変えたい私の走り方

心臓の音がよく聞こえる。


吐く息は白く、目の前に広がっては消えていく。

冷たい風が火照った頬に当たるのが好きだ。

ふーっ、と口で吐き、鼻で2回吸うのを繰り返す。

太陽が昇り始めた朝の景色は、どこもかしこも白っぽくて淡く、なんだか眩しい。

別に太陽に向かって走っている訳でも無いのに、目を細めながら進む。

また、1日が始まる…。

呼吸が苦しい。

早朝5時から走り始め、まもなく7時になろうとしている。もうすぐ家に着く。

そしたらシャワーを浴びて、スーツに着替え、朝ごはんのおにぎり2個を食べたら会社に向かう。

もう何度繰り返している作業なのだろう。

分からないし、もうずっと同じ日を過ごしている気がする。

この早朝ランニングも、最初は日々を変えたくて始めたのに、変わるのは日の出の時間や天気位で作業化していた。

なんだかほぼ病的に走っている。

これをしないと…私は私でいられないんじゃないか。スーツを着たどこにでもいる会社員になってしまうんじゃないか。そんな不安が襲ってくるのだ。

どんなに残業して、どんなに睡眠時間が削られたとしても、早朝に目覚めて走っていた。

このまま、倒れてしまえれば良いのに…。

そんな風に願ってしまう日もある。

あと5分で家だ。

ペースを下げる。着くまでに呼吸を整える…。

道の脇に、白い猫が見えた。

最近よく見る野良猫だ。

私をじっと目で追う。

いつもなら、通り過ぎて終わりだった。

だけど立ち止まってしまった。

「…どうしたの、その怪我」

猫は足の辺りから血を流していた。

白い毛に、ハッキリとついている血痕。

足は隣にある花壇のせいでよく見えない。

ゆっくり歩み寄ると、声と顔で威嚇してきた。

逃げなくて良かった、と思うものの、逃げられないのか、と気付いて切なくなる。

どうしよう、猫、触ったことないし、分かんない…。

丁度家の方を見ると、隣の花原さんの奥さんが新聞を取りに家から出てきていた。

「は、花原さん!」

そんな風に話しかけたことも無いが、思わず大きな声で呼び止めた。

最初は驚いていた花原さんに事情を話すと、すぐ様子を見に来てくれた。

「動けないのね…かわいそうに…。

だけど私も猫なんて触ったことないのよ…。

うーん…警察に連絡すれば良いのかしら?」

「確かに。そんな気がします。スマホを持ってくるので、少しこの子を見ていて貰っても宜しいでしょうか?」

花原さんは頷き、猫の前にしゃがみ込んだ。

誰かにやられたの?と赤ちゃんに話しかけるような優しい声が背中からして、ホッとした。

…誰かが居て良かった。

家に帰れば両親が居るけれど、母は寝ているだろうし、父はまもなく出勤時間だ。

急いで家に入り、部屋からスマホを持って玄関に戻ると、出勤支度中であろう父が顔を覗かせた。

「何かあったのか」

「野良猫が怪我してて」

「…時間は大丈夫なのか?」

その発言に、靴を履こうとした手を止めてしまった。

時間。

…猫が怪我をしていることより、私は時間を心配する人間なんだ。

「大丈夫」

父の方を見ないまま、それだけ言い残して外に出た。

少し苛立っている自分がいる。

私は一体、何に縛られているんだろう。

時間や、ルーティーンだろうか。

そもそもそれは…いつからだろう。

警察に連絡し、花原さんの所に駆け寄る。

「今から保護に来てくれるそうです。10分くらいで」

「あら良かった。…もうすぐ安心できるわよ〜」

花原さんは和かに猫に笑いかけた。

猫は警戒するだけ無駄だと思ったのか、ただただ私達を見上げていた。

「ありがとうございます、助かりました。

後は私だけで大丈夫なので、戻って頂いて大丈夫ですよ」

花原さんはそれを聞いてふふふ、と笑う。

「萌さん、優しいのね」

「…?そうでしょうか…」

「時間。いつも正確だから、少しでも狂ったら嫌なのかと思ってたわ」

「あぁ…嫌、な訳じゃ…無いのですが…」

「今日は大丈夫なの?」

「………」

スマホの時間を確認すると、7:24。

8:45には自宅を出なければいけないのに、私はシャワーも終わっていない。

ふと白猫を見た。

「大丈夫です」

そう伝えると、花原さんは私にニッコリと笑い白猫に顔を向ける。

「あなた、良かったわね」

花原さんはそう言うと、ふと何か思い出したかのように言葉を続けた。

「萌さん、汗かいてるから寒くなるわ。

お家に帰って一旦何か着てきたらどう?」

そう言う花原さんはパジャマである。

「いえ大丈夫ですよ。それより花原さんの方が寒く無いですか」

「大丈夫よ、こんなの。これ、裏起毛なの」

得意げに襟元の裏地を見せてくれた。

「それじゃあ、これ、カイロ。まだあったかくないんだけど。一応ね」

花原さんはポケットから出したカイロを、私の上着のポケットに入れてくれた。

「ありがとうございます」

カイロに触れると、確かにまだ暖かくは無かった。

「萌さん、どうなったか教えてね」

「ありがとうございます、もちろんです」

思わずカイロをぎゅっと握る。

暖かくないのに、もうぽかぽかしている気がして不思議だった。


花原さんが帰って行く後ろ姿を見ていたら、出勤する父が家から出てきた。

思わず目線を逸らし、スマホの時刻を確認する。

「仕事、間に合うのか?」

「…子供じゃないんだから、それ位コントロールするよ」

自分の言葉や声に、苛立ちが混じっている気がする。

父に対してこんな態度を取って良いのだろうか。

後ろめたさからか、何の変化もないスマホを触る。父の顔を見れない。

ふと見ると白猫は目を細めていた。

痛みが結構辛いのだろうか…。

「どうするんだ、猫は」

「警察に保護して貰う。もう来てくれるって」

「…うちでは飼えないからな」

「分かってる」

スマホの時刻を確認する。

「お父さんこそ、もう行かないと」

「…そうだな」

父の革靴の音が離れて行く。

私は白猫の前にしゃがみ込んだ。

「飼えたら、良いのにね」

自分の言葉に驚く。

なんだろう。よく分からない。

知らない感情だ。

だって別に猫を飼いたいなんて願望も無かったし、この子が特別可愛いとも思わないのに

今本気で飼えたら良いと思ってる。

だから私はここで警察を待ってるのだろう。

今の私はおかしい。

朝から走って、怪我した猫を見つけただけなのに、自分のルールも破って、ここにいる。

そしてこの状況を少し楽しんでいる。

この感情はなんなんだろう。

…父に対してあんな風に話したのも初めてな気がする。

でも、そういえば。

高校の進学先を相談した時の父の声を思い出した。

『お前には無理だ。お前は普通だから』

父の低い声が、頭の中で再生された。

そう言われた時の感情と少し似てる気がする。

この言葉は私の中でとてもリアルだ。

リアルで、残酷で、動けなくなる。

言われた時の私は心の中で「そんなの知ってる」を繰り返していた。

でも結局なんにも言えなかった。

今も、父に何も言えない自分が嫌いだ。

あの時と変わらず「そんなの知ってる」しか言えない自分が恥ずかしい。

もう、就職もして大人になっているはずなのに…あれからなんにも成長していない。

この子を飼いたい。

これを父に納得してもらう為に…私はなんて言えば良いだろう。

「驚いた。萌、仕事大丈夫なの?」

焦った表情の寝起きの母が駆け寄ってきた。

「シャワーの音がしないから…何かあったのかと思って」

「ごめん、大丈夫。それよりこの子が…」

「わっ痛そう…。救急車呼んでるの?」

「警察がそろそろ来るの」

「あぁ…なるほど。まぁ良かったわ。職場には?この後連絡するの?」

母は肩を落として、安心したように微笑みながら白猫を見た。

「…う、うん。今日は昼から会議だから、最悪朝は半休使おうかと思って」

「そう」

母はもう私を気にせず、白猫に夢中だ。

「…半休使うのは驚かないんだ」

「ん?なんで?別に良いんじゃない。あなたが自分のペースを崩すのは、ちょっと珍しいけど。……あとそういえば、猫好きだったなぁと思って」

「え?」

「え?」

母と私は顔を見合わせた。

「私、猫好きだっけ………」

「そうよ。いつだっかな…一度捨て猫拾ってきて、お父さんに無責任だ!戻してこい!って怒られて、泣いて交番まで行ったのよ」

「………覚えてない」

本気で覚えてなかった。

私は…。

「あぁ、でもそうね。

今は責任取れるから、反抗するチャンスじゃない。

…ごめん、寒いから母さん家帰るわね」

母はそう言ってバタバタと帰っていった。

呆気に取られて、しばらく動けなかった。

私は本当に、何に縛られていたんだろうか。

今なら分かった気がする。

自分が普通だと知ってる。

猫を飼えないのも、知ってる。

そんなの、知ってる。

そんなの知ってる…。

「……それでもやってみたい」

"普通"を理由にしたくない。

変えない理由を集めたくない。

ちゃんと自分で選択したい。

変えるなら、きっと今だ。

「あの、高山萌さんでしょうか?」

見上げると、警官の男性がいた。

「あっはい!……そうです」

思ったより大きな声で返事してしまった自分に驚いた。

「怪我した猫は…あぁ、この子ですか」

警官は手に持っていた毛布を広げて、白猫に優しく話しかける。

「もう大丈夫だよ、安心してね」

その声は手に持っている毛布のようにふわふわと優しそうで、不思議と伝わるはずの無い白猫にも伝わったように感じた。

白猫は毛布に包まれ、安心したように微睡んでいる。

そして後ろから駆け寄ってきたもう1人の警官が、猫用のゲージの上部を開き、毛布のまま入れられた。

「とりあえず、飼い主が居るかお調べしつつ、病院の方に届けます。飼い主様が居なければそのまま保護対象としてセンターに預ける形になるかと…。色々気になるようであれば、ご連絡差し上げますが、どうされますか?」

警官は私に目を向ける。

「…お願いします」

「ではまたご連絡致します」

そう言って、2人の警官は頭を下げ立ち去る。

「あ、あの!」

つい呼び止めてしまった。

「もし、飼い主が居なかったら…私が保護するとかも…検討出来るんでしょうか」

最初に来た警官が、にっこりと笑った。

「もちろんです。ただ、野良猫だった場合、一時的に保護センターに行く可能性はありますのですぐにでは無いですが。…その辺りもご連絡しますね」

「ありがとうございます!」

頭を大きく下げる。

心臓の鼓動が、すごく早かった。

こんな無責任な質問、と思いながら、一人暮らしの計画を頭で淡々と組み立てている自分もいて笑えてくる。

チャンスを、掴もう。

「それでもやりたい」を大事にしよう。

父に反対されるだろう。

でも、大丈夫な気がする。

警官達の後ろ姿を見届けながら、ポケットに手を入れた。

さっき貰ったカイロがとても暖かくて、優しかった。









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【短編集】これだから人間はおもしろい かなこ☺︎ @kanakomiya

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