。管理棟は他の町とは提携していないし。それに僕も、別の町には行ってみたい」
彼は予想通り目を輝かせて、身を乗り出す。
「よし、僕の親か先生に頼んでみるか。行く手段がないし」
彼の言葉に、僕は首を振る。
「いや、本のついでに先生には言ってみたんだけど、露骨に嫌な顔をされた。相当面倒くさいんだろう。たぶん他の大人もそうだと思う」
僕はあの生気の抜けた目を思い出す。
「なら、自力で行くか」
「それしかない。別に禁止されてるわけじゃないし」
それでも話し合った結果、やはり未知の世界に丸腰で踏み出すわけにはいかず、案内役を探すことになった。
「僕らに同行してくれる人なんているわけないよな」
彼は嘆いたが、僕が
「心当たりがないことはない」
と言うと、さも意外だという風に目を見張った。
「教養時代のクラスメイトで、授業をさぼって『外』を探検してて、それで先生に叱られてた人を見た覚えがある。全然知り合いじゃないけど、まあ、『外』について何か知ってると思う。明日会いに行ってみる」
「居場所が分かるのか?」
「何度かこの学校で見たことはあるけど…」
「ふーん。じゃあ任せる」
彼はそう言うと、自分の部屋に入っていった。
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