第4話 異所異形
これは、ただの夢だ。
そう。夢だと理解しているはずなのに、何故だか夢だと覚めるまでは気が付かない。
そんな、ただの夢だ。
「・・・・・・・・・ん?」
さえずる鳥の声に、久秀は目を覚ました。薄ぼんやりとした視界はまるで二日酔いの朝のように、グワングワンと揺れ動くように像を結びあぐねている。50を超えてからは大酒をせぬように気を付けていたはずなのに、昨夜はよっぽど大切な貴族連中から饗応を受けたと見える。
(九条か、近衛か、はたまた一条・・・・・・違う!)
そこでようやく、久秀の頭は先ほどの事態を思い出す。燃える天守、現れた果心、そして光を放つ平蜘蛛の茶器。
(だども・・・ここは?)
だが、未だに像を結びかねている視界ではあるものの、今いるところが少なくとも燃え盛る天守でも三途の川でも無いことは明らかに分かる。
木々の隙間から覗く青空、そこから降り注ぐ太陽光。さらさらと揺れる梢の音や、近くを流れているのであろう小川の流れる音も耳には心地よい。
(ま・・・それが三途の川で無い保証は無い、がの)
もっとも。若し仮にここが三途の渡しならば地獄も仏僧共が喧しく言うほどは悪い所ではないだろう。それなら、地獄行きでもまあ良いか。そんな事を考えられるほどには思考は働くようだ。
(恐らく・・・長慶殿や孫次郎様はおられますまい、が)
あのお二方はきっと御仏の元に召されていることだろう。筒井は知らん。
現実逃避は兎も角、果心も自らを才人と大言壮語するだけのことはある。見事に彼をあの包囲網から脱出させたらしい。
しかし、どういう訳か久秀の体は指先ひとつ動かせず、喉から出るのは呻き声のようなか細いものばかり。背中から伝わる地面の温かさやサラサラと風に靡く草木が肌に擦れる触感は感じることから、よもや死んで幽霊になったという訳では無さそうだが。
(しかし・・・いつまでもこうしている訳には)
いかぬ、と久秀が全身全霊をかけてようやく、トクンと心の臓が脈打ち、視界もようやくまともに像をとらえ始めた。そのまま更に力を込め続けると体の中心から外へ外へと感覚が広がるように戻っていき、指先足先にまで力が戻った。
そうして戻った力を試そうと、ぐしゃりと握りつぶした草の発する青臭い匂いが鼻孔をくすぐり、
「は・・・はっくしょん!」
と、盛大にくさめが飛び出した。
(な、んじゃ!?)
しかし、そのくさめの音に久秀は違和感を覚えた。その音は彼の記憶にある六十翁のしゃがれた響きでは無く、むしろ舌足らずさを感じる鈴のように軽やかな響き。
そして、その違和感は次の瞬間に確信に変わる。飛び出た鼻汁を拭うべくのろのろと持ち上げたその伸びやかな腕、その細っこい手、そのシミ一つない肌は、どれも死にかけの老人の持ち物では無い。
「な!?・・・な!?・・・なあ!?」
鼻汁を拭うことも忘れ、久秀はその手でペタペタと顔や体のあちこちを手当たり次第に触りまくる。しかし、そのどこにも皺などは1本も刻まれておらず、すべらかな肌はもちもちと瑞々しく、若々しい。そして、
「な、無い!?」
長年連れ添い、年を取って増々自己主張を強め、にょっきり飛び出していた喉仏は影も形も無くなっていた。
「な?な?」
こうなっては如何な久秀でも平生とはしておれず、自身の姿を確認せねば居ても立ってもいられない。その時、久秀は先ほど聞こえた小川のせせらぎを思い出す。
「か、川!・・・川じゃ!」
焦燥と驚きは、どうやら肉体をも凌駕させるものらしい。力が戻りたてとは思えないほど素早く上体を起こし小川を発見した久秀は、立ち上がるのももどかしくそのまま四つん這いの姿勢で小川へとにじり寄る。
「はっ・・・はっ・・・はっ・・・」
その道中、さらさらと流れ視界を遮る黒髪や揺れるものの無い股座なぞに一々斟酌する余裕は、最早無い。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
そうして一日千秋の思いで辿り着いた濁りなき清水には、何ということだろう。そこには、どう見ても髪上げ前としか思えない少女の顔が映し出されているではないか。自身の面影を残すような、愛しき妻の面影を伺わせるような、目鼻立ちの整った可憐な乙女の顔が。
ポカンと、驚きで口を開け放つ久秀。そして、水面に映る少女もまた、同じように口を開け白く光る歯を覗かしていた。試しに久秀が頬を引っ張ってみると、水面の少女も同じように引っ張る。そしてその頬にはジンと痛みが走る。
つまりは、これは夢では無い。そして、
「これが・・・儂か?」
そう、目の前の綺麗と言うよりあどけないという表現の方が似合う少女がそう述べる。しかし、その声の出元は自分の喉に相違無かった。試しに自らの顔を水面に近づけてみれば、それに従ってその少女の顔も大写しになる。
もう、結論から逃げられはしない。自分は、久秀は、この少女だ。
「は・・・はは」
力なく、その場に久秀はへたりこむ。ペタリと肉の薄い尻が地面に直接触ったことで自身が帷子1枚身に着けていない丸裸であると悟ったが、そんなことは今更どうでも良かった。
「はは・・・ははは・・・はははははは」
あまりにも現実離れした現実に、喉からは壊れた絡繰り人形の如く乾いた笑いが漏れ出る。そして、その姿勢のまま小一時間、只管壊れたように笑い続け、そして。
「はははは、は・・・・・・はあ」
大きく息を吐くと一転、空を見上げキッと眦を吊り上げた久秀は、自分をこのような目に遭わせた張本人の名を、叫んだ。
「か、果心~!」
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