#4:Abnormal.

体を起こすことが出来ないことに、パニックに陥りそうだったけど、発熱していること理解することが出来ていた。ベッドサイドまで何とか手を伸ばして、体温計を脇の下に差し込む。


【39.5℃】


発熱以前に、体を起こすことが出来ない状態が、いつまで続くのか分からない。とにかく連絡をしようと、何とかチャットを立ち上げてメッセージを送る。


【おはようございます。どうしても体を起こすことが出来ません。熱も39.5℃あり、出勤できそうにありません。申し訳ありません】


何とか状況報告を終えると、安心感からか急に睡魔が襲ってきて、そのまま意識を飛ばしてしまった。




目を覚ました時には、あれから三時間経っていて、時計は十時を回っていた。スマートフォンを確認すると、通知センターにメッセージが三件届いていると表示されていた。三件とも支社長からのメッセージだった。


『大丈夫!?』


『救急車を呼んだ方が良いかもしれないよ!?』


『電話したのに繋がらないけど、何かあった!?』


そういえば、あの時からスマートフォンの設定は、機内モードのままにしていたので、電話が繋がらなかったらしい。返事をかえす前に、もう一度体温を測っておいた。


【39.6℃】 熱は下がっていなかった。


生きていること、熱は下がっておらず、まだ起き上がれそうに無いことをチャットに打ち込む。


『ご家族に連絡した方が良い』という気遣いに対しては、『自分で連絡しておく』と嘘をついて、やり過ごすことにした。支社長には申し訳ないけれど、ありがた迷惑もいいところだった。


もう十年近くも帰っていない実家と、それと同じ期間会っていない家族に、自分から連絡するということは、天地がひっくり返っても、絶対に選択肢にあがらない行為だった。


『きっかけ』は、些細なことの積み重ねとか、簡単にまとめられるようなもの


物心がついた頃には、両親の仲は険悪そのもので、口を聞いているところなんて、喧嘩をしている時だけでしか見たことは無かった。教師だった父も、田んぼが広がる田舎町で育った母も、とてつもなく声が大きい人だった。


特に母は常に機嫌が悪くて、扉を閉める音は爆発が起きたと錯覚する程の大音量だったし、ボクが3歳の時、母が投じた初代ゲームボーイが頭にクリーンヒットして、何針か縫ったなんて事件もあった。


二つ年上の兄とは、小学生の頃までは仲が良かったけれど、ボクが中学生になった頃には、成績が良くて『学校での勉強』が出来る優等生であった兄と、比較されることに嫌気がさしていた。テストの点数や通知表の内容を、二人並んで父から講評される時間は地獄に落とされたようで、実際に嘲罵されるのはボクだけだった。そんな時だけは、両親も結託しているかの様に、兄と僕を比較した。


人格が形成されていく思春期の過程で、理数系だった兄は『何を考えているのか』理解出来ない人間になってしまい、いつしか会話も殆ど無くなってしまっていた。そんな兄も、学区内で二番目の進学高校に入学すると、成績が落ち込んでいったようで、正直『ざまあみろ』と思ったことを覚えている。


倍率が1倍を切る高校への入学が決まった頃、家族の溝が更に深まる出来事が起こった。


父が誰にも相談することなく、認知症を患っていた祖母を、施設から引き取って同居させるべく、我が家に連れ帰ってきたのだ。この時の両親の間に、どんな会話があったのか定かではないけれど、元より険悪だった両親の仲は、喧嘩することすら無くなる『修復不可能』なところまにまで飛んでいってしまった。


母も週六日間パートに出ていたので、祖母はデイサービスや、夜間のショートステイを利用することもあったけれど、家に居る時は父の部屋に押し込められていた。


いま思い返せば、もっと会話をしたりコミュニケーションを取れば良かったという後悔しかないけれど、認知症を患っていた祖母は、記憶にある人物とはまるで別人になってしまっていた。


父以外の三人のことは記憶から完全に抹消されていて、デイサービスの無い日は、決まってどこかに徘徊外出していた。高速道路に続く坂道を歩いてるところを、タクシードライバーの方に保護されるなんて事もあった。


トイレに行けば、必ず便器を汚して出てきていたし、常に糞尿の臭いを纏っていた。


小さい頃に、優しくも厳しく、愛情を注いでくれた祖母のことを憎み、心底嫌いになっていた。


ボクが大学生になって、祖母が亡くなった時には、正直なところ『悲しい』では無く『解放された』という感情を抱いていた。不穏な緊張感が漂っていた家庭環境が、良い方向に向かうと信じていた。


けれどそれは、祖母の納骨が終わったタイミングで、図ったかの様に口火を切った。


祖母の食事や、恐らくしもの世話もしていた母は、何かがプツっと切れたかの様に、怒り狂っていた。『私はあんたの何なんだ!』と、父に離婚を突きつけ、父も父で大声で応戦していた。


仲裁することも許されない、この夫婦の、不毛とも思えるやり取りは、定期的に開催された。


『ボクが大学生を卒業したら』なんて言うワードが飛び出した時には、さすがに黙っていることが出来ず『ボクを理由にするな』と抗議したけれど、『関係ないだろ』と、知性の欠片も感じないリアクションを返されてしまった。もはや家族の体など成しておらず、何かを報告連絡相談することは無くなっていた。一日も早く、この家から出て行きたかった。


色恋沙汰の話なんて以ての外、就職先についても何も語ることは無く、ボクは社会人になると同時に一人暮らしを始めた。


そんな家庭環境で育ったこともあり、『家族』というものに憧れは無かったし、頼るべき存在では無かった。別に不幸だとは思っていなかったし、それがの所作だった。この家族に対しての『情』なんてものは、これっぽっちも持ち合わせていなかった。




支社長にメッセージを届けると、また睡魔が襲ってきた。


次に目を覚ました時は、ちょうど正午を回ったところで、不思議と『すんなり』起き上がることができた。熱は下がっていなかったけれど、お腹は空いていた。


コンビニで、梅のおにぎりとプリン、スポーツドリンクを買ってきて口に運び込む。おにぎりの米粒と乾いた海苔の形が、ハッキリと分かるくらいに縮んでいたのか、胃に痛みを覚えたけど、生きていることを実感することができて、少しだけホッとした。


今日は何もしないで、明日に備えてゆっくり休むことにしよう。ベッドに入る前には体温も37℃台まで下がっていたし、明日は大丈夫だろうと思っていた。




―朝を告げるアラームが鳴る。相変わらず眠ることは出来なかった。


既視感という概念を越えて、日常となったその状況には、『昨日起こった新しい異変』が伴っていた。


今日も、体を起こすことが出来なかった。


恐る恐る、体温計を脇に差し込むと、下がったはずの熱が再燃していた。


「何なんだよっ…」 現実を受け入れる事が出来ず、思わず口に出してしまった。


また会社に連絡しなければならない。


もう何度目だろう。


弱っている自分をさらけ出すことが、恥ずかしくて情けなかった。


ズル休みをしていると思われるかもしれない。


体温計の写真を撮って送ろうかと考えたけれど、馬鹿らしくなってやめた。


新しく文面を起こすことは出来なかった。


昨日送ったメッセージをコピペし、『本日も』を文頭に置き、体温を今日のものに書き換えて、そのまま送信した。送信ボタンを押すと、体の緊張が取れ、睡魔がやってくる。返事を確認することなく、眠りについた。


支社長からは『了解』だけの返事が届いていた。




検索バーに『朝 起きれない 発熱』と打ち込み、自分の身に起きている異変について調べることにした。


起立性調節障害、心因性発熱、原因と治療法……etc


見たこともない単語が羅列されていた。それでも、熱が下がらないという理由を持って、再び内科を受診することにした。問診で『この二日間の異変』について話をすると、医師から『前回処方した睡眠導入剤の使用感』を聞かれてしまい、テーブルの下に追いやったその存在を、今の今まで忘れ去っていたことに気が付いた。


「一度だけ飲みましたが、次の日に寝坊してしまって…それ以降は怖くて飲んでいません」


そう伝えると、デスクトップのカルテに文字を入力する手を止めて、ボクに正対して目を見て宣告した。


「心療内科を受診された方が良いと思います」


その思いがけない提案に、目を丸くしてしまった。一刻も早く受診することを薦められ、病院を後にした。心療内科を受診するにあたって、紹介状を書いてくれる、なんてことは無かった。




『心療内科』というところに、今まで縁の無かったボクは、検索エンジンを起動して調べることから始めた。


どういった基準で選べば良いのか分からず、クチコミの評価と院内の清潔さで、四駅先の神保町にあるクリニックに、WEB予約を申し込んだ。電話予約しか受け付けていないところも多くて、事前にWEBから問診票を打ち込んでおけることも、そのクリニックを受診する決め手になった。


支社長には、内科医から心療内科を受診することを薦められ、明日の午後にクリニックを受診することをチャットで報告をした。


送られてきた返事は『了解』の二文字だけだった。

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