哲学する筋肉

月井 忠

一話完結

 私は筋トレの合間に小説のネタを思いつくことがある。

 そのせいか、わずかな時間でも考えるくせがついた。


 今回考えるべきネタは「犠牲」である。


 犠牲。


 そんな大層なもの、私の人生になかったのではないか。

 いろんな方向から考えてみたが、これと言ったものは思い浮かばない。


 ならば、犠牲などないということでエッセイを書いてみようかと考える。


 いや待て。


 本当に犠牲のない人生などあるのか。

 そんな疑問が私の心を捕らえる。


 私は引っ掛かりを感じたまま、ベンチプレスを始めた。

 ふんふんと息を吐きながら、疑問に集中していく。


 ダンベルを床に置いて、自らの荒い呼吸を聞く。


 犠牲のない人生。


 違う。


 私は数多の犠牲に気づいていないだけなのではないか。


 そっと胸に手を当てる。

 良い大胸筋だ。


 この大胸筋を育てるにはダンベルが必須だ。


 私は愛用しているダンベルに目を向ける。

 このダンベルを作った誰かがいる。


 その者にとってダンベルを作ることは時間を犠牲にしたと言えないか。

 いや、ダンベルだけではない。


 愛用のプロテインにしても、誰かが作っているのだ。


 もちろん、彼らは筋肉に関わる者たちだ。

 その仕事が犠牲などとは思っていないだろう。


 誰もが嬉々としてダンベルを磨き、プロテインを袋詰しているに違いない。


 だが、こうして呑気に筋トレをしている私にとっては、彼らの貢献が必須なのも事実だ。

 彼らの働きに報いたい気持ちでいっぱいなのだ。


 私自身が犠牲を払ったことはないかもしれない。

 だが、私の筋肉は誰かの犠牲の上に成り立っている。


 私は再び胸に手を当てた。

 やはり良い大胸筋だ。


 私はベンチプレスを再開する。


 私の筋肉を形作ってくれた、名もなき者たちの犠牲に感謝を。


 そうして私は筋トレを終え、愛用のプロテインを飲むのであった。

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