#3:Abnormal.
体を起こすことが出来ないことに、パニックに陥りそうだったけれど、発熱していること
ベッドサイドまで何とか手を伸ばして、体温計を脇の下に差し込む。
【39.5℃】
発熱していること以前に、体を起こすことが出来ないこの状態がいつまで続くのか分からない。とにかく急いで連絡をしようと、少しだけ起こせる頭から腹上のスマートフォンを細目で見ながら、肘から下しか動かせない手で、何とかチャットを立ち上げメッセージを送る。
自分:おはようございます。どうしても体を起こすことが出来ません。熱も39.5℃あり出勤できそうにありません。本日は休ませてさせて下さい。申し訳ありません。
何とか状況報告を終えると、安心感からか急に睡魔が襲ってきて、そのまま意識を飛ばしてしまった。
目を覚ました時には、あれから三時間も経っていて時計は十時を回っていた。体はダルさが残っていたけれど、少しだけ動かせるようになっていて、スマートフォンを確認すると、通知センターにメッセージが三件届いていることが表示されていた。
届いていたメッセージの送り主は、三件とも支社長だった。
支社長:大丈夫!?
支社長:救急車を呼んだ方が良いかもしれないよ!?
支社長:電話したのに繋がらないけど、何かあった!?
そういえば、あの時からスマートフォンの設定は機内モードのままにしていたので、電話が繋がらなかったらしい。返信をする前に、もう一度体温を測っておいた。
【39.6℃】 熱は下がっていなかった。
生きていること、熱は下がっておらず起き上がれそうにないことを報告する。
『ご家族に連絡した方が良い』という気遣いに対しては、自分で連絡しておくと嘘をついて、やり過ごすことにした。
支社長には申し訳ないけれど、ありがた迷惑もいいところだった。
もう十年近くも帰っていない実家と、それと同じ期間会っていない家族に向けて、自分から連絡するということは、天地がひっくり返っても絶対に選択肢に挙がらない行為だった。
『きっかけ』は、些細なことの積み重ねとか、簡単に纏められるようなものではなかった。
物心がついた頃には、両親の仲は険悪そのもので、口を聞いている姿は、喧嘩をしている時だけでしか見たことが無かった。
教師だった父も、田んぼが広がる田舎町で育った母も、とてつもなく声の大きい人だった。
特に母は常に機嫌が悪くて、扉を閉める音は
二つ年上の兄とは、小学生の頃までは仲が良かったけれど、ボクが中学生になった頃には、成績が良くて『学校での勉強』が出来る優等生であった兄と、何かにつけて比較されることに嫌気がさしていた。
テストの点数や通知表の内容を、二人並んで父から講評される時間は地獄に落とされたようで、実際に
人格が形成されていく思春期の過程で、理数系だった兄は『何を考えているのか』ボクには全く理解出来ない人間になってしまって、いつしか会話も殆ど無くなっていた。そんな兄も、学区内で二番目の進学高校に入学すると、成績が落ち込んでいったようで、正直『ざまあみろ』と思ったことを覚えている。
応募倍率が一倍を切る高校への入学が決まった頃、家族の溝が更に深まる出来事が起こった。
父が誰にも相談することなく、認知症を患っていた祖母を施設から引き取って来て、我が家に連れ帰ってきたのだ。この時の両親の間に、どんな会話があったのか定かではないけれど、元より険悪だった夫婦仲は、喧嘩することすら無くなる『修復不可能』な所にまで飛んで行ってしまった。
母も週六日パートに出ていたので、祖母はデイサービスや、夜間のショートステイを利用することもあったけれど、家に居る時は父の部屋に押し込められていた。
いま思い返せば、もっと会話をしたりコミュニケーションを取れば良かったという後悔しかないけれど、認知症を患っていた祖母は、ボクの記憶にある人物とはまるで別人になっていた。
父以外の三人のことは記憶から完全に抹消されていて、デイサービスの無い日は、決まってどこかに徘徊外出していた。高速道路に続く坂道を歩いてるところを、タクシードライバーの方に保護されるなんて事もあった。
トイレに行けば必ず便器を汚して出てきていたし、常に糞尿の臭いを纏っていた。
小さい頃に、厳しくも優しく愛情を注いでくれた祖母のことを憎み、心底嫌いになっていた。
後に文献を読んだり、テレビ番組の特集を観て学んだけれど、徘徊…他人から見ると、ただあてもなく歩いているだけの様に見えるその行動には、本人にしか分からない意図があるらしい。
仕事に行くとか、買い物に行くというような、昔の習慣が体を動かしているようで、祖母もきっと『生きている目的を必死に探して歩いていた』のかもしれないと思うと、自分の無知さと愚かさを恥じた。
ボクが大学生になり、祖母が亡くなった時には『悲しい』ではなく『解放された』という感情を抱いてしまっていた。
不穏な緊張感が漂っていた家庭環境が、少しは良い方に向かうと信じていた。
でもそれは、祖母の納骨が終わったタイミングで、図っていたかのように口火を切った。
祖母の食事や着替え、恐らく
『私はあんたの何なんだ!』と父に離婚を突きつけ、父も父で大声で応戦していた。仲裁することも許されない、この夫婦の不毛とも思えるやり取りは、定期的に開催された。
『ボクが大学生を卒業したら』なんて言うワードが飛び出した時には、さすがに黙っていることが出来ず『ボクを理由にするな』と抗議したけれど、『関係ないだろ』と知性の欠片も感じないリアクションを返されてしまった。
もはや家族の体など成しておらず、ボクは両親や兄に何かを報告・連絡・相談することは無くなっていった。
一日も早く、この家から出て行きたかった。
色恋沙汰の話なんて以ての外、就職先についても何も語ることは無く、ボクは社会人になったと同時に一人暮らしを始めた。
そんな家庭環境で育ったこともあり、『家族』というものに憧れは無かったし、頼るべき存在ではなかった。別に不幸だとは思っていなかったし、それが
自分が育った家庭に対しての情なんてものは、これっぽっちも持ち合わせていなかった。
支社長にメッセージを送ると、また睡魔が襲ってきた。
次に目を覚ました時は、ちょうど正午を回ったところで、不思議と
コンビニで、梅のおにぎりとプリン、スポーツドリンクを買ってきて口に運び込んだ。おにぎりの米粒と乾いた海苔の形がはっきり分かるくらいに縮んでいたのか、食道と胃をチクチクと刺激してきたけれど、生きていることを実感することができて、少しだけホッとした。
今日は何もしないで明日に備えてゆっくり休もうと、早めにベッドに入ることにした。体温も37℃台まで下がっていたし、きっと明日は大丈夫だろうと思っていた。
朝を告げるアラームが鳴る。相変わらず眠ることは出来なかった。
既視感という概念を越えて、日常となったその状況には、昨日起こった新しい異変が伴っていた。
今日も、体を起こすことが出来なかった。
恐る恐る体温計を脇に差し込むと、下がったはずの熱が再燃していた。
「何なんだよっ…」
現実を受け入れる事が出来ず、思わず口に出してしまった。
また会社に連絡しなければならない。
もう何度目だろう。
弱っている自分を曝け出すことが、恥ずかしくて情けなかった。
ズル休みをしていると思われるかもしれない。
体温計の写真を撮って送ろうかと考えたけれど、動かない体では上手く撮ることができなかったし、馬鹿らしくなってやめた。
もう、新しく文面を起こすことも出来なかった。
昨日送ったメッセージをコピペして、『本日も』を文頭に置き、体温を今日のものに書き換えて、そのまま送信した。
送信ボタンを押すと、体の緊張が取れて睡魔がやってくる。返事を確認することなく、眠りについた。
支社長からは『了解』だけの返事が届いていた。
検索バーに『朝 起きれない 発熱』と打ち込み、自分の体に起きている異変について調べることにした。
起立性調節障害、心因性発熱、原因と治療法……etc
見たこともない単語が羅列されていた。それでも、熱が下がらないという理由を持って、再び内科を受診することにした。
問診で、この二日間の異変について話をすると、医師から『前回処方した睡眠導入剤の使用感』を聞かれてしまい、テーブルの下に追いやったその存在を、今の今まで忘れていたことに気が付いた。
「一度だけ飲みましたが、次の日に寝坊してしまって…それ以降は怖くて飲んでいません」
そう伝えると、医師はデスクトップのカルテに文字を入力する手を止め、ボクに正対して目を見て宣告した。
「心療内科を受診された方が良いと思います」
その思いがけない提案に、目を丸くしてしまった。一刻も早く受診することを薦められ、病院を後にした。心療内科を受診するにあたって、紹介状を書いてくれるなんてことは無かった。
『心療内科』という所に、今まで縁が無かったボクは、検索エンジンを起動して調べることから始めた。
どういった基準で選べば良いのか分からず、クチコミの評価と院内の清潔さで、四駅先の神保町にあるクリニックにWEB予約を申し込んだ。電話予約でしか受け付けていないところも多くて、事前にWEBから問診票を打ち込んでおけることも、そのクリニックを受診する決め手になった。
支社長には、内科医から心療内科を受診することを薦められ、明日の午後にクリニックを受診することをチャットで報告をした。
支社長から送られてきた返事は『了解』の二文字だけだった。
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