第3話 絶望のサスペンス

 トントントン。

 そんな規則的な音が僕以外の人間がすぐ側にいることを伝えて来る。

 ドラマとかでたまに聞く音だった。

 画面越しに聞くよりは案外心地よくて、耳に残る。

「おう、ようやく起きたか」

 そう言いながら折り目の付いたままのエプロンで良悟がこちらを振り向く。

「お前、料理できなかったんじゃなかったのか?」

 僕は目を擦り少し伸びをしてから聞く。

「いや、病人にカップ麺ばかりだと身体に悪いと思ってな」

 そう言って良悟がテーブルに味噌汁と塩鮭と小鉢に入ったお浸しを2人分並べる。

「お前が寝てる間にちょっと買い物に行ってきたんだ」

「遂に完璧イケメン星人が完成しちまったか……」

 ここに理想のイケメンが顕現しちまったな。

「お前はいつも言動が大げさなんだよ、ほら、口ぐらい濯いで来い。冷める前に食っちまうぞ。一応味見はしたが冷めたら味の保証は出来ないからな」

「おう、わかった」

 僕は洗面所で口を濯ぐのもそこそこにささっと席に着く。

「うし、席に着いたな? じゃあ手を合わせて」

「いただきます!」

 僕は空腹の腹に良悟の作ったスタンダードな日本食を腹に詰め込んだ。

 確かに失敗の少なそうな献立ではあったが具材の大きさや切り方もしっかりしていて下処理もしたり下味も付いている。

 普通に美味しかった。

 後1ヵ月もしないうちに簡単なレシピは一通り作れてしまうんじゃないかと思うほどだった。

 こいつやっぱりマジでなんでもできる。

「じゃあ、俺はそろそろ出るから」

 僕が良悟がいつの間にか用意してくれていた歯ブラシで歯を磨いている時だった。

「おう、ちょっと待ち合わせには早くないか?」

 僕は歯磨き粉を水で濯いでから答えた。 

 確か待ち合わせは15時という話だったが今はまだ13時半。大学まで歩いて30分とかからない良悟の部屋からでは少し早く出過ぎである。

「ああ、それなんだが後輩に清十郎のことで何か知らないかって聞いたら待ち合わせより早く着てくれってさ。どうにも個別に話したいことがあるって言うんだよ」

「なんだ、それ?」

 歯ブラシとコップを洗って洗面所から戻って来る。

「ああ、今の清十郎の身の上と関係しているかはわからないがどうやら何かはあるらしい。まあ、期待せずに待っててくれよ。遅くなっても22時までには帰って来る」

 そう言いながら良悟がスマートフォンを操作する。

 どうやら連絡を取っているようだ。

「22時、結構かかるかもなのか?」

「ああ、講座を取ってる後輩も居るからそれくらいになるかもしれないってだけで実際は18時くらいには帰ってこれると思うぞ」

「そうか、良悟もアイツらに顔を見られたんだ。気を付けるに越したことはないからな? 明るいうちに帰って来るんだぞ?」

「お前はお母さんか! まぁ俺の帰りが遅くなったらすまんが適当にカップ麺でも食っててくれ。夜になったらしっかり電灯をつけるんだぞ?」

「ええい! お母さんはお前の方だ! とりあえず! 気を付けるんだぞ!」

「はいはい。じゃあ行ってくるぜ、おかーさん」

 そう言って良悟が扉を閉めて外から鍵をかける音が聞こえてくる。

 どう考えてもお母さんはお前の方だろ。

 僕はそんな事を考えながら良悟に言われたように彼のマンガ本に手を出すのだった。

「お、これもうこんなに出てたのか……」



「で、俺だけを態々先に呼び出してまで話したい事ってなんなんだよ芽衣」

 芽衣は良悟の所属しているゼミの後輩だった。

 勉強会などでそこそこ交流はあるがこうやって呼び出されたのは初めてだった。

 しかも大学の中でも特に人気のない森にほど近い休憩スペースに呼び出されたりしては良悟としても身構えるというものだ。

「いえ、実は清十郎先輩の事で、ちょっとよろしくない噂が出回ってて……」

「良くない噂……?」

 良悟はとっさに清十郎が警察に逮捕され、つい先日まで拘置所に居たことが脳裏をよぎる。

(なんだ? 強制わいせつの容疑で逮捕、なんて記事が出てたりするのか?)

 そうだとするとかなりまずい。

「いえ、噂……というより私たちの大学の生徒のSNSにDMで清十郎先輩について探るようなメッセージが届いてるらしくてですね、えと、少し前に私にもDMが来たんですが」

 そう言って芽衣がスマートフォンの画面を良悟に突き出す。

 良悟がそのDMの内容に目を通すと清十郎がどんな人物でどれくらいの付き合いがあったのか仲の良かった友人なんかを訪ねている。

「勿論、個人情報ですし、突然で怖かったので私はブロックしたんですが面白半分に答えちゃった子も居るみたいで……その子が言うにはでたらめを答えておいたから大丈夫という話だったんですがこういう風なDMを貰っている子が他にも沢山いて……その、清十郎先輩休学してるじゃないですか? 借金しちゃったんじゃないかとか、犯罪に手を出して追われてるとか、色々噂が出回っちゃってて……」

「なるほど、それは厄介だな」

「だから、皆を集めてこういう風に、その、清十郎先輩のことについて話しちゃうと絶対その話が出て噂がもっと広まっちゃうんじゃないかって思って、事前に良悟先輩に伝えようと思って」

「その件についてはよくわかったが俺を先に呼び出した理由には……」

 芽衣は息を飲んでから伝えた。

「実は、それもこれから伝えようと思って居たんです。付いてきてください」

 そう言って大学に作られた遊歩道の並木道の坂の上に位置する小さな東屋に案内される。

 長年大学を利用してきたが良悟はこんな場所は初めて知った。

「私、今日は同級生の朱里ちゃんに呼び出されているんですが、彼女が清十郎先輩についての良くない噂を広めているって話を聞いたのでその真相を確かめようと思って呼んだんです」

「芽衣って清十郎のこと……?」

 良悟は意外そうに芽衣のことを見つめる。

「違います違います! ただ、良悟先輩は清十郎先輩と仲がいいですし、その、お役に立てるかなって……いえ、まぁ、とりあえず良悟先輩はここで耳を澄ましていてください、ここだと多分下の音が集まりやすいので。では私は少し行ってきます」

 そのような事を芽衣が言って遊歩道を歩く男女の集団を指さした。

「で、用ってなんだよ朱里? この後俺たち良悟先輩に呼び出されてるんだけど?」

 遊歩道の中途に設けられたテーブルベンチに集まった男女……男2人に女子1人が会話を続ける。

 男2人には見覚えがある。

 フットサルサークルの後輩たちだ。

「その良悟先輩についてよ」

「あ? 何? 先輩も仲間にいれよーって話か?」

「それなんだけどどうにも今良悟先輩の部屋に清十郎が匿われてるみたいなの」

「それどうすんの?」

「私が良悟先輩の気を引いてるからその間に良悟先輩の部屋に行って清十郎を外に連れ出してきなさい、動き回られるの面倒だからもうなりふり構わないことにした、今日自殺してもらうわ」

「あ? 鍵どーすんの?」

「窓でもなんでも壊せばいいでしょ」

「それやるの俺たちなわけ?」

「今更でしょ、お金は出るんだから別にいいじゃん」

「お前が出してる訳じゃねーじゃん……まぁ、用はわかった」

「後、私たちのことは結末付いた後も良悟先輩には教えないでね」

「自警団? 流石にねーよ」

「自警団も勿論のこと、消防団や見守り隊についても口に出さないでって話よ」

「えー、良悟先輩いい人だし別によくね?」

「取り合えず、口に出さないでって事よ。おわかり?」

「へいへい。おわかりおわかり」

 そう会話がひと段落した段階で芽衣がその一団に合流する。

「ごめん、少し遅くなっちゃった」

「ううん、皆今着た所だし気にしなくていいわよ」

「で、朱里ちゃん用事ってなに?」

「用事って程じゃないんだけどさ芽衣って良悟先輩のこと好きでしょ?」

「えっ? えっ? えっ?」

「いいよいいよ、隠さなくても。あんなん良悟先輩以外全員気付いてるって。良悟先輩もう4年だしさ、足踏みしてたら卒業してっちゃうよ? そんなんでいいの?」

「いやっ……それは……」

「大丈夫大丈夫、私たち協力するし! この後コイツ等良悟先輩に呼ばれてるんだけど急用ができたってことにして芽衣と良悟先輩2人っきりに出来るからさ……」

 朱里の言葉に対して芽衣が心配そうに頭上の東屋を見上げる。

「良悟先輩に全部聞かれてたっぽいぞ朱里」

 今まで口を開いていなかったもう1人の男が口を開く。

「はぁっ?!」

 その突然の言葉に朱里が驚きの声を上げる。

「あ~ぁ~。良悟先輩いい人だったのにな」

 その言葉を聞いた男が懐から何かの薬液の入ったアンプルを2本取り出しもう1人の男に手渡す。

「ちょっと銀太! あんたなにするつもり?!」

「今更だろ? 大丈夫大丈夫、すっごい社長が守ってくれるんだろ? 行こうぜ泰虎」

「銀太は裏門で待っててくれ」

 そう言うと泰虎と呼ばれた男は枯れ葉と木々で遮られた坂を一直線に駆け上がり現在進行形でその背中が遠くなっていく良悟を追いかける。

「りょーかい。じゃ~朱里の方もしっかり頼んだぜ? 今更なんだからさ。あ、手伝ってやろうか?」

 銀太はそう言うと泰虎が良悟を追いかけると同時に裏門へと進めていた足を止め振り返る。

「もうやったわ」

 そう言うと朱里は芽衣の肩に押し付けたアンプルに一層力を込めながら芽衣を抱すくめる。

「たすっ……だ…っ、だ……れ……」

 芽衣のとぎれとぎれのか細い声は結局その先を紡ぐことなく途絶えてしまった。

「それ、清十郎に使うって言ってた奴じゃなかったっけ?」

「どうせ用法用量守るつもり無かったから、ポイズンファクトリーで阿保みたいな量仕入れてたし誤差よ」

「あっそ、じゃ、行くわ」

 朱里が芽衣が完全に沈黙したのを確認するとテーブルベンチに芽衣を横たわらせてどこかしらへスマートフォンで連絡を入れる。

「119ですか? あの! 友達が突然倒れてしまって!」

 銀太はその白々しい朱里の金切り声に少し吹き出してから裏門へと再び足を進めた。



「クソっ……泰虎の奴、いつも全然息切れしないって思ってたけど、はぁっ……! ここまで……!」

 良悟は大学の実験林の最奥の金網に遂にぶつかってしまった。

 最初、良悟を安心させた2人の間に広がっていた距離は泰虎の無尽蔵とも言える体力とその地形をまるでものともしない最短距離を踏破する化け物じみたフィジカルによって少しづつ縮められ、今ではもう目と鼻の先と言える距離だ。

「良悟先輩やっぱり運動神経いいですね、本当はこんな所まで逃げられる予定じゃなかったんですけど」

 良悟が行き止まりのフェンスにぶつかったのを確認した泰虎が自分の両脇を抜けられないよう気を巡らせながらゆっくりと迫って来る。

「泰虎に言われると嫌味に聞こえちまうな」

 良悟はスマートフォンを片手で操作しようとするがその不審な動きに気づいた泰虎が一気に距離を詰めて良悟の右手を捻り上げる。

「助けは呼ばせません」

 良悟の小さなうめき声と共に右手からスマートフォンが零れ落ちる。

「助けか、すっかり失念してたぜ」

 枯れ葉の上に落ちたスマートフォンの画面に表示されたメッセージアプリには清十郎宛への『にげろ』の3文字が表示されているが圏外なのか処理中の表示のまま一向にメッセージが送信されないままにぐるぐるとアクティビティインジケーターが回っている。

「本当に残念です、良悟先輩」

 泰虎は懐から取り出したアンプルを良悟の服の上から荒々しく突き刺した。



「うおおおおおお! ここで終わりかぁ!!」

 僕が今までずっと読んでなかった漫画の続きを良悟の本棚にある分を全部読み終わった時だった。

「これ、良悟は買ってないけどもう続きの巻あるだろ。良悟の奴はそう言う所適当で良くないな」

 すっかり日が暮れて薄暗くなった部屋を見渡す。

「今、何時だ?」

 そうやって持ち上げたスマートフォンの真っ暗な液晶に映り込んだ真後ろの景色。

 カーテンの隙間で黒い影が揺れる。

 鳥か何かだろうか? そう思ってボケっと時刻を表示するために液晶をタップする寸前、その影が手の形をしていることに気づいてしまった。

 時刻は18時24分。

 僕は自分の背中から唐突に溢れ出す粘り気のある冷たい汗を感じながら、振り向きそうになる首を必死に押さえつけて震える肺になんとか空気を送り込む。

 数秒息を呑む。不審な音は聞こえない。

 静寂。

 嫌に静まり返っている。

 自分の衣擦れ音すら聞こえそうな静寂のなか、やはり見間違いだったのではないかとスマートフォンの液晶をOFFにする。

 再び映った背後の景色には音もなく手を動かし今も着々と何かの準備をする手の影が映る。

 ぶるぶると震えそうになる手を叱咤して、必死に平静を装いながら何気なく立ち上がろうとするが足に全く力が入らない。

 幸い手は動くので子鹿のように震えそうになる足を手でアシストしながら立ち上がり扉を開いてキッチンに向かい、冷蔵庫を開いてスポーツドリンクに口を付ける。

 味はわからなかったためその液体が嫌に冷たいことだけがわかった。

 幾分か落ち着いて来た足を動かし玄関に取り付けられたドアアイをのぞき込む。

 誰も居ない。

 誰も居ないことが怖かった。

 しばらくするとリビングの方から蚊の鳴くような小さな音でキィキィと聞こえてくる。

 何が起こっているかはわからないがどうやら残り時間は少なそうだった。

 僕はスマートフォンがポケットに入っている事を確認してから自分のリュックにスポーツドリンクのペットボトルと常備されているブロック型の携帯食料を入れて靴を履く。

 それから玄関の扉のチェーンを音が鳴らないよう慎重に掛け、土足のままリビングの扉の前でほんのわずかに扉を開いて問題の窓の進捗を見守る。

 それは本当に職人技だった。

 西日に浮かび上がる器用な両手の動きを見てなければその音は意識の隅にも入ってこないような何気ない、微細な、それでいて平穏な日常を切り取る音だった。

 僕はその作業が完了する目前、唐突に思い出した。

(そうだ、良悟!)

 僕は大慌てでスマートフォンのメッセージアプリを開いて良悟に危機を伝える。

『家には帰って来るな、危険』

 そうするとすぐに既読がついて、返事が返ってくる。

『俺の部屋の窓に変な奴が居るみたいだけど、玄関の方に居た不審者は俺がのしといた。今なら誰も居ないからチェーンを外してさっさと逃げてこい』

 ああだからか! だから玄関のドアアイには不審な影が映らなかったんだ!

 やっぱり良悟は……!

 そうやって僕が意気揚々と玄関のチェーンに手を掛けようとした時だった。

 ポコン。

 と軽快な音がスマートフォンから聞こえてくる。

 メッセージアプリには再び良悟から。

 にげろの3文字だけの送信だった。

 そんなことは勿論わかっていると、スマートフォンを閉じそうになったが、タイムスタンプの表示が妙だった。

 14時40分、このにげろは、もう4時間も前の、過去からの送信だった。

「……そっ、かぁ」

 そのにげろは数瞬もしないうちに掻き消えてしまったが、しっかりと受け取ることができた。

「気付かれた!」

 玄関を隔てたすぐ側から良悟ではない誰かの裂帛の叫びが響き渡る。 

 僕はその声が響くと同時にリビングを駆け抜けて、今まさに窓の鍵に手を掛けているその影ごと窓ガラスを蹴破って外にでる。

「クソがっ!」

 ガラスの大破するド派手で非日常な破砕音に黒づくめの男の現実的な叫び声。

 黒づくめの男に捕まらないよう細心の注意を向けるが、想像以上にダメージが大きかったらしくろくに追撃できないようだった。

 僕は短い時間の中でイメージトレーニングした通りにベランダの柵を飛び越えて正面道路を走り抜ける。

 着地の衝撃で足の関節がふらふらと安定しないけれど全速力で駆け抜ける。

 足でなく骨で地面を蹴り出すようにしてぐらつく足で速度を出すことだけを考える。

 すると目の前の角から現れた黒の乗用車が突然ライトをつけ、目が覚めたかのように唸りを上げて急発進。

 僕を目指して突っ込んでくる。

 その殺意の籠った質量を余所の敷地に転がり込むようにして避ける。

 僕が完全に余所の家に転がり込んだのを確認した黒の乗用車は急停止し、扉を開いてそのまま人力で追跡を再開する。

 車の中から現れた見覚えのあるスポーツマン風の男とポニーテールの女の追跡を逃れるためそのまま誰の家とも知らない庭を駆けずり回り、駆けずり回り、垣根の中で息を殺す。

 肺が熱した鉄みたいに熱くて、喉からなにから全部やけどしてしまったみたいに痛くて息苦しくて……それでも必死に息を殺した。

 酸素を欲する肺が馬鹿みたいに暴れまわるのをどうにか宥めすかして、追手をやり過ごす。

 走り回るうちに辺りはすっかり暗くなっており僕の時間間隔は完全に迷子になっていた。

 追手の足音はもう聞こえないのに、怖くて身じろぎ1つできやしない。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか? 1分か、10分か、はたまた1時間か。

 僕には1つの呼吸をどうにか静かにやり過ごす一瞬一瞬の苦しみが永遠にも思われたし、1つの呼吸を終えてみるとそれが数秒にも満たない短い時間にも思われた。

 一体どれくらいの時間が経ったのだろうか?

 しかしだからと言ってスマートフォンで時刻を確認するのも心理的に難しかった。

 あの追手が、スマートフォンのその微かな光を目ざとく見つけ、僕を探しにやってくるかも知れないと思うと、地面につけた手が全く持ち上がらないのだ。

 僕は腕時計を持っていないことを心底後悔した。

 今時は必要ないと言って断ったが、父親が買ってくれるといった自然発光する腕時計をあの時断らなければどれだけ良かっただろうかと心の底から後悔した。

 それほどに恐怖だった。

 どれくらい時間が経ったのか? 奴らはもう近くには居ないのか? あるいはまたここへ戻ってきて付近を捜索しているのか? 朝は近いのか? あるいは……。

(いや……落ち着け。奴等は普通じゃない、ジッとしていたら必ず見つかる。そうなると全部パァだ。勇気を出して窓を蹴破ったのも、肺が燃える程走ったのも、息を殺したのも、良悟のメッセージも……全部)

 僕は棒みたいになった腕をなんとか地面から外し、払っても払っても取れない土を服でこそぎ取ってスマートフォンをタッチした。

 スマートフォンはいつものなんら変哲のないホーム画面と共に時刻を映し出す。

 21時15分。

 カーテンの隙間の影に気づいてから実に2時間半以上経っていた。

(えーと、つまり、つまり……)

 あの後どれくらい経ってから部屋を脱出したのだろうか? だが恐らく……。

「多分、1時間くらいはへたり込んでたんだな」

 すっかり痺れてしまった足を叱咤しながらなんとか膝立ちになって、リュックの中にライトを付けたスマートフォンを放り込んでスポーツドリンクをゆっくり3口程飲む。

 それからブロック携帯食の封を開け、それを貪るようにして食べる。

 先ほどスポーツドリンクを口に含んだばかりだというのに永遠に口が乾くせいでぼそぼそと口の内側に引っ付いて食べにくいそれを無理やり1袋分飲み込んでからスポーツドリンクを7割程飲み干す。

「くそっ、今度があるならゼリー飲料をひっつかむ」

 食べ物を無理やりにでも腹に入れたら、少し落ち着いたのか色んなことに考えを巡らせる余裕が出てくる。

 良悟はどうなったのかとか、寝床はどうするかだとか、これからどうなるのかとか、そういうことについて。

 そう考えた時メッセージアプリのグループの未読メッセージが爆発的に増えて行っているのが目に入った。

 確か同じ学年のグループとかだった。

 あまり仲がいい人間が居る訳でもないしずっと飲み会や旅行の話ばかりしていて肌に合わなかったので非通知の設定にしているのだ。

 154、162、185、眺めている間にも通知の数字が加速度的に増えて行く。

 ポコン。

 さっきスマートフォンを起動したときについ癖で外してしまったマナーモードを再び入れながらその音の原因となった僕宛のメッセージを確認する。

 そのメッセージは和也からだった。

 入学式の時隣の席になって、その後少し一緒に遊んでいたことのある奴だ。

 最近はあまり顔を合わせていないが一体何の用だろうか?

『これお前がやったってまじ? リンク省略……』

 その文面に急激に嫌な予感がしてくる。

 でも僕の指はそんな僕の感情と全く関係なくその長ったらしいアドレスバーを迷わずタップしていた。


『【速報】自宅で意識不明で発見された男性、腕や腹に複数の傷。病院へ搬送され重傷。殺人未遂容疑を視野に捜査、直前に交友トラブルか』

 ローカル記事だった。僕の指が記事をスクロールする。

『7月8日、自室で倒れ込んでいる皆森良悟さん(21)が見つかり病院へ搬送されました。皆森さんには複数の刃物での傷があり重症です。警察は殺人未遂事件を視野に捜査しています。発見者の通行人や近所の住人が同級生の有川清十郎さん(21)が皆森さんの部屋の窓ガラスを突き破って事件現場から逃走する様子を目撃していたということで警察は事件との関連を調べています。』


「意識不明の重症……」

 重症ってヤバくないか? 命に関わったりするんじゃないのか? もしかしたら良悟は死んでしまうんじゃないのか?

 僕はもっと詳しい情報がないかグループの会話を覗きに行った。

 するとそこには僕のSNSでの投稿について陰謀論や精神異常者と言ったことと結び付けて僕が暴れて良悟を刺殺したという体でここぞとばかりにあまり面白くない奴が面白い奴を気取ろうと必死にメッセージを連投しているさまが目に入って来た。

「……クソっ…………なにが、陰謀論だよッ……無責任なこと言いやがって……それに、まだ良悟は死んでねーよ!」

 僕はグッとスマートフォンを握り込む。

 わかっていた、囃し立てる奴等も、陰謀論なんて簡単な言葉にはめ込んで何かを言ったような気になってる奴等も、結局はただ対岸の火事に野次を飛ばして遊んでいるだけなのだ。

 僕は、僕を監視する組織の存在を固く確信していたじゃないか。

 何でもやるヤバい奴等だって分かってた筈じゃないか。

 それなのに無責任にも良悟を巻き込んでしまったのは僕が弱かったからだ。

「クソっ……! 考えろ、何が一番重要だ……!」

 最善はそりゃ、僕も助かって良悟も助かって謎の組織も一網打尽に出来ることだが、それを熟すことは恐らく難しい。

 択一を求められることもあるだろう。だから、僕はこれからの行動で一体何を目指すのかをしっかりと意識しておく必要があった。

「良悟……」

 そう、良悟だ。

 あんないい奴が、こんなことで死んだり、ダメになったりするのは絶対にダメだ。だから……。

(どうにかして良悟を助ける)

 そう決めた。

 別に献身なんて上等な奴じゃないと思う。

 僕は世間の決める倫理観や常識にはミリも興味はないが、自分が生きる理由くらいは自分で決めれるし、命の使い方だってそういう風にできると信じてる。

 少なくとも僕はいつもそうあろうと動いてる。

 だからこれは献身なんて上等な奴じゃなくて、あえて言うなら自己満足。

 そういう感じだと僕は思ってる。

(……恐らく良悟は何かを、それこそ組織の核心を突くような情報を見聞きしてしまったために害されたと見るのが妥当だろう。つまり組織とその実行犯が健在である限り良悟の生存は絶望的……だが、警察組織にコネはないようだし滅茶苦茶は……少なくともすぐに露見するようなことはあまりしてこない筈だから今現在病院で療養してるであろう良悟を害するなんて無茶はギリギリまでやってこない筈って風に仮定するしかないか)

 勿論、既に完璧な処置が施されて良悟が目覚めることは無いのかもしれなかったが、その可能性は今は考えないことにした。

「なるほど、どうやら規模も目的もわからない組織を一網打尽にするしかないみたいだ」

 僕はのそりと立ち上がる。

 良悟が今日家を出たのは13時半、大学に着いたのは14時くらいだろう、その後会ったその後輩とのやり取りの後になるだろうか? 何かが起こったのだ。

 その40分で致命的な何かが起こった。

 その何かを特定するために僕は今日良悟を呼び出したゼミの後輩、三船芽衣になんらかの形で接触し事件の真相を聞き出す。

 これが当面の目標か。

「ま、その前にとりあえず寝床か」

 僕は取り合えず公道に出るのは心配だったのでどうせ今更と住宅街の庭を練り歩き、地図アプリが指し示す一番近いネットカフェを目指す。

 ひと眠りしてからこの後のことを考えるのだ。

 そう思って塀を掴むと、どうやら植木鉢を塀の上に置いているタイプの家だったらしくド派手な音を立てて植木鉢が地面に落ちた。

「くっそ! 植木なんかこんな所に置いてんじゃねー!!」

 にわかに慌ただしくなる周辺宅の物音に戦々恐々としながら僕は植木鉢を一直線に蹴飛ばしながら塀の上を全速力で走った。

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