第三章 落人
この頃、世の情勢は大きく動いていた。
東の果てで旗を揚げた源氏が、平氏を打ち倒したのである。
平氏は都を落ちのび、長門の町の目と鼻の先まで船でやってきていた。
その最後の源平の合戦が、今まさに繰り広げられていたのである。
美しい舞姫を神社の境内で見た翌日、銘信は再びあの舞姫に会えはしないかと高台にある神社を訪れていた。
暑い最中である。
石畳から立ち昇る陽炎が方々でゆらめき、階段を登り切った時には、銘信は汗だくになっていた。
腰から下げていた竹筒に口をつけ、川から汲んできた水を飲む。
太陽は、もうそろそろ真上にかかろうかという頃合いである。
四方八方からけたたましい蝉の声が響いている。
銘信は石段の上に立った。
眼下には、坂の多い長門の町が広がっている。
昨夜はろくに眠れなかった。
あの舞姫のことが脳裏から離れなかったからであった。
町を見下ろしながら銘信は、あの舞姫も、今頃きっとこの町のどこかの木陰で涼んでいるに違いないと思った。
見た所、町の者ではなかったが、であるならば旅の者か。
いつまでこの町にいるのだろう。
いつ、この町を去ってしまうのだろう。
近づきたい。
知り合いに、なりたい。
いや、親しい中に、なりたい。
銘信の頭の中には、昨日見た、下がり目に泣きぼくろの少女の顔がありありと浮かんでいた。
「よし、ひとつ探しに出てみるか」
そう言うと銘信は、鳥居の下できびすを返し、今来た階段を駆け降りていったのであった。
銘信が見た舞姫は、名を
伊織は幼い頃は京の都に住んでいた。
そんなに大きな家ではなかったが、それでも家族が仲良く暮らせるだけの暮らしが、そこにはあった。
母は貴族に舞を披露する白拍子で、都でも知る人ぞ知る舞姫であった。
父は笛をたしなむ演奏者で、父はよく母と連れ立って舞を納めに家を留守にしていた。
幼い伊織は乳母とともに、両親の遅い帰りを待つのが常であった。
長じて伊織は母の教えを受け、若くして白拍子となり、母と同じく貴族の屋敷に呼ばれるまでになった。
家族三人、つつがなく世を渡っていたが、突如平安が破られたのが、去年の暮れのことであった。
懇意にしてもらっていた貴族が、都落ちをするというのである。
「世話になった。これより先は用無しとなる。あの世で相まみえようぞ」と、館の主人から言い渡され暇を突き付けられたのが、春先のことであった。
それから家族は途方に暮れた。
舞わねば食えぬ。
しかしその舞う場所こそが失われたのである。
仕方なく家族は、白拍子の舞を見たいという裕福な家々をまわる旅にでることにしたのであった。
しかしどこへいけばそのような家々があるかもわからず、足は自然と平氏が落ち延びた先である西へと向かった。
西へいけば、再び平氏の方々に目をかけてもらえるかもしれぬと思ったからであった。
家族は京を出て西へ、西へと旅をした。
町々の裕福な家を渡り歩き、寝起きとわずかばかりの食料と引き換えに毎夜毎夜、舞を披露した。
受け入れる家の者たちは、本場、京の都の白拍子の舞であると、ことのほか喜ぶ者が多かった。
長門の町へ流れ着いたのは、そういった日々を四半期ほど過ごした頃のことであった。
「伊織、第二幕の振りは、もう完璧なの」
旅路で足を痛めた母が、水でくるぶしを冷やしながら伊織に問う。
「あら、もう母上よりも立派に舞えてよ」
伊織はそう言うと、元気よくあははと笑った。
伊織の家族は、今は長門の町の港町付近の地主の屋敷に世話になっていた。
「じゃあいっちょ、この父の笛に合わせてみるか」
そう言うと、板敷の上にあぐらをかいていた父が笛を取り出し、一節、また一節と奏でてみせる。
そうして、地主の家の庭先で、舞が始まった。
それを垣根の隙間から覗き見る男が一人――。
男は、ひとしきり舞を見終わると、すぐさまとって返して自分の主にこう告げた。
「町に見事な舞を舞う白拍子がおります。今夜あたり呼びだてましょうか」
彼の主人はこう答えた。
「この世ともこれでおさらばかもしれぬ。この世の見納めに、ひとつ所望しようではないか」と。
男たちは鎧兜を着て、長門の町を囲む山々に潜んでいた。
その旗印は、平氏。
そう、源平の合戦で逃げのびた、平氏の落人たちであった。
何やら妙な男が垣根にへばりついている。
それを見とめた者がここにひとり、いた。
銘信である。
銘信は、方々に伊織について尋ねてまわり、ついに伊織たち一家が身を寄せる屋敷を突き止めた。
この時代には珍しくはない、垣根から庭の中をのぞくという行為を「垣間見」と言うが、銘信も例にもれず、この垣間見をした。
庭ではちょうど伊織が舞を始めた頃合いであり、父親と思しき男性が奏でる笛の音が、垣根の外にまで響いていた。
母親と思しき女性は足を痛めているらしく、一人離れた場所で患部に水をつけながら涼んでいる。
伊織は庭の真ん中に出て、ゆくり、ゆくりと舞始めていた。
そのような幻想的な一家の光景を、自分より他にも垣間見る者がいるのを、銘信はしばらくしてから気が付いた。
それも、一人、二人ではない。
どうも、笛の音に誘われて、暑い最中、何もすることのない町人たちが、我も我もとこの庭に鈴なりになっているのだった。
その中に、例の男も、いた。
町人に混じり、一人だけ鎧をつけたその恰好が、銘信の目を引いた。
銘信は男が一旦去り、再び戻ってきたときには、一家に今宵の舞を所望する旨を伝えていたことを小耳に挟んだ。
場所は町の神社。
銘信がなにくれとなく訪れる、あの神社であった。
今宵、戌の刻、神社の境内で少女の舞が披露される――。
銘信は、そのことをきっと頭に刻み、その場を後にしたのであった。
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