第38話 不可忘却

 馬車の御者、というのは総じて口の堅い生き物だ。

 いや、中には軽々に酒場で管を巻くような奴もいないではないが、得てしてそういう奴の寿命は短い。職歴として、ではなく文字通りの意味として。

 なにせ、馬車の乗客も色々だ。勿論、彼が鞭をとる乗合馬車を利用する乗客の殆どは一般市民か下級官吏だろうが、移動中は閉鎖空間となる幌の中では色々な交々が繰り広げられる。ならば、その中には公にしてはならないものもある訳で。

「だからな、後ろを見るな。黙って前と上だけを見ていろ」

「それも無理なら、せめて見て見ぬ振りをして、記憶を腹に留めておくことさ」

 そう、親方や先輩がたがキツく教えてくれたことが実を結び、彼はこうして数十年の永きに渡ってこの仕事を全うできていた。

 今日、この時までは。

「・・・・・・うううう」

 自分が鞭をとる後ろ、荷台の中で繰り広げられている何とも言えない光景を、黙っておける自信は無い。

 今日の乗客は2人、10歳くらいの女の子と、10代後半くらいの少女の連れ合いだ。女の子は腰まで届くほどの黒髪で、貫頭衣とポンチョの合いの子みたいな変わった装束を身に纏っていた。蜜を溶かし込んだような白肌と整いながらも彫りの薄い目鼻立ちも相まって、どこか異国情緒溢れる美少女だ。

 そして、少女の方は打って変わって粗い目のシャツに膝上くらいの脚絆と、どこの町にでもいるようないたって普通の格好をしていた。肩まである金髪を乱暴に引っ括った髪型に程よく日に焼けた肌と人好きのするパッチリとした相貌からも、特段に異質感は伺えない。

 とまあ、どういう繋がりなのかは分からない2人連れだったが、

「ええと、お2人で?」

「うむ。宜しく頼むでの」

「はあ。で、その・・・」

「む?おお、儂らか。儂らは、そうじゃな・・・旅人じゃよ」

 舌ったらずながら世事慣れた物言いは兎も角、少女が担いでいた雑嚢といい女の子がえっちらおっちら担いできた大きなルックといい、本人たちの申告通り旅人なのは一目瞭然だった。

「ええ、はい・・・それで、どちらまで?」

「それはの、ミルシや」

「はい!で、御者さん・・・地図のここ、です!」

 そう言って少女が雑嚢から取り出した地図に記された地名に少し御者は眉を顰めたけれど、それも官憲に突き出すほどのことではない。まして、王国印の通行許可証を持ち出して来れば猶更だ。

 その大仰な物言いと人を使うのに慣れた所作、対して使われることに忌避感の無い振舞いから想像するにこの2人、どこかの商家か貴族の息女と使用人なのだろうと予想がついた。

 だから彼も、特に疑いだてもせずに乗せて進発したのだが。

「・・・・・・・・うううう」

 進発して30分もしない内に、後ろからこの世の終わりのような呻き声が轟きだしたのだ。その冥府から轟くような声にギョッとして御者も思わず振り返ると、そこではついさっき、乗り込むまでは意気揚々としていた女の子が少女の太腿に仰向けで寝そべっていた。

「・・・あの、お客さん?」

 思わず、御者も自らに課したルールを破ってしまった。しかし、何か急病なんかなら対処する必要があるからと自分に言い聞かせる。

 だが、それに対して少女はキョトンとした顔で、

「・・・?なんでしょうか?」

 そう、逆に御者へと問い返してきた。

「・・・いや、その。だ、大丈夫なのかな、と」

「あ、はい。大丈夫です」

 大丈夫も何も、あっさりとそう言ってのける少女の膝の上では相も変わらず、女の子が明らかに大丈夫じゃない声を漏らし続けているのだが。

「は、はあ。でも、駄目なら言って下さいね。反吐を吐かれちゃ困りますから」

「大丈夫ですよ。これに備えてこの人、昨夜から何も食べてませんから」

 だから、それの何が大丈夫なんだろうか。御者は「この少女もどこかおかしいな」と訝しんだ。

「それより御者さん」

「え!?は、はい、何でしょう」

「あと、どれくらいで着きます?」

 その問いに、彼はその節くれだった指で「こうっ」とクルリと中空に輪を書くと、

「あと・・・そうですね。もう2~3時間くらいのもんでしょうか」

 その答えに、「分かりました」という元気な声と、「ああ・・・」という万感籠ったような呻き声がダブって聞こえてくる。どっちがどっちの声なのかは・・・言うまでもないだろう。

「では御者さん、道中、宜しくお願いしますね」

 ニッコリと笑ってそう言う少女だったが、背中を射抜くような強い視線が御者には感じられた。『若し、酷く揺らしてこれ以上具合を悪くしたら・・・』とでも言いたいのだろうか、御者の背筋には、これまでに感じたことのない悪寒が走った。

「は、はい!こ、こちらこそ、宜しくどうぞ」

 慌てたようにそう答えると、御者はピシパシと馬に鞭を打って急がせる。

「う、みゅう・・・」

「はいはい、大丈夫ですよ。眠ってれば、ほんのチョイで着きますからね」

 膝を枕に輾転反側する女の子の頭を撫でながら宥めること自体は、彼女のような年上の少女が子供にやってやることとしてはおかしくはない。のだが、

「・・・ふ、ふふふ」

 そう零す不穏な笑みと、時折チラリと覗く獲物を前にした肉食獣か猛禽のような眼は、一体何なのだろう。

「・・・とっとと」

 呆と眺めそうになる首を意志の力で前へと向け、御者はギリリと歯を噛み締めてその体勢を保つ。彼の仕事は乗客へのデバガメで無し、彼女たちを無事に目的地に送り届けることなのだから。

(平常心、平常心っと)

 何せ、少女の指定した目的地の付近の駅に着くまでには、彼が先ほど言ったように2~3時間。長い旅は始まったばかりでこのご時世、何が起こるか分かったもんじゃない。

(・・・せめて、これ以上は何も起こりませんように)

 じんわりと手汗で湿る手綱を捌きながら、御者は胸中でそう願った。


 そんな御者の祈りが通じたのか。彼が操る馬車は盗賊や野生動物、果ては化物にも出くわす事無く無事に目的地付近の駅に辿り着いた。日頃の行いか、それとも出しなに出くわした南方地域からの巡礼者による女神のご加護か。

(・・・今度の休みにゃ、偶には礼拝にでも行くかね)

 そんなことを思いながら馬を鞍から外していた御者の背後から、「ちょっと」と声がかかった。

「ちょっと御者さん。この人を降ろすのを手伝ってくれませんか?」

「はぁい。少々お待ちを」

 そう応えた御者は急いで馬を厩に繋ぐと、急ぎ足で荷台の方へと歩み寄る。

「へい、お待ち。どうしましょう?」

「あ、はい。ええと、私が後ろから支えてますから、御者さんは降りるときに手を取ってもらっていいですか?」

 はい、と御者が頷いたのを確認して少女が女の子の背中に手を伸ばすが、

「・・・要らぬ。馬鹿にするでない」

 女の子は、その手をさも邪険そうに打ち払った。しかし、その扱いにも少女は嫌な顔一つせず、寧ろその我儘に「仕方ないなあ」と言わんばかりに腰に手を当てて苦笑を見せた。

「でもダンジョーさん、危ないですよ?」

「要らぬ、と言っておろう。儂は大和の支配者じゃ、何のこれしき・・・」

 そう気丈に言い放つが、血の気が失せて青ざめた顔と頼りの無い足取りは隠しようが無い。2、3歩も歩いたところでその足は荷台の隙間に引っかかり、転びそうになったところを後ろで見ていた少女がはっしと掴み留めた。

「ほら、だから言ったでしょう?さ、御者さん、お願いしますね」

「う、うむ・・・」

 流石にこの偉そぶった少女も、自ら晒した醜態には二の句が継げないらしい。今度は大人しく少女に支えられて荷台の縁までよろよろと、まるで60歳を超えた老人のように歩き進む。

「はい。じゃあ、そこで腰かけて下さい」

「分かって・・・おる、わい」

「はいはい。じゃ、御者さん?」

「おっと、承知」

 ゆっくりと腰をその縁に降ろした少女の手の付け根に手を差し挟むと、そのまま持ち上げて地面へと降ろす。

 その体の軽さと細さに、彼は今は遠き娘の姿を幻視した。今は年頃に育ったあの子にも、こんな可愛い時代があったかと思うと自然と熱いものが瞼を満たす。。

「ありがとうございました。・・・あの、どうしました?」

「ん?・・・ああ、いや、気にするな。ちょっと、娘のことを思いだしてな」

「娘、さん?」

「ああ。可愛い・・・可愛かった娘さ」

 そう、今は休みの日に休んでいるだけで蹴りつけてくるくらいに逞しく育った我が娘にも、こんな時代が確かにあったのだ。それを想えば涙も出てくるというもの。けっして、無下に扱われる親父の悲しさ・・・では無いだろう、多分

「かった?あ・・・・・・すみません、思い出させちゃって」

「あん?ああ、気にするな」

「でも・・・」

「良いって、良いって。誰にだって、そういうことは来る。時代の流れは残酷だが、同時に慣れも運んでくれるからな」

 少女の何故だか深刻そうな顔に、御者もついつい顔に似合わぬ凝った物言いをしてしまったが、娘と妻からの扱いも慣れてしまえば『そういうもの』と諦めがつく。

 決して、強がりなんかじゃなく。

「うう・・・ま、それは良いがのう」

「ちょ、ちょっとダンジョーさん!失礼ですよ!?」

「それよりお主。ここは、ミルシの言うた場所とは違うようじゃが?」

「へ?あ、ああ・・・お嬢ちゃん、言わなかったっけ?」

 んん?と小首を傾げる御者に、荷台から飛び降りたミルシと呼ばれた少女が女の子の前に立つとガサガサと地図を広げる。

「ダンジョーさんはすっかりダウンしてたから聞いてなかったみたいですけど、私はちゃあんと聞きました。何でも、その都市には直接馬車を乗り入れることは出来ないみたいです」

 ね?とこちらに問うてきた少女に、御者も「ああ」と頷くと、

「そうなんだよ。その、アンタらが言ってた街は・・・ほら、あっちだ」

 御者がそう言って指さした方には、朧気ながら立派な城壁が見える。

「あそこが・・・」

「ああ。だから、あの街に行くには歩いて行くか、それか、その街が運行してる馬車に乗るかしか・・・」

「乗らぬ!」

 彼の会話を遮るようにして、女の子は高らかにそう宣言した。あの顔色でそこまでの大声が出せるとは、どうやらよっぽど馬車の乗り心地が気に入らなかった様子だ。

「乗らぬぞ、儂は!」

「ま・・・良いけどよ、別に俺の儲けにゃならんから。けど、結構ここから距離あるぞ?」

「構わぬ!では、行くぞミルシ」

 そう言うと、女の子は少女の変事を待たずしてズンズンと、先ほどよりは大分良くなった足取りで道を進んで行った。それを見た少女は「ちょ、ちょっとダンジョーさん?」と待ったをかけるが、歩みが止まる様子はない。

「まったく、もう」

「大変だね、アンタも」

「まったくです。っと、す、すみません!ありがとうございました!」

 その少女は彼にペコペコと頭を下げてとってつけたような礼を述べると、「待って下さいよう!」と言いながら先を行く女の子を追いかけて行った。

 そして、追いついて2人連れとなった背中が微かにしか見えなくなってから、御者は深々と大きな息を吐いた。

「やれやれ。それにしても、ダン嬢さんとは。あの物言いといい、振舞いといい、やっぱりどっかのお嬢さんなんだな」

 ヤマトの国とは御者も寡聞にして聞いたことは無いが、彼も知っているのはこの周囲の国や都市程度なので、そういった国もあるのだろうと納得した。

「まあ、でも・・・変わった少女たちだったなあ」

 そう、彼に残された懸念はそれだ。

 彼は今から駅の役人に届け出を渡し、代わりの馬を受け取って待っている客を誘い、元来た道を帰らなくてはならない。幸いにも日はまだ高く、ゆっくりと馬を進めても日暮れまでには帰れそうだが、それはいい。

 問題は、その後。町に帰り、同僚や知り合いと呑み、家に帰って家族と過ごす。それが当然、明日も明後日も続いていくのだが、そこで今の乗客のことを話さないでおれるだろうか。酒の席や家族との会話において、あれほど絶好の話題は無い。

 が、話してしまってはこれまでの数十年、彼が積み重ねてきた御者としてもキャリアは水の泡だ。家族なら問題無いかもしれないが、その家族が他に漏らせば同じことである。

「困ったなあ・・・」

 ポリポリと頭を掻く御者の『止めておけ』という自制心と『耳目を集めたい』という自己顕示欲とのせめぎ合い、終わりなき戦いはまだ、始まったばかりだ。

 

 

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