第五章:説法
長門の町に、いっそうの飢饉が訪れていた。
長く続く日照りで作物はなえてしまい、水も枯れだし、年貢も納められない家々が多く出た。
そのうえ、病までもがはびこっていた。
この時代、「衛生」などという概念はない。
人々は路上に糞尿をまき散らし、生水を飲み、熱を通さないものを何も考えずに食べて暮らしていたため、当然のように病にかかるのである。
道端にうずたかく積もる死体の山を前に、いま、九星はため息をついていた。
死体の額に文字を書いて供養とするその技を、巷の人々はそれほど評価してはくれないと感じていた。
文字を書いてくれと乞われはするものの、書いたところで手を合わせることを求められ、酷い時には感謝もされなかった。
そう、「感謝されない」――。
このことが、九星の心に大きくのしかかっているのだった。
今日も九星は町に繰り出し、方々を練り歩き死体の額に文字を書く技を行っていた。
あるうらぶれた屋敷の前を通りがかった時のことであった。
「おい、そこの尼」
どこかから、九星を呼ぶ声がした。
遠い耳にも聞こえるほどだから、よほどの大声で呼び止められたのであろう。
九星はあたりをきょろきょろと見回した。
「こっちだ、こっち」
見ると崩れた土塀の内に、男が二人、立っていた。
呼ばれて行ってみると、男たちは九星を屋敷の中にまで案内した。
果たして、彼らの求めるままに進んでみると、そこにはもう息のなさそうな女人が一人、伏していた。
「この方は?」
九星が尋ねる。
「この屋敷の奥方よ」
男の一方が答えた。
「もうこと切れそうだから、額に文字を書いてくれ」
男のもう一方が言った。
「え、しかし、まだ息があるようですが」
「もう死ぬだろうから、いいんだ」
男はこともなげに答える。
九星の内に、炎が灯る。
「失礼ですが、あなた方は、この方とどのようなご関係になりますか」
九星は声の震えを伝えぬように、そろりそろりと尋ねた。
「うるせぇ尼だなぁ。息子だよ息子。文句あるか」
なんと。
この家では息子が母親の死を目の前にしてその額に文字を書くように僧に命じるのかと、九星は目を丸くした。
「ほれ、さっさと書いてくれ」
仕方なし、九星は一度手を合わせた後に、失礼しますと言って墨をつけた筆をその額に走らせた。
それからお経をあげようと口を開い時だった。
男の一方が「経はいらねえ。ただじゃねえんだろ」と言った。
――なんという、家か。
九星は二人の男と視線も合わせず、ただそこにじっとしているしかなかった。
そうこうしているうちに、彼らの母親は静かに息を引き取った。
黙ってその場にいるわけにもいかないので、九星は「お代は結構ですから」と言って、長い経をひとつ、その母親のためにあげてやった。
経を終えると、男の一人がやってきて、言った。
「ついでに、この死体を片付けてくれるかな、尼さんよ」と。
もう怒りを通り越して呆れる境地となった九星は、悲しい気持ちでその屋敷を後にした。
帰り道、立派な僧の服を着た恰幅の良い一行が、道端で説法をぶっているのに出くわした。
そこに集う人々の中には、手を合わせる者や、涙を流す者が多くあった。
それを見やって、九星は思った。
不公平だ――と。
内から燃え上がったその炎は、いつまでも、いつまでも九星を熱くさせるのであった。
次の日から、九星は廃寺を整え、説法を行うと決めた。
寺に打ち捨てられていた死体は丸一日をかけて一か所に集めよけて置き、本格的な活動はその次の日から始まった。
なにはなくとも、まずは宣伝からせねばなるまい。
九星は、寺に供え物を持ってくる者たちをつかまえて、今日の午後、寺に来たらありがたい話を聞かせてあげようと言って、宣伝をぶった。
果たして、この日の午後、ぱらぱらと人は集まった。
「皆さま、よくお集まりいただきました」
九星は皆の前であいさつをした。
「今日、皆さまにお集まりいただきましたのは、ここに一つ、説法をしたいと思ったからでございます。説法というのは、仏様のありがたいお話のことでございます」
集まったのは近所に住む、めずらしもの好きな面々であったが、そのうちの一人が言うことには。
「いいから早く始めろよ」
暑い最中、皆、気が立っていた。
九星は、「では」と言って口を開いた。
「ここに、立派な僧侶と貧しい僧侶がおりました。立派な僧侶は立派な袈裟を着て、立派な食事を食べて、毎日のように立派な寺で説法を行います。貧しい僧侶は、貧しい衣服を着て、食べ物もろくに食べられないまま、辻で説法を行います。どちらに人が集まったでしょうか」
九星は皆の顔を見回す。
「そんなの、知るか」
九星の遠い耳に、そんな言葉が届いた。
「はい、実は貧しい僧侶の方に、多くの人が集まったんですね。というのも、立派な僧侶は立派なだけに、与えられているもののありがたみが分からなかったんですね。貧しい僧侶は、貧しいながらも不平を言うことなく地道に辻説法を続けた。仏様はそんな貧しい僧侶の心根を見ていたのですね。皆様も、この難しい世の中、不平を言わずに心清らかに過ごしましょう。お話は、以上になります。お聞きいただきましてありがとうございます」
九星はそう言うと、深々と一礼した。
するとこんな声があがった。
「けっ、なんだよ、つまらねぇ。単なる説教じゃねぇか」
「この暑い中、呼びつけといて説教たれるなんざ、何様だこの婆ぁ」
そう口々に言うと、皆、散り散りに散っていった。
残された九星は、ひとりぽつねんとあぐらをかくと、まるで蝉の抜け殻のように茫然とした。
そのまま、四半時ほどが過ぎた。
庭では、気の早い日暮らしが鳴き始めていた。
九星は、一体何が悪かったのだろうかと反省をすることにした。
彼らが言った言葉から察するに、九星の説法は説「法」ではなく、説「教」に聞こえたとのことだった。
説教といえば、上の者から言われる耳の痛い小言である。
一体、自分のどこに落ち度があったかといえば、彼らに対し、上からの目線を持ってしまったという点にあるのかもしれない。
一時ほど考えて、九星は自身の心と向かい合った。
今日の説法は、先日、道端で説法をしていた恰幅の良い僧侶の一行を見て思いついたものだった。
説法の中で、九星は彼らを暗にこき下ろした。
立派な僧侶の例は彼らのことで、貧しい僧侶の例は、九星をはじめとする貧しいながらも務めに励んでいる僧侶のことだった。
そう、九星の説法は、説法という名を借りて自分の気に入らないものをこき下ろすといった、単なる九星の溜飲を下げるためだけのものだったのである。
それを皆に見透かされていたのかもしれない――。
そう思い至った時、九星の中に、相反する二つの感情が芽生えた。
一つは、まだ初回だから失敗もある。今後の糧にして更に励んでゆけばよい、という謙虚なもの。
もう一つは、一体誰の説法に対して誰がどの面下げて文句を言っているのか、という激しい怒り。
双方の感情があいまって、九星は次回こそはと説法の案を練りに練るのだった。
しかし、そんな九星が考えに考え抜いた説法の人気は、ことごとく良い結果を見なかった。
一人、また一人と、寺に集まる人の数は減っていった。
九星は肩を落とし、ここでもやはり、自分の力が足りないからだというものと、自分の説法が通じないのは世の中が間違っているからだという両極端な思いが首をもたげた。
少し涼しくなったある日のこと、そんな九星のもとを九朗が尋ねた。
「あら、久しぶり、九朗」
連日、説法のことを考えて煮詰まっていた九星は、たまには九朗と遊んで息抜きをしたいと思った。
「久しぶり、九星さん。俺が来ない間、どうしてた?」
相変わらず屈託のない笑顔を向ける九朗に、九星は思わず自分でも不思議なほど正直になった。
「説法をね、つまり、みんなを集めて仏様のありがたいお話をしようとしているんだけど、なかなか人気がなくてね」
「へぇ。九星さん、面白いこと始めたんだ。それってどんな話なの」
乞われて九星は、これはと思うものをひとつ、聞かせてやった。
しかし九朗の反応は思わしくないものだった。
「それじゃあみんな飽きちゃうよ。何か、もっと面白い話、ないの」
「面白い……?分からないねえ。九朗は、どんな話が聞きたい?」
九朗はうーんと言って少し間をとった末に次のように答えた。
「やっぱり、武士が出てくる話がいいなあ。飢饉や病で気が弱ってるから、うんと強い武士の話がいい」
「へぇ」
武士――。
それは九星の故郷を救った者たちであった。
また、九星が長じてから身を寄せた讃岐の村に不幸を招いた者たちであった。
九星にとって武士とは、己を救ってくれた者たちでもあり、不幸をまき散らしていった者たちでもあった。
そんな話でいいのなら、いくらでも――。
次の日から九星は、強い武士たちがいかに人々を無残に殺めたか、そこに世の無常をからめ、仏様の慈悲を共に求めましょうといった形で説法を始めた。
すると噂が噂を呼び、世にも珍しい武士を知っている尼がいると評判になり、町中から九星の説法を聞きに来る者たちで連日寺は一杯になったのだった。
その中には、九朗はもちろん、九朗の兄の銘信と、すでに良い仲となった伊織の姿もあった。
九星のもとには毎日のようにお供え物が届けられた。
説法が終わると、九朗と銘信、それに伊織の四人でそれらを調理し、ささやかな宴という名の反省会が行われるのが常となった。
そんな日々が、一か月ほど、続いた。
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