第10話 破廉恥
(待って、待って、待って!!)
ビアは走った。
ただひたすらに走った。
(隊長が好きなの、私? 私だったの!?)
これまでのエリックのシルビアに対するあの様子。
そして、手紙の内容……そのすべてが自分に向けられたものであったということが恥ずかしくてたまらない。
あまりにも情熱的で、むしろちょっと重いとすら思ったシルビアに対する好意を、どうやって変えさせようかと悩んでいたが、そもそも、シルビアのことではなかったというこの事実に、どうしたらいいのかさらにどうしたらいいかわからなくなってしまった。
(いや、待ってよ。確かにあの舞踏会にいたのは私だけど、シルビアとして参加していたわけで……えーと、つまり、だから、隊長は私をシルビアだと思い込んでいて、でも、実はそれはシルビアに変装した私で————)
なんともややこしい。
シルビアに向いている矢印は急に自分の方に向いていることに気づいたはいいものの、「実はそのシルビア、私でした」なんて言えるはずもない。
そんなことをしたら、ジャンに男装して軍にいることがバレてしまう。
かといって、「あなたが恋をしている相手はシルビアじゃなくて、私だからシルビアにはもう関わらなくていいです」とも言えない。
フィオーレ侯爵家の大事な一人娘が、実は度々替え玉を使っていたことがもし露呈してしまったら、シルビアに来ている縁談の話に悪影響を及ぼす可能性がある。
そんなことになってしまえば、ビアは確実に帰る家を失うだろう。
(どうしよう。いや、別に帰りたい家ではないんだけど……戻っても使用人とほとんど扱いは変わらないし、でも、だからってルーチェ公爵家には帰りたくない)
父の死後、自分を捨てようとしていた継母の冷たい視線。
ずっと自分の母親だと信じていたあの人とまた暮らすことになるかもしれないと思うと、一気に体温が下がっていく。
(いや、そんなことになったら、今度こそ捨てられるわ。今の私には、居場所はここしかない。ジャンが戻って来たら、私はまたフィオーレ家に……伯母様たちのご機嫌さえ取っていれば、住むところには困らないわけだし————)
ビアはその時、気づいたら屋上へ続く階段を登っていた。
そのまま一番上までいって、ドアを開ける。
(少し、風に当たろう。落ち着け、私。一回状況を整理しよう。まずなにより一番の問題は、隊長は
「もう、こんなところでダメよ」
「大丈夫。誰も見てやしないよ」
(……ん?)
突然、頭上から男女の声が聞こえて、ビアは声がした方向を見た。
屋上のドアの横にはさらにもう一段高く上がれるようになっている。
そこに見つめ合う男女の姿があった。
ビアが屋上に来たことに、彼らは気がついていないようだ。
(あれ? あの人、確か吸血族の————)
男の方は、共に戦場で戦った、エリックと同じく混血の吸血族ジャック。
女の方は、中央司令部から最近派遣されてきた事務員だ。
「僕の
「もう、なんども聞かないで。その為に、こうしてあなたと会っているんじゃない」
「ハニー、君は幸せ者だよ。吸血族の男は、一度愛すると一途なんだ。絶対に君は幸せになるよ。毎日僕の愛で君を満たしてあげるからね」
「あんっ……ジャックったらぁ」
まさに二人だけの世界という感じだった。
二人はビアがいるにも関わらずまったく気づきもせずに青空の下でイチャイチャしている。
「ハニー、僕は君のためならなんだってするよ。決して、君を悲しませるようなことはしないと約束するよ。君が喜ぶことしかしない。こんな風にね」
「やん……もう、ジャックぅう」
(お、おお屋上でなんて破廉恥な!!)
ビアは再び顔を真っ赤にして、屋上から出て行った。
階段を駆け下りて、次は裏庭に出る。
(ここなら、誰も来ないし、安心して考えられるわ……)
ところが————
「もう、こんなところでダメよ。ダーリン」
「いいじゃないか。誰もこんなところへ来やしないよ。ハニー」
今度は、ジャックの兄ブラックが看護師のフローレンスとイチャイチャしているのを目撃してしまった。
「本当なら、ハニーをずっと抱きしめていたいくらいなんだ。君がそばにいるだけで、僕は強くなれる」
「ダーリン、私もよ。
「ハニー、やっぱり君は最高だよ。早く式を挙げよう。そうしたら、こんなところで隠れていないで、もっと堂々とそばにいられる。君は僕のものだって、世界中に知らしめてやるんだ」
「もう、ダーリンったら」
(こっちも!?)
ビアが所属している辺境警備軍第九騎士団は、第七騎士団の次に吸血族との混血の隊員が多い。
圧倒的に数少ない女性事務員やフローレンスのような看護師たちの多くは、実はそんな彼らと恋に落ち、
それまで、誰がどこで、女性とイチャイチャしていようが、全く気にしていなかったビアは、急に恥ずかしくなってしまった。
まるで、自分の将来の姿を見せられているような気がしてしまたのだ。
一瞬だが、それをエリックと自分に置き換えて想像してしまったのが恥ずかしくてたまらないのである。
「————お、なんだ。ジャン。君も興味があるのか? 面白いよなぁ、吸血族の男って」
「め、メビウス少尉!?」
背後から突然声をかけられ、振り返るとそこには技術班のメビウス少尉が立っていた。
丸メガネにひどい寝癖が特徴的なこの男は、ニヤニヤと笑いながらブラックたちの様子を見ている。
(い、いつの間に!? 全然気がつかなかった)
「じ、自分は別に、見ていたわけでは……!! たまたま、居合わせただけで————」
「そうなのか? てっきり、俺と同じで吸血族の生態に興味があるのかと思ったのに」
「きゅ、吸血族の生態……?」
「ああ、なんでも吸血族の男は運命の相手を見つけると、絶対に何が何でも落とすそうだ。相手が人妻だろうと、同性であろうと関係ない。惚れたら自分のものにするまで決して諦めないらしい。まぁ、その分、異常なほどに溺愛するし、浮気もしないからと一部の下級貴族や庶民の女から人気があるらしいぞ」
「そ、そうなんですか?」
「君の上官、エリック・ルーナ隊長も惚れた女の前では、ああなるのかなぁ? 普段の無表情からはまったく想像はできないけどな! ははは!」
「…………」
その通り過ぎて、ビアは何も言えなかった。
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