第四章:伊織

夏の夜、空気は生暖かく、そこここで虫が鳴いている。

その虫の鳴き声に耳を傾けていた伊織は、時刻を告げられすっくと立ちあがった。

戌の刻――。

舞が、始まるのである。


場所は長門の町を見下ろす神社の境内である。

昼間、用向きを告げられた伊織一家は、必要なものを伝令の男に伝えた。

その男たちの手により設置された松明が、今、森のせまる暗闇の中であかかあと燃えていた。

ぱきんと、枝のはぜる音がする。

いま、境内の石畳の上には、伊織がただ一人、中央に中腰で構えをとっているのみである。

伊織の父は、伊織の後方、少し離れた位置に陣取り、笛を帯びている。

境内の下手側に平氏の武者たちがあぐらをかいて、伊織を中心にやや円を描くようにして座っている。

そのどの顔にも疲れが見え、傷を負っていないものなどおらぬほどで、源平の合戦のすさまじさを物語っていた。

ぴゅい――。

か細い笛の音が、奏でられた。

それから笛は、二拍、三拍と調子を上げてゆく。

伊織は笛の五拍目でようやく動き出した。

ゆくり、ゆくりとしたその動きの中に、ある者は美を見出し、またある者は過去の栄光を見出していた。

ひとり、またひとりと、武者たちの中からすすり泣く声が聞こえだす。

彼らの涙をさらに誘うように、笛の音は高く伸び、舞は大振りになってゆく。

ぴゅい――。

今ひとたび甲高い笛の音が、夏の夜空にこだました。

武者たちに分からないように境内の上手側、社の影に陣取って目を凝らしているのは銘信である。

銘信の目に映る伊織の姿は、天から舞い降りた舞姫か、はたまたその身を人間に変えた白鳥の化身であった。

ぴゅい――。

銘信の目の前で、伊織はくるりと身をひるがえす。

伏し目がちな伊織が、両手に持つ鈴の束に視線をやって、その向こうを見た時であった。

はたと、銘信と伊織の視線が合った。

しかし銘信は暗がりにいる。

四方から松明で照らされている伊織に、銘信の姿はどこまで見えただろうか。

舞はそれからつつがなく、ゆくりゆくりと進行した。

すべての演技が終わる頃には、境内に涙を流さぬ者はなく、武者たちは互いに肩を抱き合うのであった。

最後の舞、一段と笛の音が大きく伸び、伊織が全身でその終焉を告げた時には、場内はしんと静まり返り、水を打ったようであった。

しばらく間を置いて、境内は割れんばかりの拍手で埋め尽くされた。

武者たちの口から自然と伊織に対して感謝の言葉が送られる。

中には、立ち上がって伊織に言葉を求める者もいる。

銘信はその様子を、内心はらはらしながら見守っていた。

か細い伊織の腕に武者の大きな腕が触れるたびに、内から脈打つものがこみあがってきた。

伊織は武者たちの中にあって、慣れているのであろう、難なく質問に答えているのが目に見える。

その後ろには父親がいて、伊織の拙い部分を補っているようである。

銘信は、伊織が来た道を帰るものと踏んでいた。

つまり、伊織は帰るときに銘信のそばを通るのである。

銘信は、じっとその時を待った。


果たして、伊織は武者たちのひとしきりの感謝を受けたのち、きびすをかえし、父と共に社の裏道を通るべく銘信のそばまでやってきた。

近くに来るまで松明の灯りで見えなかったのであろう、一人の男児が自分のそばにいると気づき、伊織ははたと足を止めた。

銘信と伊織の視線が、今度こそ、疑いようもなくかちあった。

「あの、俺、銘信ていいます」

ぎこちない銘信の自己紹介を受けて、伊織はくすりと笑った。

「はじめまして、私は伊織。ずっとそこにいたの?」

銘信はそう言われてはじめて社の暗がりから身を乗り出した。

これで見えるだろうかとばかりに顔を明るい方へ向け、銘信は思い切って言った。

「あなたの舞を、ずっと見ていました。素晴らしかった」

そんな台詞など言われ慣れているのだろう伊織は、それでもはじめてそういった言葉を聞いたかのように反応してみせる。

「まぁ、うれしい。銘信さんは舞は初めて?」

「はぁ、舞をしたことは未だかつて一度もないです」

銘信の答えに、伊織はきょとんとする。

そこではじめて銘信は質問の意味を違えていたことに気が付いた。

「あ、間違えた。舞を見るのは、初めてじゃないです。先日、昼間、ここの境内で舞っている伊織さんを見ました」

伊織はおかしくなったのか、「まぁ」と言ってくすくす笑う。

その様子に、銘信もおかしくなり笑いがこみあげてきた。

「京では男子の白拍子も珍しくないのよ。今度、舞を教えてあげるわ」

思いもよらない伊織の返しに、銘信は内心驚いて返す。

「いいんですか、ぜひ。一度舞を習ってみたかったんです」

「まぁ」

伊織は再びくすくすと笑いだし、つられて銘信もへへへと笑うのだった。

「伊織、もうそろそろ」

そう言う父にせかされて、伊織は銘信に別れを告げる。

「じゃあ、明日の昼はどうでしょう。ここで」

背を向ける伊織に、銘信がなかば叫ぶようにして提案する。

「いいわ。明日の昼、ここで」

振り向きざまに見せた伊織の笑顔は、銘信には今夜のどの表情よりも輝いて見えた。

明日の昼、ここで――。

二人のあいだに、はじめての約束が交わされたのだった。


果たして、翌日はからっと晴れたいい天気に恵まれた。

銘信は朝から身だしなみを整え、太陽が真上に来る頃には伊織の泊っている屋敷を訪れていた。

「まぁ、本当に来たのね」

「ああ、本当に、来た」

にししと笑って、銘信は白い歯をのぞかせた。

それから二人は神社へと歩いて向かった。

道すがら、飢饉でやられている町の中を通るのであったが、それも二人にとってはもはや背景に過ぎなくなっていた。

今、二人の前には、舞を共に舞うという共通の楽しみだけがあるのであった。

境内につくと早速伊織はたすきをして舞の指導に入った。

十六になるという伊織の背は、同じく十六になる銘信の背より少しだけ低い。

「笛を持ってきたの。父に習って少しは吹けるから、一通り動きを覚えたら笛の調子に合わせて舞ってみましょう」

そう言って伊織は、銘信の背後に立ち、手取り足取り動きを丁寧に教えていった。

銘信の覚えは決して早い方ではなかったが、二人の間にそんなことはもはや問題ではなく、ただ二人でいる時間が楽しく感じられるのであった。

ずっとこうしていたい――。

伊織に手を取られ、足を取られ教えてもらっている間、銘信は天にも昇る心地であった。

夕方になる頃には、銘信は一通り動きを覚え、拙い伊織の笛の音に合わせられるまでになっていた。

「そうそう、上手上手」

言われて銘信の体に力が入る。

「あら、駄目よもっと力を抜いて」

この日から、二人のそんなやりとりが、日がとっぷりと暮れるまで連日続いたのであった。



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