第3章
第37話 右往左往
慶長五年、北江州は佐和山城。
「まったく、まったく!」
ぶりぶりと男は顔を朱に染めて、ズカズカと城の廊下を突き進んでいた。
暦で分かる者もおろう。時は太閤殿下が身罷られて二年後、隣国美濃は関ケ原にて天下分け目の大戦が行われた、その年である。
その結果は、諸氏は良く御存じであろう。西軍が武運及ばず敗走し、間を置かずしてこの地、この城は東軍諸将による包囲を受けた。
今は、正にその時である。
「まったく、まったく!」
同じ台詞を口に刻みながら、男は城の中を歩き回っていた。顔を朱に染めて眉間に渓谷が如き大皺を刻み、双方の蟀谷にニョッキと太い血管を怒張させる様はまるで赤鬼のようだ。
そんな形相としゃちほこ張った肩で人波を押し退けつつ、男はギョロギョロと周囲を睨みながら歩を進めていた。そして、目の前に飛び出てきた長持を怒りのあまり蹴りつける。
「ええい、行き止まりか!」
既に本丸表門は突破され、場内は怒声と鬨の声と悲鳴と嗚咽が飛び交う混沌の坩堝と化していた。そんな中で自失することも無く、むしろ意気を失わないままのこの男、生半の者でないことが分かろうものだ。
「む!」
「御首、頂戴!」
「やれぬわ!」
男は不意を突いて飛び出して来た雑兵の攻撃にもかかわらず、そこに一切狼狽えることなく一刀の元に切り捨てた。太りじしに見える体つきだが、吏僚の道に長いとは言え腐っても武家の長男である。この程度の雑兵に討ち取られるほどは、流石に衰えてはいない。
「まったく!裏切りに約定破りとは、執金吾の職が聞いて呆れるものぞ!」
眦を吊り上げて男が罵倒するのは、今この城を攻めてきている大将格の男についてだ。裏切って内府方に寝返った挙句、こちらの武装解除の申し出を受けた癖に攻めてくるなぞ武家どころか日ノ本一の卑劣者の誹りは免れまい。
「殿!」
「むう!・・・むう、清兵衛に右近、貴様らか」
遠くから呼びかけてきた声に一瞬警戒の色を濃くした男だったが、それが見知った家臣だと分かってようやく眉間に刻んだ皺が解かれた。
「は。木工頭殿も御無事で!」
「うむ。貴様らは・・・無事では無いが、良う永らえた」
労わるように言う通り、2人の状態は壮絶の一言に尽きる。清兵衛も右近も全身を返り血と自らの血で具足の文様も分からぬほどの朱に染めており、右近に至っては右腕の肘から先はぷっつりと無く、左手で刀を握る有様だ。
「有難く。して、大殿は?」
「大殿・・・父上は、我に先立って身罷られた」
「それは・・・無念に御座ります」
顔中に皺を刻み、滂沱の涙を流す両家臣の気持ちは、男にも痛いほど分かる。特に、右近は彼が初陣の頃より仕え続けてきた主の死だ、無念以外の感情は無いことだろう。
「して、木工頭殿。この城はもう駄目にて御座ります、一刻も早く落ち延びて、大坂の重成様の元へ・・・」
「いや、行かぬ」
しかし右近の申し出に、男は首を左右して断った。
「弟は破れ、父上も自刃された以上、今更この不祥の身だけが生き延びても仕方が無い」
「で、ですが・・・いえ、分かりました」
「すまんな」
「いえ。こちらこそ、要らぬ気遣いを。それで・・・では、木工頭殿は何処へと?」
その清兵衛の問いに、男は一瞬辺りを伺うような素振りを見せたが、直ぐに無駄だと悟った。この喧々囂々たる城内で、今更内緒話も無いものだ。
「私は、弟の奥方を探しに行くところだ」
男の回答に、清兵衛と右近は怪訝そうに眉宇を顰める。
「失礼ですが、木工頭殿。奥方様は大坂では?」
「違うのだ。戦の避けられぬとなった砌、この佐和山に移って来られた。どうやら、大坂の連中も信用が置けぬとみえたが・・・裏目に出たな」
今、大坂にて秀頼公に伺候しているのは安芸中納言輝元を筆頭に増田右衛門尉に前田玄以。確かに、どれも自らの正室を託すに足りるとは到底思えぬ奴柄だ。
「左様で。では」
「うむ。この有様では、いくら女子と申せ容赦はされまい。急ぎ下山し、奥方様には落飾して弟や我らの菩提を弔ってもらわねば。・・・私の自刃は、その後よ」
「分かり申した。では・・・某はここで別れましょう」
「何故だ、右近!?」
「某のこの腕では、木工頭殿の介錯仕ることは出来ませぬからな。ならば、その御役目は清兵衛に任せ、死に花を咲かせとう御座います」
その、死にゆく者としては不釣り合いに朗らかな笑顔に、流石の清兵衛も二の句が継げず。
「・・・分かった。息災でな」
主君たる男も、そう言ってやるのが精一杯だった。
「はっは。息災に、とは過分な仰せ。・・・では木工頭殿、これにて」
ペコリと頭を下げて立ち去る姿も堂々と、飄々と大したもの。流石は小谷の落城が初陣の生き残り、百戦百生の古老と後の世に語り継がれる所以であった。
それを瞬きもせず見送ったのち、男は肉の厚い掌で頬をバチンと叩くと、
「・・・さて、行くぞ清兵衛」
「はい。では先触れは某が承ります。して・・・奥方は
「うむ、それがな・・・確か、天守の一等奥に居られたのだが、こうなってはな」
男の言う通り、場内は喧騒もさることながら、あちらこちらに敵の進軍を防ぐために机や長持ちが投げ出されたりしており、一夕前の城内とはすっかり様変わりしていた。
「・・・上へと昇る階段も、どう廻ってよいものか」
「しかし、ならば尚のこと。目を皿にして右往左往、探していくしかありませぬ」
「で、ある。では行くぞ!」
その清兵衛の言葉通り、男たちはあっちでも無いこっちでも無いと右往左往した挙句、ようやく探し当てた階段を急ぎ足で登っていった。
幸い、上階にはまだ戦火が及んではいない様子で。それはつまり、右近のように階下で戦う者たちが身を以て防ぎ続けている、その証左でもある。
「奥方!奥方・・・おられぬか、奥方!」
そんな、階下とは打って変わった静けさの中、男は音声を張り上げて探し人を呼ばう。平時であればこれも無礼にあたろうが、この非常時に無礼も失礼も無いものだ。
「おかしい、おられぬ!」
「もしや、もうお逃れに・・・」
「いや、それは無い。そんな暇はなかったはずだ」
「では・・・」
と、そこで清兵衛がある一角を指さした。
「木工頭殿、もしや更に上階では?」
「さもありなん。しかし、さらば尚のこと急がねば!清兵衛、お主はここを抑えておれ!私が見て来る」
コクンと清兵衛が頷き槍を構えたのを確認して、男は最上階へと向かう階段を上り、上り、そして。
「は、はあ!」
そこで、ガクンと膝を落とした。
「はあ、はああ・・・ああ、ああああああああぁ!」
そして、口から迸る大絶叫。その臓腑を抉るような悲鳴に、下で待ち構えていた清兵衛も慌てて階段を駆け上がって来る。
「き、木工頭殿!どうされた!?」
「どうもこうも・・・あれを見よ!」
あれ?と男が指さした方を見て、清兵衛も同じように膝をつく。
そこには、折り重なって倒れ伏す女御衆の姿があり、その中の一番上に倒れているのは他ならぬ誰でも無い、彼らが今探していた奥方その人であったのだ。
「こ、これは」
「言うな、言うな、言うな清兵衛!」
手を伸ばす清兵衛を弾き飛ばすように振り払い、男はよろよろと奥方らしき遺骸に近づく。
そうだ、確認せぬ限り、この目で見ぬ限りまだ亡くなられたと決まった訳では無いと。そんな女々しい逃げ感情が男を突き動かしていた。
男の眼には今それ以外、清兵衛も、城も、何もかもが目に入らぬ。だから、メリメリと音を立てて崩れ落ちる、天井の梁にも気が付かず。
「木工頭殿ぉ!」
そんな絶叫を最後に、男の意識はプツリと途切れた。
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