【完結】やわらかに降る雨のように(作品231008)
菊池昭仁
やわらかに降る雨のように
第1話
駅のスターバックスは静寂の中に沈んでいた。
午後3時、気怠い
周囲を気遣い、パソコンのキーボードを撫でるように打つビジネスマン。
カバーの付いた文庫本を読む電車待ちのOL、参考書を広げる女子高生たち。
大学生らしきグループもいたが会話をすることもなく、各々スマホをいじっている。
「すみません、このクランチーアーモンドチョコレートフラペチーノってやつを下さい」
「店内でお召し上がりですか?」
「はい」
私は注文カウンターを離れ、デリバリーカウンターでそれを待った。
「お待ちどうさまでした。クランチーアーモンドチョコレートフラペチーノでございます。
ごゆっくりどうぞ」
「スタバの商品はネーミングが洒落てるよね? 俺みたいなオッサンが言うには抵抗があるけど。
舌を噛んでしまいそうだよ」
「スターバックスにはお客様のような素敵なオジサマがお似合いですよ」
「そんなお世辞を言われたら、もうマックの珈琲は飲めないな? ミルクと砂糖は付いて来るが、#お世辞__・__#は付いて来ない」
マンハッタンのスタバにいるような気分だった。
その女性スタッフはクスッと笑った。とてもチャーミングに。
「宇都宮駅に15時12分着の新幹線で行くからよろしくね?」というリサと、私はこのスタバで待ち合わせることにした。
季節感の乏しい宇都宮駅前のロータリーにも、秋の気配はそれなりに近づいていた。
今日の話題は秋には
私はカップから溢れそうなチョコレートソースが掛かったホイップクリームに多少の苛立ちを覚えながら、ストローを啜った。
リサがやって来た。
「ごめんなさい、お手洗いに寄って来たから少し遅くなっちゃった。
めずらしいわね? あなたがそんな物を飲むなんて。女子かっつ? あはは」
「一度飲んでみたかったんだ。それにここには酒は置いてないからな?」
「私にはその山盛りのクリームは要らないなあ。ブレンド、頼んで来るね?」
リサは注文カウンターへ向かって歩いて行った。
カーキー色のバーバリーのトレンチコートにハーフブーツ。
栗毛色のショートボブのリサは秋と一緒にやって来た。
リサはカップを両手で持ちながら、上目遣いにブレンドを口にした。
私が去年のホワイトデーにプレゼントした、お気に入りのルビーのイヤリングが揺れた。
「昨日、女房と離婚した」
リサはそれを眉ひとつ動かすことなく、まるで他人事のように聞いてそれを無視した。
スプーンで私のフラペチーノのクリームを掬い、彼女はそれを自分の珈琲に浮かべた。
「ねえ見て見て、ウインナーコーヒーになっちゃった」
「結婚しよう、リサ」
「そんなプロポーズ、今、ここで言うかな? 聞いたことないわよ、スタバでプロポーズだなんて。
そもそも私、奥さんと別れてなんて言ってないから」
リサはそんな女だった。
会う度、リサは私にせがんだ。
「一体いつになったら私の苗字をあなたの苗字に変えてくれるの?」
それがリサのいつもの口癖だった。
「そうだよな? 君は苗字を変えてくれとは言ったが、女房と別れてくれとは言ってはいない。
俺が勝手にしたことだ」
リサは少し寂しげな表情をした。
「ごめんなさい、いざそうなるとあまりいい気はしないから。
だって私はあなたを奥さんから奪ったんだから。
恋愛なんてシーソーゲームみたいなもの。
一方が上がれば、もう片方は沈む。
私が幸せになれば奥さんは不幸になってしまう」
「君が俺を女房から奪ったわけではない。俺が女房から愛想をつかされただけだ。
そしてリサが俺を好きになったんじゃなく、俺がリサを好きになった。
ただそれだけのことだ」
駅のスタバでする話ではなかった。
「ねえ、モンブランが食べたい」
私は彼女に千円札を渡した。
モンブランケーキをトレイに乗せ、微笑みながらリサが戻って来た。
「秋はやっぱり和栗のモンブランよね?」
リサはフォークでそれを掬うと、それを私の口へと運んでくれた。
少し渋みのある和栗の甘さが口に広がった。
「どう? 秋の味は? 美味しいでしょう?」
私は黙って頷いた。
それは秋の味というよりも、夏の終わりの味がした。
第2話
「何か食べて行くか?」
「お家で食べようよ。スーパーでお買物して、ついでに美味しいワインも買って」
マーケットで食材を買うことにした。
私はショッピングカートを押しながら、リサについて歩いた。仲の良い熟年夫婦のように。
「ねえあなた、今日は何が食べたい?」
「今日はなんて、いつも一緒にいる夫婦みたいだな?
リサの食べたい物でいいよ、俺は好き嫌いはないから」
「人の好き嫌いは激しいくせに。ヘンな人」
うれしそうに微笑むリサ。
リサは私のことを少し照れながら「あなた」と呼んだ。
しあわせそうなリサの横顔を見ていると、こんな普通のありふれた夫婦のような時間を、リサと俺はずっと待ち望んでいたのだろうと思った。
「じゃあさ、シャトーブリアンとトリュフにベルーガのキャビア、それとエシャロットにそれからそれから・・・」
「このスーパーにはそんな食材は置いてないよ、料理長さん」
「しょうがないわねー、それじゃあ焼肉にしようか? 叙々苑のタレで」
「それからバゲットにゴルゴンゾーラ、生ハムも頼む。
赤ワインはボルドーのテーブルワインでいいか?」
「あなたに任せるわ、お酒はあなたの方が詳しいから。
ポテチとハイネケンも買いましょうよ。
サラダはトマトとバジル、それからモッツアレラにバルサミコでいいかしら?」
「ああ、カプレーゼでいいよ。ワインに合いそうだ」
本来ならシャンパンなのだろうが、私はそういう気分にはなれなかった。
それはリサも同じ気持ちだった筈だ。
もし私がシャンパンに手を伸ばしたとしても、リサはそれを止めただろう。
25歳の時に結婚して20年、最悪の別れだった。
私は一生、冴子の涙を忘れることは出来ない。
あんな悲しい女の顔を、私は今まで見たことがなかった。
半年間別居した末の離婚だった。
私と冴子は10年以上も夫婦関係はなかった。
酔って帰った時、一度だけ冴子を求めたことがあったが、彼女はそれをきっぱりと拒絶した。
「止めて! そんなにしたいんだったらそういうお店に行けばいいでしょう!」
私はそれ以来、二度と冴子を抱こうとはしなかった。
夫婦が別れる理由は様々だ。
食事の時、音を立てて食べる、脱いだ靴下を洗濯籠に入れない、本を読まない、料理が下手・・・。そんな些細なことの積み重ねが何かのきっかけで敢え無く崩壊してしまう。
そして一番の理由はセックスが合わないことだ。
夫婦のすれ違いはそこから始まる。「抱きたくない男」と「抱かれたくない女」
「なんで別れたの?」
「性格の不一致よ」
でもそれは性格ではなく、カラダの相性が悪いということなのだ。
なぜなら、性格の合わない嫌いな相手とは、#する__・__#気にもならないからだ。
そして4年前、私はリサと不倫するようになった。
彼女は司法書士をしており、リサにはいつも土地や建物の登記を依頼していた。
ある日、顧客との銀行での土地取引が終わり、リサが法務局へ行く際、私は彼女に声を掛けた。
「先生、今夜一緒に食事でもどうです? いつもお世話になっているのでその御礼です」
「いいんですか社長? お忙しいのに」
「不動産屋なんていつも暇ですよ」
その夜、私たちは鮨屋で鮨を摘まみ、私の行きつけのスナックで飲んだ。
「先生がそんなに面白い女性だとは思いませんでしたよ」
「それはお互い様ですよ、社長がそんなに楽しい人だとは思いませんでした。
怖い人だとばかり思っていました。
男の人とお酒を飲むなんて、ホント久しぶりです」
「先生、ご家族は?」
「シングルマザーですよ、最近
リサの潤んだ瞳が完全に私を挑発していた。
「流行ですか? でも先生のような美人なら、すぐにシングルじゃなくなりますね?」
「それがもう10年もひとりなの。あー、エッチしたーい! あはははは」
リサはお道化て私にキスをした。
その夜、私は久しぶりに女を抱いた。
それがリサとの始まりだった。
ある時、冴子が寝ていた私を揺り起こした。
「あなた! 浮気してるでしょう!」
冴子は私の肌着を私に突き付けてそう叫んだ。
そこにはリサのレブロンの口紅の痕と、栗色の彼女の髪の毛が付着していた。
冴子は黒髪のショートだった。
それはリサが意図的に仕掛けた物だった。
第3話
私はバゲットにエキストラ・バージンオイルを掛け、そこにゴルゴンゾーラを乗せた。
「好きだよね? ゴルゴンゾーラ」
「好きというより、ワインに合うだろう?
匂いはキツイけどこうして食べると旨いんだ」
「私はこの匂いは苦手だなあ」
「リサはこっちのモッツアレラを食べるといい」
「トマトとバジルってピッタリよね?」
「ナポレオンはチーズ好きで有名だった。
チーズの匂いを嗅ぐと、「おお、我が愛しのジョセフィーヌ!」と、妻の名を呼んだという逸話もある。
昔のフランスの女はアソコからそんな匂いがしていたんだろうな? 風呂にもあまり入らないわけだし」
「私のアソコもチーズの匂いがする?」
「リサのアソコは蜜の味だ。シャインマスカットよりも甘い味がするよ」
「味じゃなくて匂いの話をしているんですけど?」
リサはカプレーゼを食べた。
「とてもエロティックな香りがするよ。
アンダーヘアに軽く吹き掛けた、シャネルの『アリュール』の香りがね?」
「じゃあ今夜もそうしてあげるね? うふっ」
リサは上目遣いに私を見た。
私はワインを飲んだ。
リサの白くて華奢な喉を、冷えたハイネケンが流れて行った。
「なんだか新婚さんみたいで緊張するわ」
リサが言った。
「なんだかいつもと違う感じだよな? 俺たち」
「何か音楽でもかけようよ、何がいい?」
「ブルーハーツとかRCサクセションとかはどうだ?」
「今夜はクラッシックがいいなあ、ラヴェルとか」
「亡き王女のためのパヴァーヌ?」
リサはそれを即座に拒絶した。
私は自分にデリカシーが欠けていることを恥じた。
「ボレロがいい」
彼女は私のCDの棚からそれを探し出し、コンポに収めた。
曲が流れ始めた。
指揮はカラヤン、ベルリン・フィル。
私のクラッシック・コレクションにはカラヤンしかない。
他はゴミだ。
「私もワインにしようかな?
そろそろお肉も焼こうよ」
私は『愛と哀しみのボレロ』というフランス映画を思い出していた。
クロード・ルルーシュの映画だった。
ボレロとはふたつの旋律が同時に繰り返されるもので、そのふたつの旋律は決して交わることはなく、それぞれが独自に進んで行く音楽だ。
「ボレロっていつまでも終わらないわよね?」
「終わらせようとしない限り終わらない、男と女みたいなものだな?」
「終わらせたいの? 私と?」
私はリサにキスをし、軽く乳房に触れた。
「ねえ、もっと飲みましょうよ。私、今日は凄く酔いたい気分なの。
そして思い切り強く、激しく抱いて欲しい」
あっという間にワインもビールも空になった。
それでも飽き足らず、リサは冷蔵庫からテキーラを持ち出して来た。
「ライムがあるといいんだけど」
「これからは買っておくよ、リサはライムが好きだから」
「ライムというよりテキーラが好きなの。
私、レモンよりもライムが好き。苦味が強く、レモンよりも鮮烈だから」
「リサは硬派だからな?」
「あなたはやさしい人だもんね? 誰にでも。あはははは
でもね、時々そんなあなたが憎らしくなる時がある」
「どうして?」
「今みたいに別れた奥さんのことを想っている時とか。
さあ、私を抱きなさいよ! 私をめちゃくちゃにして!
そして私もしてあげる、二度と奥さんを思い出せないようにしてあげるから!」
リサはテキーラを口に含むと、それをキスで私の口へと流し込んだ。
私は彼女の舌を強く吸い、やや乱暴に服を脱がせた。
潤んだ蜜口からあふれる愛液を、私は夢中で吸った。
「もっとよ、もっと強く! もっと激しく! うっ、あふっつ・・・」
私とリサはボレロのリズムに合わせ、限りなくお互いを貪り合った。
それは愛と哀しみに満ちた「ボレロ」だった。
第4話
目が覚めると、すでに朝の9時を過ぎていた。
私は熱いシャワーを浴び終えると、バスローブのまま珈琲豆をミルで挽き、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
寝室からリサが起きて来た。
「おはようー、シャワー借りるわね?」
「ここはもう君の家なんだから、堂々と使えばいい」
「そうね? 忘れてた。
じゃあシャワー浴びて来る」
「ごゆっくりどうぞ、女王様」
リサは私の頬に軽くキスをして、脱衣場へと消えた。
私は朝食の準備に取り掛かった。
サウザンサラダにカリカリに焼いたベーコンエッグ。リサも私もサニーサイドアップが好きだった。
スープは具だくさんのミネストローネを作ることにした。
今日は土曜日ということもあり、テレビを点けると旅番組やグルメ関連ばかりをやっていた。
私はテレビを消し、久しぶりにエア・サプライのCDを掛けた。
「あー、さっぱりしたー。
ごめんなさいね? 朝食の支度までさせちゃって」
リサは化粧をしてエプロンをつけていた。
歯を磨いて来た彼女は、遠慮なく私にフレンチ・キスをした。
彼女の髪からコンディショナーのいい香りがした。
「いいね? リサのエプロン姿。惚れ直したよ」
「あらそう? それなら「裸にエプロン」の方が良かったかしら? うふふっ」
リサは理想の女だった。
インテリで聡明、スタイルも良くて美人。
そして何よりも「恥じらいと色気」を堅持している女だった。
食事や映画、音楽も同じ趣味嗜好だった。
私たちはまるで双子のようだった。
夫婦や恋人として付き合いが長くなると、お互いに気を遣わなくなってくる。
私は女性のジーンズ姿が嫌いだった。
「だってジーンズはラクだもん」
その時点で緊張感が消えているのだ。
よく「ウチはお互いに空気みたいな存在なの、ないと困るけど意識はしない。子育ても忙しいし」という話を耳にすることがある。
だが男はそれを口にこそ出さないが、「手抜き」だと感じている。
私はジーパン姿の女に女を感じない。
もちろんそれは男にも言えることだ。ファッションに手を抜いてはいけないのだ。
子供が生まれると、お互いをパパとママと呼び合うようになる。
女は現実的だが男はいくつになっても理想主義者の子供なのだ。
夫婦の危機は服装から始まる。
釣った魚に餌をやらない
すると魚は餌を求め、金魚鉢から出ようと考え始める。
男女に恥じらいがなくなれば、そこに恋愛感情は存在しない。
それはただのパートナーだ。
「冷蔵庫からヨーグルトを出してくれ、それと巨峰があるだろう? それも頼む」
「わかった、これね?」
リサはヨーグルトをガラスの器に移し、巨峰をそこへ添えた。
トースターからトーストが跳ね上がり、私はそれにバターを塗った。
朝食の準備が整った。
「では食べよう」
「凄く美味しそう! いただきまーす!」
「有り合わせの物だけど、コーヒーは旨いと思うよ」
リサがコーヒーカップに口を付けた。
「うん、美味しい! コクがあるのに切れがある!」
「ビールじゃないんだから。あはははは」
リサと私は笑った。
「ねえ、あなたのこと、これからなんて呼べばいい?」
「そうだなあ? 「あなた」がいいかなあ? エッチな人妻っぽくて」
「その方が人妻ってカンジでいいかもね?」
「リサのようないい女に言われたら、最高にしあわせだよ」
私はその時、また冴子のことを思い出していた。
冴子は私のことを固有名詞で呼んだことがなかった。
子供がいればパパとかお父さんになっていたのかもしれないが、私たち夫婦に子供はなく、「あなた」と呼ばれることも、ましてや私を名前で呼ぶこともなかった。
いつも冴子は私に対する主語が欠落していた。
私はそれが寂しかった。
「お買い物に付き合ってよ、お醤油と油を買いたいの」とか、「今度の日曜日、町内会で草むしりだって」
確かに主語が無くても大体の話は通じる。
そして冴子はいつも俺の嫌いなジーンズを履いていた。
ローライズでショーツが少し見えたとしても、私はそれに欲情することはなかった。
リサがトーストにオレンジマーマレードをたっぷりと塗って私に渡してくれた。
「はい、あ・な・た。こんなカンジでどうかしら? なんだか照れちゃうなあ」
「いいねその響き。ゾクゾクするよ」
「ご飯食べたらお買い物に行こうよ、夫婦茶碗とか買いたいから」
これが普通のしあわせなのだろう。
私は甘いオレンジ・マーマレードを口に入れ、少し酸味のある珈琲を啜った。
レースのカーテンが、朝のそよ風に揺れていた。
第5話
「私ね?
真剣な眼差しで夫婦茶碗を選ぶリサ。
腰を屈め、ボブヘアを耳に掛けるその仕草に私は見惚れていた。
「これなんかどうかしら? 毎日のお食事も楽しくなりそうじゃない?」
茶碗を労わるように両手に
「いい色合いだね?」
「重さも丁度いいの。持ってみて」
私はリサから差し出された茶碗を受け取り、その感触を確かめた。
その茶碗はロイヤルブルーに白を溶かした水色に、白い桜模様が抜いてあり、リサの茶碗はインペリアルローズの淡いピンク色だった。
手に良く馴染む九谷焼。
「大きさも丁度いいな? リサのオッパイと同じくらいだ」
「失礼ねえ、そんなに小さくないわよ私のオッパイ。あはははは」
リサはうれしそうに笑った。
「じゃあこれに決まりね? 後はこれを主題にしたお箸と箸置き、それからお椀を選らばないと。
お椀は輪島塗でいいかしら?」
「リサの好きな物にすればいい。俺はセンスがないから」
「じゃあ決めちゃうわよ、私の好みで勝手に」
女は買物が好きだ。おそらくそれは所有欲なのかもしれない。
「自分の物」というそれだ。
女は所有に拘る。それが女の安心だからだ。
同級生の女子たちは、シャープペンシルや下敷き、色鉛筆の一本一本に至るまで自分の名前を書いていた。
「私の物よ」
それは男に対しても同じだ。
昔付き合った女もそうだった。
「あなたは私の物、私だけの物よ」
そう言って彼女は化粧台から口紅を取り出すと、私の裸の胸に自分の名前を書いた。
女とは本能的にそういう生き物なのだ。
子供を産み、育てるための確実性を求めるのだろう。
店内を品定めして歩くリサ。
(やはり君も女なんだね?)
私はそう思った。
買い求めた食器が店員によって丁寧に包装されているのを見ていると、私もこのようにリサを大切に包んでやりたいと、その動作を眺めていた。
「大変お待たせいたしました」
店員からその紙袋を渡された時、私はこの重さがリサの人生の重さだと思った。
それは少し、私には重く感じた。
リサは10年前に前夫と死別していた。
同じ大学の法学部の先輩で、ご主人はかなり有能な社会派弁護士だったようだ。
娘がひとりいるが、今はイギリスのケンブリッジに留学しており、日本にはいなかった。
「お昼過ぎちゃったね? 鰻が食べたいなあ」
「近くに旨い鰻屋があるからそこに行こうか?」
「他の女と来たんじゃないでしょうね? 奥さん以外の」
「仕事の接待だよ」
私は嘘を吐いた。
そこには高校の美術教師、晴花とよく来た店だった。
鰻を食べながら私は不謹慎にも晴花のことを思い出していた。
不倫だった。
結局旦那にバレてしまい、その恋は1年足らずであっけなく終わってしまった。
彼女の美へのこだわりはゆるぎないものだった。
もともと画家志望だった彼女は、高校の美術教師をしながら作品を描き続けていた。
幾度目かの逢瀬の時、彼女が言ったことがある。
「これで私を縛って欲しいの? 美しく、そして淫らに。
女はね、いつも色んなものに縛られて生きているの。
職場や家庭、親戚一族、そんな下らないしがらみの中でよ。
幼い時から「あれしちゃ駄目」「これしちゃ駄目」と言われて続けて大人になった。
そこから解放されたいのよ。
これはアートなの。だからお願い、私を縛って・・・」
晴花はエディターズ・バッグの中から赤い撚りのない柔らかいロープを私に差し出した。
私は以前見た、SM写真のように晴花を亀甲に縛ってやると、
「すごくいい、すごく綺麗。
ねえ、私の携帯で写メを撮ってちょうだい、お願い・・・」
それを密かに携帯の待ち受けにしていた晴花はそれを旦那に見つけられてしまい、私たちの恋は消えた。
だが不思議なことに夫は私に慰謝料も請求せず、二人は今も仲睦まじく夫婦生活を続けているらしい。
寛大な夫なのか? それとも夫に寝取られ願望があったのか? 今では知る由もない。
うな重を食べながらリサが言った。
「明日の日曜日、夫のお墓参りに一緒について来てくれない?」
「実は僕も考えていたんだ。リサの亡くなったご主人にご挨拶に行かなきゃいけないと」
「やっぱり主人に許してもらいたいの、あなたとの結婚」
「もし「ダメだ」って言われたらどうする?」
「ダメって言うわよ、たぶん。私、愛されていたから。
あはは、嘘よ、あなたならきっと許してくれる筈」
「どうして?」
「だって私が惚れた男だから。タイプは夫とは全然違うけどね」
柚子と三つ葉の香りがする肝吸を啜りながら、私はリサと私の未来への決意を感じていた。
穏やかな土曜の昼下がりだった。
第6話
ラムネ色の秋晴れの日曜日、私はリサと墓地へやって来た。
水桶と花、線香と亡夫が好きだったというショートホープとジョニ黒を持って。
私とリサは無言のまま草を毟り、タワシで墓石を磨いた。
花を供え、墓石に水をかけ、線香の束とタバコに火を点けた。
ジョニ黒を紙コップに注ぎ、私はクルマだったのでお神酒程度に献杯をした。
「貞之さん、私、この人と再婚することにしたの。いいわよね?」
リサは目を閉じ、墓前に手を合わせた。
私も無言でリサと一緒に手を合わせた。
(あなたの愛したこの人を、今度は私が守っていきます)
と、祈りを捧げた。
「彼、何て言ってた?」
「女房を不幸にしたらただじゃすまないからな? 訴訟するってさ」
「それであなたはなんて言ったの?」
「内緒」
静かな晩秋だった。ススキの穂が秋風に揺れていた。
墓参を終え、私たちはクルマに戻った。
「だんだん寒くなって来たな?」
私はエンジンをかけ、暖房とCDのスイッチを入れた。
選曲はゴンチチにした。気持ちが安らぐ。
「今日はありがとう。これであの人も安心したはずよ」
「許してくれたかな? 俺たちの結婚」
「しあわせにしてもらいなさいって言ってたわ。ふふっ」
私はハンドルを握りながら横顔で笑った。
マンションに帰り、私は花を飾った。
墓参用に花を買った時、ついでに家に飾る花も買っていた。
私にはある習慣があった。
それは部屋に生花と酒を絶やさぬことだった。
人生には花と酒、本と音楽、そして恋が必要だからだ。
「いい香り、素敵なお花ね?」
「いいよな? 花は。
綺麗に咲いて何も言わない」
「あら、私は綺麗だけど何でも言うわよ、ずけずけと」
リサは笑って私の背中に抱き付き、甘えた。
「花を見ながら飲むか?」
「どっちのお花? これ? それとも私?
おつまみは何がいい?」
「マルコリーニとピスタチオでいいよ、墓に供えたジョニ黒に合うだろうから」
「ありがとう、あなた。
お墓参りが済んで、私もホッとしたわ。
多分、夫もそうだと思う。私が寂しがり屋なのを知っているから・・・」
リサは私に長い口づけをした。
ほんのりとシャネルの17番の香りが揺れた。
おそらくそれは、亡き夫の好みの香りだったはずだ。
ダイニングに飾った花は、ガーベラを中心にしたカスミソウとフリージアだった。
私はフリージアの香りから、冴子のことをまた思い出していた。
フリージアは冴子が好きな花だった。
「私、このフリージアの香りが大好き。いい香りでしょ?」
冴子はフリージアを部屋によく飾っていた。
「抱いて」
リサと私は寝室へと移動した。
フレデリック・ショパンのノクターンに合わせ、私たちの熱い行為が始まった。
薄紫のシーツにリサの博多人形のような白い肌が栄える。
「早く、来て・・・」
リサの左の乳房を優しく揉みながら、右の乳首を強く吸った。
「はっう、んっんっつ・・・あっ」
前夫に見られているような気がしたが、私はそれに構わずリサのカラダを攻め続けた。
リサは何度も激しく絶頂を迎え、私も想いを遂げた。
「愛してるわ」
「愛してるよ、リサ」
そして私たちは深い眠りへと落ちて行った。
第7話
リサと同棲生活を始めて1カ月が過ぎた。
それはとても満ち足りたものだった。
食事も酒も、音楽も。好きな映画も文学も、そしてセックスまでもがリサと私は同じ趣味嗜好だった。
すべてに於いて、リサといると私は癒された。
女房だった冴子と私は真逆の性格だった。
彼女はJ-POP、私はクラッシック。
私は酒好きだが、彼女は酒を飲まない。
私は映画を観るのが好きだが、冴子はテレビドラマが好きだった。
私は犬好きだが、彼女は猫好きだった。
私は部屋に物を置かず、シンプルに暮らしたかったが冴子は物を捨てられない女だった。
掃除や整理整頓は出来ていたが、いつも部屋には物が溢れていた。
冷蔵庫には様々なメモやマグネットが貼られ、買物袋や包装紙もキレイに畳んで保管されていた。
カレーを食べている時、
「おい、アレあるか?」
「ガラムマサラ?」
「それから」
「ラッキョウよね? 御免なさい、忘れたから今日は我慢して」
私たちの会話は次第に少なくなって行った。
冴子はいつもMUSTな女だったが、私はMAYで生きていた。
つまり冴子は「ねばならない女」で、私は「した方がいい男」だったのだ。
やがて私たちには深い溝が出来てしまった。
人生は天気のようなものだ。
晴れの日や曇りの日が七割で、快晴と雨が二割、そして一割が嵐だ。
それが人生であり、晴れの日ばかりでもなく、雨や嵐の日ばかりでもない。
太陽の陽射しも雨も、そして嵐も人生には必要なものなのだ。
そして厚い雲の彼方には、いつも太陽が輝いている。
そもそも結婚とは「しあわせになるためだけ」にするものではない。
結婚とは「生きる希望、生き甲斐」なのだ。
それは土砂降りの雨に差す傘であり、お互いに身を寄せ合い嵐が過ぎ去るのを待つ友なのだ
それが私の結婚観だった。
私は子供を持つことが怖かった。
子供が嫌いだったわけではない。子供に執着しそうな自分が怖かったのだ。
私は冴子がいればそれでいいと思っていた。
結婚する時、私たちは子供は作らないと決めたはずだったが冴子は違っていた。
いつか自分も母親になって、両親に孫を抱かせてやりたいと思っていたようだ。
正月に届く年賀状に、子供と写っている物があると、寂しそうにそれを眺めていた。
初めの内は性生活も普通に過ごしていたが、気が付けばいつの間にかセックスレスになり、お互いの気持ちはどんどん離れて行った。
だがどうしてだろう? こんなに満たされているリサとの暮らしに寂しさを感じているのは?
思い出すのは冴子のことばかりだった。
私はまだ冴子に未練があるのだろうか? 抱かせてもくれない女、冴子に。
「ねえあなた。今日のお酒はワインにしない? ビーフシチューにピッタリだと思うの。お昼から半日も煮込んだのよ。ちょっと味見してみる?」
リサは小皿に少しビーフシチューを取ると、私にそれを渡してくれた。
それを味見する私を、期待を込めて見詰めるリサ。
「うん、一流レストランの味だね?」
「でしょう?」
うれしそうに微笑むリサ。
私たちはまだ、婚姻届を提出してはいなかった。
そしていつの間にかお互いに、その話題に触れないようになってしまっていた。
食事をしながら私はリサに言った。
「新婚旅行にロンドンに行かないか? 娘さんにも会いたいから」
「それ、私も考えていたの。ねえ、そこでウエディングドレスを着て写真を撮りたい! いいでしょう?」
「もちろんだよ。じゃあ早速ウエディングドレスを買いに行かないとね?」
「いいわよ、どうせ一度しか着ないんだからレンタルで」
「一度しか着ないからこそ、他の女が来たドレスをリサに着させるわけにはいかないよ」
「うれしいけど、いいの?」
「それは予算に入れておいたから大丈夫だ」
「ありがとう、あなた」
リサはワイングラスを置いて、私に抱きつきキスをした。
私はリサを強く抱き締めた。
「しあわせになろうな?」
リサは黙って頷いた。
第8話
ウエディングドレスは渋谷の『dress black』で買うことにした。
若いカップルが、大きな姿見の前に立ってウエディングドレスを試着しているリサを見て声をあげた。
「うわー、素敵なドレス! 私もあんなウエディングドレスが着たーい!」
「ホントだ! すげえキレイじゃん!」
「ちょっとナオト、ドレスじゃなくてあのキレイな女の人を見て言ってるでしょー?」
「どっちもだよ」
「こらーっつ!」
「ごめんごめん、俺にはサッチンだけだよ」
「ナオト、愛してる?」
「もちろん! 俺も頑張ってお前にあんなウエディングドレスを買ってやっからな?」
「一緒にがんばろうね? ナオト」
手を取り合い、見つめ合う若いふたり。
若さは強く、怖れを知らない。今の彼らは無敵だ。
私は希望に満ちたそんな彼らが羨ましくもあった。
女は自分を飾ることで、こんなにもしあわせに満ちた表情になるのかと、いつもにも増して美しく気品を湛え、輝く王妃のようなリサに私はしばし見惚れた。
ウエディングドレスは女にとって特別な、一生に一度の晴れ着なのだ。
「どうかしら?」
少し照れながら私にふり返るリサ。
「モデルがいいから何を着ても似合うな?」
「答えになってないけど?」
「どうせ俺の意見に関わらず、リサはそのドレスがお気に入りなんだろう? 今まで着たドレスの中で一番君によく似合っている」
「ありがとう、あなた」
裾を整えながらスタッフの女性が言った。
「長身でスリムでいらっしゃいますから、とてもよくお似合いです。ではこのドレスに合うペチコートをお持ちしますので少しお待ち下さい」
ウエディングドレスの入った大きな箱を携え、私は年甲斐もなくリサと手を繋いで歩いた。
そして私はこのリサの笑顔を更に輝かせることを企んでいた。
「ドレスも買ったし、後は結婚指輪だね?」
リサは急に立ち止まり、驚いて私を見た。
「今日、指輪も買ってくれるの?」
「当たり前じゃないか? 結婚指輪がないと、ロンドンで指輪の交換が出来ないだろう?」
「うれしい!」
人目も憚らず、リサは私に抱き付きキスをした。
リサはそんなかわいい女だった。
私たちは銀座の宝石店に向かうため、タクシーを拾った。
流石に銀座の高級店だけはある。老舗の風格と威厳があった。
「いらっしゃいませ」
髪を後ろにまとめた知的な女性店員が応対に出て来た。
「結婚指輪を見せて下さい」
「かしこまりました。ではこちらへどうぞ」
案内されたショーケースには、煌びやかなペアリングが並んでいた。
目を皿のようにして指輪を品定めするリサ。
私は指輪を見ずに、そんなリサを見詰めていた。
「これがいい! ねえねえ、これなんかどうかしら?」
「じゃあこれでお願いします」
「かしこまりました。
ではサイズを御直しいたしますので、こちらへどうぞ。
お渡しには1週間ほどかかります」
「わかりました」
少女のようにはしゃぐリサ。
そんなリサを見て、私はうれしかった。
成田の北ウイングを定刻に離陸したブリティッシュ・エアウェイズの機体は大きくバンクし、ロンドンに向けて飛び立った。
「ビジネスクラスにしてくれて良かったわ」
「ヒースローまで窮屈なエコノミーでは、俺みたいな老体にはキツイからな? それにハネムーンだから少し贅沢をしたんだ。 手も繋げるしね?」
「愛してるわ、あなた」
リサは自分の手をまるでピアノを弾くように私の手の甲に触れた。
「ロンドンは30年ぶりだ。
君は華ちゃんのケンブリッジの入学手続きや入学式などで何度か訪れているんだよね?」
「お食事はあまり美味しくはないけどね? お酒だけは美味しいわよ、イギリスは。
でもあのカビ臭い街並みは好き」
「美味い食事はパリですればいい」
「えっ? パリにも連れて行ってくれるの?」
「パリは近いからね? 折角のハネムーンだし」
「ありがとうあなた。凄くうれしい!」
リサは私の手を強く握った。
ヒースロー空港に着いた。
日が落ちてすっかり暗くなったロンドンの街を、私とリサはオースチンのタクシーに乗って予約しておいたホテルへと向かった。
「どう? 30年後のロンドンは?」
「あまり変わっていない気がするな。 もちろん夜だから明日にならないとよくは分からないがね?」
私たちはチェックインを済ませ、取り敢えずホテルのレストランに入ったが味は予想した通りだった。
「やはり食事は旨くはないな?
中国人は「食べるために生きる」というが、イギリス人は「生きるために食べる」というのも頷ける」
「パブでフィッシュアンドチップスでも良かったね?」
リサが笑った。
食事はあまり美味しくはなかったが、それでも新婚の私たちには最高の食事だった。
食事は何を食べるかではない、「誰と食べるか」が大切なのだ。
ホテルの部屋に戻り、私たちは時差ボケもあり、多少興奮気味だった。
「新婚初夜。よろしくお願いします」
リサはそうお茶目に微笑み、甘美なキスを私にした。
私たちはその夜、初夜を迎えた。
第9話
リサの娘の華と、ウエストミンスターのフェリー桟橋で待ち合わせることになっていた。
「やっぱりBIG BENはロンドンのシンボルね?」
ビッグベンを見上げてリサが言った。
「この巨大な機械仕掛けの時計台は、1年で5秒しか狂わないそうだ。
俺も学生の時に自動制御工学を少し齧ったが、歯車にはバックラッシュという誤差が個々に生じる。
あのドイツ軍が開発したV2ロケットというミサイルの原型も、その発射角度を制御するための歯車のバックラッシュの解析が厄介だったらしい。
Greenwichの子午線0度がかつての大英帝国の繁栄を物語っている。
GMT(グリニッチ標準時)もGAT(グリニッチ視時)も世界時間の始まりはロンドンのグリニッジが基準になっている。
正確な時間を知ることは権力者たる威厳だった
ちなみにあの日本の学校の始業や終業時のチャイムの「キン・コーン・カーン・コーン」の音は、このビッグベンの鐘の音を真似ているそうだ」
「へえー、そうなんだあ。もうすぐ10時の鐘が鳴るわね? 楽しみ」
ビッグベンの鐘がテムズ川に響き渡った頃、ウエストミンスター桟橋に華を乗せたフェリーがやって来た。
「ママー! オジサマー!」
抱き合う華とリサ。
華はまるでパリコレのモデルのように美しく聡明で、華やかな娘だった。
ロングヘアーの黒髪に黒のカシミアのコート、首にはクリーム色のマフラーを巻いていた。
ヒールの高いブーツが、華の八頭身美人をより際立たせていた。
目元がリサにそっくりだった。
「はじめまして、華です。
お話はママから伺っています、素敵なオジサマだって。
ホントでした、実物の方がずっとダンディですね?
これから母共々、よろしくお願いします」
華は私に手を差し出し、私は華と握手をした。
手袋を外したその手はとても温かく、しなやかだった。
「よろしくね? 華ちゃん」
「こちらこそです!
ねえママ、折角だからウエストミンスターを見学しない?」
「ガイドはお願いね?」
「まかせて頂戴!」
華を真ん中にして私たちは手を繋ぎ、ウエストミンスターへと歩き始めた。
ウエストミンスター寺院の中に入ると、その荘厳な雰囲気にすっかり圧倒されてしまった。
床のタイルにはサー・アイザック・ニュートンの墓碑名が刻まれていた。
かなりの人数の偉人たちの亡骸がここに縦に埋葬されているそうだ。
ウエストミンスターにはもう収容するスペースがないと言われている。
実際にはニュートンやシェークスピアクラスの偉人になると、別な墓地に埋葬されていると聞いた。
「ここがニュートンのお墓よ。ほら、ママの足元。
リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見した彼はウチの大学の大先輩。
微積分、光のスペクトル、二項定理など様々な発見をした大天才。
F=ma
エネルギーは質量と加速度に比例するという、このシンプルで美しい数式を発明したのもニュートン。
その後、アインシュタインが
F=mc²
を発見したけどね?
エネルギーは質量と光速の二乗に比例するというあの絶対法則。
『ヨハネの黙示録』の研究でも有名で、フリーメーソンのメンバーでもあったそうよ。
猫好きの偏屈物で、めったに笑わない人だったんですって。
造幣局長官時代には、「錬金術」の研究に没頭していたそうよ」
「アップル社のマークがリンゴなのもそれに由来するのかい? リンゴは神秘性のある果物だよね?
スティーブ・ジョブズは成功を金に換えた。ある意味「錬金術師」だな?」
「私もリンゴが大好きなんです。まだ成功者じゃないけど。うふっ
そうだ、今度私のアップルパイをご馳走しますね? ママも褒めてくれるんですよ、ね? ママ?」
「華の作るアップルパイは世界一、ママ大好き!」
華を見ていると、如何に両親の素晴らしいDNAを受け継ぎ、大切に育てられたかが窺えた。
「それは楽しみだなあ」
私たちは寺院の内部を更に見て回った。
「戴冠式に使う椅子があってね、その下に『スクーン』と呼ばれる石が付いていたんだけど、今はスコットランドに返還されて『運命の石』とも呼ばれているそうよ。
聖地パレスチナからアイルランド人が持ち帰ったといわれ、聖ヤコブが頭上に乗せていた石なんですって。
あんなに大きな石、持ち上げるのも大変なのに頭の上に乗せて歩くなんて信じられない。
やっぱり聖人は凄いなあ。
イギリスの戴冠式の時にだけ、スコットランドから貸してもらう約束なんだって」
「ハリーポッターの『賢者の石』ってこれのことなの?」
「知らないわ、私、ハリーポッターを読んだことがないから」
「あなたは知ってる?」
「俺も知らないなあ。
でも、それが『賢者の石』なら夢があるけどね?」
「そうですよね? 人生には夢と希望と謎がないとつまんないですから」
華は私を見て悪戯っぽく微笑んだ。
「そうだね? 華ちゃんの夢は何?」
「お嫁さんになることです!」
「ウソばっかり」
リサが笑った。
「世界一の為替ディーラーになるんですって。
この子、シンガポールの銀行に就職が内定しているのよ」
「凄いね?」
「でもAIに負けそうです、AIの先を行かないと」
「大丈夫だよ、華ちゃんならAIにも勝てそうな気がする」
「うふふっ。ありがとうございます」
「じゃあ、そろそろ飯にしようか?
ここは確実なところでインド料理か中華にしよう」
「賛成! 私、中華が食べたいです!」
ウエストミンスターの木立の葉は落ち、昼だというのに傾き始めた太陽が、昨夜降った雨に濡れた風景を、美しく輝かせていた。
第10話
食文化の貧しいイギリスでも、中華はそれなりに評価されている。
世界中に中国人が進出しているお陰で、中華はどこでも食べることが出来る。中国人は商魂逞しい人種だ。
インド人もそうだ。自国に失望した民が、自国を侵略したイギリスで自国の料理振る舞い商売をする。
そして自分たちも英国人だと白人の真似をしている。
まるでチャップリンの風刺映画を見ているようで滑稽だ。
「あー、食べた食べた。中華料理は何処でも美味しいね?」
「基本的に油と
「中国人の食に対する執念は凄いわよね?
フカヒレに燕の巣、冬虫夏草にゾウの鼻。最初にそれらを食べた中国人は相当な勇気があるわ」
「四川料理などは四つ足ならテーブル以外、何でも食べるというからな?
まさに「食べるために生きる民族」だよ、中国人は」
私たちは氷砂糖の入った温かい紹興酒と、熱々の中華料理で身体を温めた。
「明日、教会で結婚式を挙げることにしたの。華も参列して頂戴ね?」
「えっ、ロンドンでお式を挙げるの? ステキ!」
「ママはクリスチャンで洗礼を受けているでしょう? だから比較的簡単に許可してもらえたのよ。
小さな教会だけど、とてもお洒落な教会なの。
それからね、彼にウエディングドレスも買ってもらっちゃた。
ママはレンタルでいいって言ったんだけど、「他の人が着たウエディングドレスなんて着せたくはない」って言ってくれて。
ホテルに帰ったら着て見せてあげる」
「よかったね? ママ。そんな嬉しそうなママ、久しぶりに見たよ」
華は少し涙ぐんだ。
私はそんな母娘を慈しむように見ていた。
冴子が望んでいたのはこれだったのかと思うと、胸が痛んだ。
私にはその配慮が欠けていたのかもしれない。
順当に行けば私の方が先に死を迎えることになるが、その後、冴子は独りぼっちになってしまう。
子供を産み育て、子供は成人して結婚。孫が生まれる。
孫の小さな手を握りながら微笑む冴子・・・。
私はそんな冴子のささやかな夢を潰してしまったのだ。
ホテルには華の部屋も取っておいた。華とリサが久しぶりの親子の会話が楽しめるようにと、私は華の部屋で眠ることにした。
「どう? ステキでしょう、このドレス?」
「うん、すごく綺麗。
このデコルテが見えているのがカワイイね?
ねえ、私の結婚式の時にこのママのドレスを貸してね?」
「いいわよ、じゃあその時まで大切に仕舞っておいてあげる」
「ありがとうママ!
華は高校生のようにはしゃいでいた。
そんな娘に目を細めるリサ。
「じゃあ俺は先に寝かせてもらうよ。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます。それからお願いがあるんですけど」
「何だい?」
「これからはオジサマを「パパ」って呼んでもいいですか?」
私は危うく涙が零れそうになった。
歳を取ると涙腺が脆くなって困る。
「もちろんだよ、華」
華のその申し出を聞いてリサが泣いた。
「華・・・」
私は笑って静かに部屋を出た。
その教会はゴシック建築の古い教会だった。
司祭たちは私たちを温かく出迎えてくれた。
「この良き日に、主のお導きに感謝いたしましょう」
ウエディングドレスに着替えたリサは、ブーケを持って立っていた。
その姿はまるでギリシャ神話の女神のようだった。
私と華はしばし言葉を失った。
「ママ、凄くキレイ・・・」
「なんだか照れちゃうわね? こんなオバサンがウエディングドレスだなんて」
オルガンの演奏が始まった。
華にエスコートされ、祭壇へ向かってバージンロードを歩いて来るリサ。
天窓から射し込む太陽の光。
司祭が語り掛ける。
「汝はこの女性を妻とし、病める時も富める時も愛を誓うや?」
「Yes」
「汝はこの男性を夫とし、病める時も富める時も愛を誓うや?」
「Yes,I do」
「それでは指輪の交換と、誓いの口づけを」
私たちはお互いに指輪を交換し、誓いのキスをした。
リサの頬に一筋の涙が流れた。
「パパ、これからもずっとママをよろしくお願いしますね?」
「わかりました。そして君も今日から私の娘です」
「ありがとう、パパ」
讃美歌が教会を清め、私たち家族を祝福してくれた。
教会の鐘が鳴っている。
華に背を向けブーケを構えるリサ。
「いくわよ、華」
リサが華にブーケトスをした。
それを正確にキャッチする華。
クリスマス前の穏やかなロンドンの冬だった。
第11話
挙式を終え、私たちはラッセルスクエアを散策していた。
ロンドンは北海道よりも緯度が高く、冬場は昼が短い。
夕暮れの街の灯りはノスタルジックだった。
クリスマスも近く、街にはイルミネーションが輝き、賑わっていた。
私の右手は娘の華に、そして左手はリサと繋がれていた。
リサの家族に受け入れられた喜びに、私は独り浸っていた。
「ふたりとも買物はいいのかい?」
「特に欲しい物はないなあ。新しいパパも出来たし」
私は胸が熱くなった。
「お買物はパリでするからロンドンは見るだけでいいわ。
だってパリの方がお洒落でいい物がありそうだから」
「えっ、パパとママ、パリにも行くの? いいなあ」
「華も一緒においでよ」
私はこの時、「華ちゃん」とは言わずに、敢えて「華」と呼び捨てにした。
それは華の父親になることを密かに宣言するためだった。
それについて華もリサも何も言わなかったが、無言の喜びが彼女たちからも窺えた。
私たちは本当の家族になった。
「いいの? 私までママたちのハネムーンに一緒について行っちゃっても?」
「当たり前じゃないの、家族なんだから」
「ヤッター! 今、パリは「ソルド」でしょう? ママ、お洋服買って!」
「それはパパにおねだりしなさい。ねえ、パパ?」
「ああ、デパートごと買ってあげるよ」
私は思った。
子供がいるということは、こういうことなのかと。
私は冴子さえいればそれでいいと思っていたが、家族とは2人より3人、3人より4人と、幸せが何倍にもなることを今さらながら知った。
冴子にはこの光景が憧れだったのだ。
食事を終え、私たちはホテルに戻った。
「ママ。今夜は大学のレポートを書くから一人で寝るね?
明日は何時に出掛けるの?」
華は私たちに気を利かせたようだった。
「ヒースローまではここから20分だから、10時に出れば午後のフライトには十分間に合うはずだ。
9時にホテルのレストランで朝食にするとしよう」
「わかった。それじゃおやすみなさい、パパ、ママ」
華は両手を出し、私たちはそれぞれにその手を握った。
「おやすみ、華」
「華、あんまり遅くまでがんばらないでね? 明日は飛行機だから」
「うん、わかった」
華は自分の部屋に消え、私たちも部屋に戻った。
部屋に入るなり、リサがいきなりキスをして来た。
「あなたと出会えて本当に良かった。
すごく素敵な結婚式だったわ。あのドレスを着てもう一度、挙式したいくらい」
「何度でもするといい。でも、相手は俺だけにして欲しいな?」
「もちろんよ。それに娘の華のことも、本当にありがとう。
華のあんなにうれしそうな顔、随分忘れていたわ。
あなたのことが本当に大好きで良かった。
褒めていたわよ、あなたのこと。
「やさしそうなひとで良かったね? ママ」だって。
ふつつかな嫁ですが、これからもよろしくお願いします」
「俺もこんな爺さんだけど、よろしく。
リサ、愛しているよ」
私はリサを強く抱き締めた。
「さあ、シャワーを浴びて、二度目の新婚初夜をしましょうよ」
「それじゃあ一緒ににシャワーを浴びようか?」
私たちは服を脱ぎ捨て、シャワールームに歩き出そうとすると、リサが急に立ち止まった。
「シャワーの前に一度ベッドでしてからにしましょうよ」
「いいけどあまり声は出さないでくれよ、隣で華が勉強しているんだから」
「なんだかそれも燃えるわね? 無言のセックス。あはっ」
私とリサはそのままベッドで行為を始めた。
自分の手で口を押え、声を押し殺そうとするリサ。
私もなるべくベッドが軋まないように律動を繰り返した。
「んっ、んっつ、はぁはぁ・・・」
私はリサが眉を顰め、快感に耐えるその表情に欲情した。
結局、シャワーを浴びたのは2回戦が終わってからだった。
「2回も出しちゃったね? うふっ」
「何だか燃えたよ、リサ。あはははは」
私たちは抱き合い、笑った。
翌朝、私たちは朝食を食べ終え、ヒースローからパリのド・ゴールへと飛んだ。
機内では窓際には華が座り、通路側にはリサ、そして真ん中に私が座った。
パリへのフライトの間、私はふたりの女神にずっと手を握られていた。
ロンドンとパリのフライトはあまりにも短かすぎた。
ユーロスターにすれば良かったと、私は少し後悔した。
第12話
空港は各々に独特の香りを持っている。
シャルル・ド・ゴール空港にはすでにパリの甘い香りが漂っていた。
私はこの空港の香りが好きだった。
「わあ、パリだあー! パパ、お腹空いたー!」
華はわざと私に甘えて見せた。
何かにつけて華は「パパ」を連呼してくれているようで、私は頬が緩んだ。
「まずはサンジェルマンのホテルに荷物を置いてから食事にしよう。
それからルーブルやオルセー、シテ島のノートルダムというコースでどうだろう?」
「賛成! パパ、私、牡蠣が食べたい!」
「牡蠣は夜、ホテルの近くのレストランで食べよう」
「どうして?」
「生牡蠣にあたると、トイレに籠ることになるからだよ」
「私と華は大丈夫だけど、あなたはダメかもしれないわね?」
「でも好きだよ、パリの牡蠣は臭みもなくて」
華とリサは笑った。
「じゃあ、なんでもいい。パパに任せる!」
「いいカフェがあるんだ。『レ・デュ・マゴ』で軽く食事をしよう」
タクシーに乗り、ホテルにチェックインを済ませた私たちはサンジェルマン・デュ・プレの街を歩いていた。
「ロンドンよりも温かみのある街よね? 華やかさがあるわ」
リサが嬉しそうに言った。
「芸術の都「パリ」だからな? あそこだよ、『マゴ』は」
「凄くお洒落なカフェね? 歴史を感じるわ。
こんなお店、ロンドンにはないから」
「文豪や画家、思想家や哲学者などの文化人がこの店に集まったそうだ。ヘミングウェイやピカソ、サルトルにボーヴォワールとか。
寒いからとにかく暖まろう。ここでは軽く済ませて夜はコースにしよう」
「流石はパパ、ツアコンの人みたい」
「パパは何でも出来る人なのよ。ねっ? あ・な・た」
リサが私と腕を組んだ。
「あっ、ママばっかりズルーい! 私も私も!」
私はこの時、いつ死んでもいいとさえ思った。
「教科書で見た偉人たちがここでお茶を飲んで激論を交わしていたなんて夢みたい」
「その時の光景が目に浮かぶようだわ」
「飲み物は何がいい?」
「やっぱりワインかしら? せっかくのお店だし」
「それじゃあスープとお肉料理のアラカルトがいいな」
私はギャルソンを呼び、オーダーを告げた。
日本にも分店があるそうだが、やはり本店には敵わないだろう。
彼らの息遣いや言葉、思想がこの店内に染み付いているようだった。
食事を終えてタクシーでルーブルへと向かった。
メトロでも良かったが、寒くて面倒なのでタクシーにした。
「ママ、ほらあそこにガラスのピラミッド!」
「よくテレビとかで見るやつね?」
「あそこが入口になっているんだよ」
私たちはエスカレーターで入場口へと降りて行った。
膨大な数の美術品、ミュージアムも兼ねている。
「これがあのタイタニックの舳先のシーンのモデルになった像ね? 素敵」
華は『サモトラケのニケ』を見て感激しているようだった。
「よく知っているね? これは『サモトラケのニケ』と言って、勝利の女神なんだ。
あのNIKEはこれから取った名前なんだよ」
「今にも羽ばたきそうな大きな翼ね? 腕の先も頭もないけど想像は出来るわ」
「俺はこれが一番好きなんだ。じゃあ次は「モナ・リザ」を見に行こうか?」
数々の絵画を鑑賞しながら、私たちはようやくモナ・リザに辿り着いた。
「美術の教科書で見たのと同じ。でも実物はかなり迫力があるわね?」
「ダ・ヴィンチは生涯に十数点の絵画しか残さなかったが、笑っているのかいないのか、俺たちと同じ人間が描いたとは思えないな?
こっちのリサはよく笑うけど」
「パパと出会ってからだよ、ママがよく笑うようになったのは」
「だと嬉しいけどね? ありがとう、華。
じゃあこれからオルセーに行ってゴーガンとブラマンクを見て、それからノートルダムへ行こう」
「私、パリには卒業旅行で来ようと思っていたから、本当に来れてよかった。
ありがとう、パパ、ママ。
ごめんね、折角のハネムーンなのに邪魔しちゃって」
「そんなことないわよ、華と一緒だからこそ、もっと楽しいハネムーンになったのよ。ねえ? あなた」
「もちろんだよ。華はこれからグローバルに活躍するんだから、今度はいつ会えるかもわからないしね? 今度、ママと一緒に華のいるシンガポールに遊びに行ってもいいかい?」
「もちろん! 私、パパとママの子供で本当に良かった!」
「それはママもパパも同じよ、あなたのママとパパで本当に良かったわ」
私は泣きそうになってしまい、話題を変えた。
「オルセーはセーヌ河を挟んで向こう岸にあるんだ。ルーブルから歩いてすぐだよ」
「うん!」
セーヌ河を渡ってオルセーに着いた。
オルセー美術館は駅舎を改装して作られた美術館で、大きな時計がシンボルになっており、とても趣のある建物だった。
「これがあの有名な『タヒチの女』ね? ゴーガンの静物画とか風景画とは全く作風が変わるのね?
お日様に照らされた、南国の凄まじい原色の世界」
「ゴーガンは初め、フランスで株の仲買人をして裕福な時もあったらしいが、株の暴落などで仕事を失い、絵を売って細々と生活をしていたらしい。
当時、フランス領だったタヒチに夢を求め、家族で一緒に移住しようとしたが女房から拒否され、ひとりでタヒチに渡ったんだ。
生きている間は殆ど絵は売れず、死んだ今となってから途方もない値打ちがあるんだから皮肉なものだ。
友人だったゴッホもそうだ。死んでから価値が出た。
俺はゴーガンが描いた、ふる里アルルの冬の絵が好きだ。寂しい冬の景色が彼の心の奥にあるノスタルジーのようで」
「灼熱の南国と冬のアルルかあ、ゴーガンはどっちが好きだったのかしら?」
「俺はアルルだと思うよ。酒も家族も仲間もいたアルルが一番好きだったんじゃないだろうか? 孤独は辛いからね?」
そして私は自分が口にした言葉に狼狽えた。
孤独が辛い
では今、冴子はどうなのだ? 孤独の中にいる冴子は?
「最後は梅毒で死んじゃったんでしょう?」
「孤独な画家だったんだよ、ゴーガンも」
私は迂闊にも「ゴーガンも」と言ってしまったことを後悔した。
リサは敢えて聞こえないフリをしてくれた。
やはりリサは賢い女だ。そしてそれが彼女のやさしさだった。
静かな美術館の中を散策していると、ようやくブラマンクの絵の前にやって来た。
「これがブラマンクだよ。この独特の筆遣い、温かみがあって、且つ、ダイナミック。
佐伯祐三は彼に師事したんだ。
俺は日本の画家の中では東山魁夷と佐伯祐三が好きなんだ」
「私は光の魔術師、レンブラントが好き。
光を描くってすごいわよね?」
「私はブラックとかルオーかなあ? 感覚的にだけど」
私たちの美術談義は続いた。
オルセーを出ると、まだ15時だというのにパリの街はすっかり暗くなっていた。
セーヌを行き交うグラスポートの灯りが川面に揺れている。
「後はノートルダムを見学してから夕食にしよう。
そして明日は君たちの楽しいショッピングに付き合うよ。もちろん「お財布係」として」
「パパ大好きー!」
華が私の腕に抱き付いた。
私たち親子は再び手を繋ぎ、ノートルダムへと歩いて行った。
第13話
ノートルダム寺院にやって来た。
まだ午後3時だというのに辺りはすっかり暗くなってしまい、入口のレリーフも薔薇のステンドグラスもよく見えなくなっていた。
大聖堂の中に入ると赤いロウソクがたくさん灯されていた。
それは信者や観光客が供えた物で、私たちもそれぞれにロウソクを灯した。
「キリスト教会は何処も同じように荘厳ね?」
「華も洗礼を?」
「そうよ、私たち親子はクリスチャンなの」
「俺には無理だな? 欲にまみれている人間だから」
「あら、そんなことはないわよ。あなたはクリスチャン向きだと思うけど」
「私もそう思う。パパは優しいもん。
隠したってダメよ、そうじゃなかったら「パパ」なんて呼ばないし、ママとの結婚にも反対しちゃったと思う」
華とリサはそう言って笑った。
「まあ、信仰は自由だけど芸術、文化、学問のすべてはキリスト教がその原点なのは確かよ。キリスト教に学ぶべき物はあると思う。
絵画も音楽も彫刻も建築も、天文学も物理、数学、医学、哲学でさえもキリスト教から派生しているわ。
だって芸術も学問も人間が自ら産み出す物ではなく、神様からの啓示でしょう?
つまり聖書を理解することが出来なければ、これらを本当に理解することは出来ないんじゃないかしら? 私はそう思うけど」
めすらしくリサは饒舌だった。
確かにそうだろう。いや、リサの言う通りだと思う。
だがその一方で、魔女狩りや悪魔祓いなど、様々な残酷な拷問を考案し、略奪と戦争を繰り返して来たのもキリスト教なのだ。
原爆を生み出したのも敬虔なクリスチャンたちだ。
そしてその実験とアメリカの威信のために広島と長崎に躊躇うことなく投下したのだ。
だが私はその話題に触れることはなかった。
それは不毛な議論であり、ここですべき話ではなかったからだ。
「ここが『懺悔室』なのね? ノートルダムでも意外と小さいのね?」
「それはそうだよママ、罪はこっそりと告白するものでしょう? みんなに聞かれないように、
だからこの狭さが丁度いいんじゃないの?」
「確かに華の言う通りね? 誰も自分の犯した罪を大声で言う人なんていないもんね?」
その時、リサの横顔が曇ったのを私は見逃さなかった。
そうだ、私たちは罪深き人間なのだ。
理由はどうあれ冴子を欺き、犠牲にした。
神は私たちを決してお許しにはならないだろう。
だがそれは仕方がない事なのだ。私たちは出会ってしまったのだから。
そして私たちは他人の不幸の上に、しあわせが築けないことも承知している。
「子供の頃、よくディズニーアニメで見た、『ノートルダムの鐘』の舞台がここなのね?
ちょっと怖いところもあったけど、私はあのイケメン将校フェビュスよりもカジモドの方が好きだったなあ」
「原作はビクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』だが、15世紀のパリが舞台になっていて、その頃は教会からの弾圧や排斥に人々が苦しめられていた時代だった。
フランス革命ではこのノートルダムも暴徒化したパリ市民に襲撃され、略奪にあって荒廃し、見るも無残な状態だったらしい。
それをユーゴの『パリのノートルダム』という小説が救った。
その物語のおかげでノートルダムは蘇った」
「へえー、こんな素敵な大聖堂なのにね?」
「原作は悲しい物語なんだよ。エスメラルダに魅了されたフロロは、聖職者でありながらエスメラルダをカジモドに誘拐させようとする。
だが、それもうまくはいかずに、今度はエスメラルダの恋人、衛兵のフェビュスを他の衛兵に殺害させようとして未遂に終わるんだが、その罪をエスメラルダに着せ、魔女裁判にかけて彼女を処刑しようとするんだ。
それをカジモドが助け出し、エスメラルダをかくまう。
だがエスメラルダはカジモドの醜い姿にカジモドを見ることが出来なかった。
エスメラルダは再びフロロに捕まり、遂に処刑されてしまう。
エスメラルダを殺したフロロをカジモドは憎み、鐘楼の塔から彼を突き落として復讐するんだ。
そして数年後、広場に埋められたエスメラルダを掘り返すと、寄り添うように異様な骨格をした骸骨が出てきた。カジモドだった。その亡骸を引き離そうとすると、そのカジモドの骨は崩れて粉々になったという悲しい物語だ」
「アニメと全然違うお話なのね?」
「これをそのままディズニーアニメには出来ないからね?」
「あなたはフェビュスね? イケメンの。
そして私はあなたを愛するエスメラルダ」
「俺はカジモドでありたいよ。やさしくて純粋で誠実なカジモドに」
「大丈夫、パパはカジモドよりもやさしくて、フェビュスよりもイケメンだから。エスメラルダのママとお似合いだよ」
「ありがとう華。カジモドって言葉はね、「できそこない」という意味があるんだよ」
「へえー、出来損ないかあ。なんだか可哀そう」
そうなのだ、私は出来損ないの「カジモド」なのだ。
大聖堂の中で、私たちは静かに笑った。
「レストランの予約の時間だから、そろそろ出ようか?」
「美味しい牡蠣が待っているのね!」
「お腹を壊さないように、たくさん食べなさい」
「ロンドンではあまり美味しいお食事に出会えなかったもんねー」
「今度のお店はマダム・リサにはご満足いただけると思うよ」
「そう? 今度はマドモアゼルじゃなくて、あなたの「マダム」だもんね?」
「そして私もパパの娘として、私はまだマドモアゼルだけど」
パリの街に粉雪が降っていた。
私たちはタクシーでレストランへと向かった。
第14話
私たちはシャンパングラスを軽く合わせ、乾杯をした。
「パパ、ママ、結婚おめでとう」
「ありがとう華」
「ありがとう」
その音は軽やかではあったが、私には重い響きでもあった。
ノートル・ダムでの想いが、まだ私の中に去来していたからだ。
(私だけが幸福でいいのだろうか?)
「ママ、この牡蠣とっても美味しいね? 何個でも食べられちゃう」
「お腹を壊さない程度にしておきなさいよ。まだオードブルなんだから」
「なるべくしっかりとレモンを絞って、シャンパンと合わせるといい。
メインの肉料理が入いらなくなるといけないからね?」
マナー違反ではあったが、私はこっそり華の皿に自分の牡蠣を載せた。
「ありがとうパパ」
「昔の正統派フレンチは色々と面倒な作法が多いが、今はかなり現代風に簡略化されている。
本来だとアペリティフとアミューズ・ブーシェに始まり、オードブル、ポタージュ、そしてポワソンからヴィアンド。
口直しにグラニテが入り、ロティ、サラド、フロマージュ、デセール、フリュイ、ミニャルディーズと続き、カフェ、そして最後にディジャスティフ、つまり食後酒で食の物語が完結するんだ。
もっとも、日本ではそんなフレンチはあまり見かけないけどね? せいぜいこの半分位だ」
「フレンチって奥が深いのね?」
「フランス人にとって、食事は芸術だからね? 俺もそんなにフレンチばかり食べているわけじゃないからあまり詳しくは知らないが、フランス料理がここまで進化したのはワインと料理がマリアージュしたことにより、フランス料理とワインが文化、芸術、そして神秘性にまで昇華したと言うことだろうな?
ワイン通ではないが、ワインだけを楽しむより、洗練された料理と合わせることで、ワインも料理もお互いに何倍にも豊な旋律を奏でるから不思議だ。
俺の知る限りではあるが、そんな食事は世界でも類を見ない」
「なんだかパパとママみたいね? ワインと華やかなお料理でお互いの魅力を引き立て合うなんて」
「どっちがワインなの?」
「もちろんパパよ。ママを酔わせてくれるから」
リサはうれしそうに微笑んた。
「フランス人って凄いわよね? お料理にも物語があるんですもの。ワイン専門のスペシャリスト、ソムリエなんて職業もあるくらいだし。
しかもどの順番でお料理をいただけばより美味しく、体に負担が少なく食べられるかまで考えられているなんて」
「フランス料理はソースが命だといわれるが、こんなにも砂糖やバターなどがたっぷり入っているのに、フランス人には意外にも糖尿病が少ないらしい。
聞いた話だと、玉ねぎをワインで煮出した物を飲んだりすることもあるそうだ。
俺は飲んだことはないがね?」
「なんだか不味そう。蜂蜜とレモンを入れて、それを炭酸水で割ってミントを入れないと私には無理かも」
「ママもダメ」
「俺もダメだな?」
家族3人の笑顔の花がテーブルに咲いた。
パリでの楽しい3日間はあっという間に終わってしまった。
たくさん買物を楽しんで、エッフェル塔、アンバリッド、リュクサンブール公園、カルチェラタン、モンパルナスやモンマルトルなどを見て歩いた。
ド・ゴール空港で先に華をロンドン行きの飛行機に乗せることにした。
「気を付けて帰るのよ、ケンブリッジに着いたら電話してね?」
「うん、わかった。じゃあパパ、ママ、行くね?」
「また会おうな、華」
「もちろん!」
華はそう言い、私の頬にキスをしてくれた。
「ママのこと、よろしくお願いします」
振り返り振り返り、華が出国ゲートへ入って行った。
私とリサは華にいつまでも手を振り見送った。
「行っちゃった」
リサが溜息を吐いた。それは娘を想う母親の顔だった
「本当の娘みたいだよ、華は」
「ありがとう、あなた。
あの子、とってもうれしそうだったわ」
「俺も同じだよ」
私たちは帰国の途に就いた。
ド・ゴール空港の空は抜けるような冬の青空が広がっていた。
第15話
あと1時間ほどで成田に着くはずだ。
CAの機内アナウンスが流れ始めた。
「皆様、本日は日本航空をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。
長旅、お疲れ様でございました。
当機はあと一時間ほどで成田国際空港に着陸する予定となっております。
現地からの報告によりますと、天候は晴れ、気温は・・・。
Ladies and gentlemen,now we are descending and will be landing shortly.
Please make sure your seat is in an upright position,・・・」
「ようやく日本なのね? 早くお寿司とかラーメンが食べたいわ。それからトンカツも」
「世界中のどんな美しい場所よりも、日本が一番だな?」
シートベルトの装着指示のサインが点灯した。
「明日、一緒に役所に行こう」
「えっ?」
「結婚式を挙げたんだから、婚姻届を提出しないとね?」
私はリサの手を握り、リサはその手を強く握り返し、私の肩にそっと頬を寄せた。
今日のリサの香りはいつもの彼女のお気に入り、CHANELの『アリュール』だった。
パリからの長旅で、その香りは「ラスト・ノート」に変わっていた。
リサの成熟した甘美な香りに私は酔いしれていた。
成田空港のロビーは年末ということもあり、かなり混雑していた。
入国審査を終え、私たちはバゲージカウンターから荷物を受け取り、ようやく屋外へ出た。
私とリサは大きく背伸びをし、久しぶりの日本の空気を大きく吸った。
「パリやロンドンよりは暖かいわね?」
「あっちは北海道よりも高緯度だからな?」
私たちはリムジンバスに乗り、東京駅へと向かった。
「ねえ、ラーメンが食べたい」
「餃子とビールもだろう?」
「あー、お箸が懐かしいわ。ずっとナイフとフォークだったから。
早く熱々のラーメンで温まりましょうよ」
私たちは東京駅の手荷物預かり所に荷物を預け、東京駅の地下にある『ラーメンストリート』にある人気のラーメン店で食券を買った。
「生ビールと餃子、それからラーメンだな?」
「私は塩ラーメンね」
「じゃあ俺はニンニク醤油ラーメンにするよ」
「じゃあ私もニンニクがいい。ニンニク塩ラーメンにして」
「了解。ニンニクたっぷりで夜がタイヘンだな?」
「今夜は寝かせないからね?」
「あはははは」
私とリサは生ビールで喉を潤し、ようやく落ち着いた。
「くーっ、やっぱりビールは日本のビールが最高だな?」
「私たちは絶対に海外では暮らせないわね?」
そう言ってリサは上品に餃子を口に運んだ。
「同感だよ。俺たち夫婦には日本が合っているよ。メシも酒も旨い日本が」
「やっぱり日本の食べ物が一番よね? それにお酒も」
私たちはお互いのラーメンを仲良く交換しながらそれを啜った。
「俺も塩にすれば良かったなあ」
「私も醤油ラーメンにすれば良かった。でもこれからは大丈夫よね? こうしてお互いが違う物を頼んで交換しながら食べればいいんだもん」
私はしあわせだった。こんな些細な夫婦の遣り取りに満足していた。
私はこんなことが冴子としたかったのかもしれない。
マンションに戻って来た。
「あー、楽しかったあー。また行きたいなあー、新婚旅行」
「今度は新婚旅行じゃないだろう?」
「あなたとの旅行はいつも「新婚旅行」なの!」
するとリサは床に両手をつき、真っすぐに私を見て言った。
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
私も同じように床に手をつき、
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
私たちはお互いを見詰め合い、笑い、そしてキスをした。
私たちはスーツケースも解かずに、そのままお互いの愛を確かめ合った。
これから私たちは毎日一緒に食事をし、好きな映画を観たり音楽を聴いて酒を飲み、語り合い、そしていつも抱き合って眠るのだ。
すべてがバラ色の生活になるのだ。
その時、キャビネットに置いてあった私のお気に入りのバカラ・グラスが音を立てて砕け散った。
「あらやだ、何もしていないのに気味が悪いわ」
リサが怯えて私のカラダにしがみついた。私は嫌な予感がした。
すると私の携帯電話が鳴った。それは予め登録されている電話番号からではなく、都内の固定電話からだった。
「もしもし・・・」
私は恐る恐る電話に出た。
「こちら日本医科大学付属、永山病院です。近藤哲司さんの携帯でお間違いないでしょうか?」
(病院?)
「ご本人様でいらっしゃいますか?」
「はい・・・」
私は体から血の気が引いていくのを感じた。
「近藤冴子さんが今しがた、お亡くなりになりました」
携帯を持った手がだらりと落ちた。
「どうしたの? 病院からだなんて?」
リサもその電話がどういう意味なのかは想像出来たが、それを聞くのは怖かったはずだ。
「・・・冴子が死んだ。
とにかくこれから病院へ行って来る」
「あなた、気をつけてね?」
私は冴子のいる病院へと急いだ。
首都高の渋滞が忌々しかった。
「冴子、冴子ーーーーっ! うおおおおおーーーっ!」
私はハンドルを強く握り締め、何度も冴子の名前を叫び続けた。
離婚して私が家を出る時の冴子の寂しげな顔が、どうしても頭から離れなかった。
拭っても拭っても、涙が止まらない。
まるでワイパーの壊れた土砂降りの雨のフロントグラスのように、私の目の前の景色が涙の海に沈んだ。
「俺が、俺が冴子を殺したんだ! 冴子を殺したのは俺だあーーーーっ!」
病院に着くと、半地下の霊安室に案内された。
線香の匂いと、微かに漂うタイル貼りの霊安室にこびりついた死臭。
人の良さそうな銀縁メガネの若い医師が、痛々しそうに死因を説明してくれた。
「奥様は子宮頸がんの末期でした。ご愁傷さまです」
と、深々と頭を下げてくれた。
まるで蝋人形のように横たわる冴子。
私は冴子の顔に掛けられた白布を取り、まだ少し温かい冴子の顔を両手でそっと包み込んだ。
「ごめん、ごめんな冴子・・・。帰ろう、冴子、一緒に家に・・・」
私は狂ったように泣き叫び、その叫び声が虚しく霊安室に響き渡った。
そして血が出るほど、コンクリートの床を拳で叩き続けた。
医師とナースは何も言えず、そんな私をただ哀れんでいた。
第16話
私宛に書かれた冴子の遺書があった。
それは交際中によく、冴子が私に送ってくれた手紙の筆跡と同じだった。
ブルーのインクで書かれた、懐かしいその冴子の文字。
私は布団に寝かせた冴子の亡骸を前に、遺書を読んだ。
近藤哲司様
半年前、担当医から余命宣告を受けました。
最初にその話を聞いた時、「このお医者さんは誰のことを
言っているのかしら?」と、まるで他人事のように告知を
聞いていました。
そして2週間前、救急車で運ばれて緊急入院しました。
両親も他界し、私を看取ってくれる人はもういません。
他人となってしまったあなたには迷惑だろうとは思い
ましたが、私が死んだらあなたに連絡して欲しいと、
看護師さんにお願いしてしまいました。ごめんなさい。
私と結婚して、あなたは落胆し、失望したことでしう。
あなたが私を捨て、他の女性と暮らすと言われ時、目の
前が真っ暗になりました。
呑気に眠っているあなたを見ていると、あなたを殺して
私も死のうとも考えました。
それもアリなのかと。
私は「婚姻」という紙切れ一枚の保証に、胡坐をかいて
いたのかもしれません。
無意識に、「この人は私だけの物」と勝手に思っていたの
です。
気付かないちょっとした綻びが、いつしか私たちの絆を断
ち切ることになってしまいました。
私はあなたとその女性を憎み、恨みました。
でも安心して下さい。今はそうは思っていませんから。
自分でも不思議なんです。あんなにあなたたちのことを恨
んでいたのに。
死ねばいいと思っていたのに。
でも、こうして死を待つ自分が思い出すのは、あなたとの
楽しかったことばかり。
死ぬのは怖くはありません。だって私だけが死ぬワケじゃ
ないから。
あなたも、そしてあなたの新しい奥さんも、いつかは必ず
死ぬわけだしね?
だからもうあなたたちのことは許してあげます。
そんな気持ちにさせてしまった私にも責任があるかから。
夫婦とは鉢植えのお花のような物よね?
お日様の光を当ててお水を遣りさえすればそれでいいと
思っていましたが、それは間違っていました。
それだけじゃ駄目なんですね? 「愛しているわ、いつも
ありがとう」の感謝の言葉が必要でした。
夫婦愛とは育てる物だから。
私はそれに気付けませんでした。
朝のゴミ出しや天井の電球の交換、スーパーでのお買物
をした荷物持ち、そして何不自由のない生活。
それを私はどこかで当たり前だと思っていたのかもしれ
ません。
だからこうなった。自業自得です。
ごめんなさい。
ひとつだけお願いがあります。月に1度は私のお墓に
お花と果物を供えて下さい。お願いします。
どうか私の分までしあわせになって下さい。
哲司さん、愛しているわ、出会った頃のようにね?
こんな私を愛してくれて、本当にありがとう。
あなたのしあわせを祈っています。 さようなら。
冴子
私は何度も途中で遺書を読むのを中断した。
涙で文字が見えなくなってしまったからだ。
そしてやっと最後まで読み遂げることが出来た。
胸がつかえた。
誰にも看取られることなく、ひとりで死んでいった冴子。
同じ頃、私は人生最高の時間を、ヨーロッパでリサたちと過ごしていたのかと思うと、慚愧に堪えなかった。
私はしばらくの間、放心していた。
冴子には一緒に住んでいた家と、それ相応の現金預金を残し、会社の役員はそのままにして、毎月の役員報酬は振り込んでいた。
経済的には不自由させたつもりはないが、私は冴子の本当の孤独を知らなかった。
見舞いに訪れる者もなく、冴子は絶望の中で死んで逝った。
「冴子、君は寂しかったんだね?」
涙が畳にポタポタと落ちた。
私は冴子の冷たくなった頬に手を触れた。
火葬場で冴子の棺が火葬室の中に入れられようとした時、私は棺から離れようとしなかった。
「社長、冴子さんを天国に見送ってあげましょうよ」
私はようやく棺から引き離され、火葬室の扉が閉じられた時、私はその前で仰向けに倒れた。
「俺も一緒に焼いてくれ」
骨になった彼女を骨壺に収めた。それはとても軽く感じた。
もう涙は枯れてしまい、私は機械的にその作業を続けた。
しばらくの間、私は冴子の納骨が出来なかった。
冴子と離れることに抵抗があったからだ。
そんなある日、冴子の遺品を整理していると、偶然、彼女の日記を見つけた。
7月19日
また喧嘩してしまった。
もう限界なのかな? 私たち。
私はもう愛されていない。
しょうがない、もう私の気持ちは伝わらない。
7月20日
身体がおかしい。
でも病院に行くのが怖い。
私は独り、もうあの人には頼れない。
心配させたくない。
同情されるのはイヤ。
7月28日
子宮頸がんだと判明。まだ死にたくない。
ひとりで死ぬのはイヤ。怖い。
・
・
・
12月10日
再入院。
死ぬのが怖い。
12月11日
あの人に会いたい。
「ごめんなさい」そして、「ありがとう」と伝えたい。
12月26日
しあわせになってね。
さようなら。
最後の日記の文字は弱々しく、乱れていた。
私は冴子の日記を抱き締め、いつまでも泣いた。
最終話
リサと私は婚姻届を提出する気にもなれず、そのまま一緒に暮らしていた。
それはまるで「人形の生活」のようだった。
私たちには殆ど会話がなくなっていた。
夕食の時、リサが言った。
「奥さん、ひとりで死なせちゃったね?」
「俺のせいで冴子は死んだ」
「そんなことはないわ、駄目よ、自分を責めては。人は病気や事故で死ぬんじゃないわ、寿命で旅立つのよ」
リサは私を母親のようにやさしく抱き締め、私の頭を撫でて泣いてくれた。
そんなある日、仕事を終えて帰宅すると、ダイニングテーブルの上にリサの置き手紙があった。
大好きな哲司さんへ
如何にあなたが奥さんを強く愛していたのかがよく分かり
ました。
私にはあなたの気持ちが痛いほどわかります。
だって私も同じように夫を亡くした女だから。
私は立ち直るまでに10年掛かりました。
正直に言うと、今でも夫を忘れることは出来ません。
どうしても思い出してしまいます。ごめんなさい。
でも、そんなあなたを私は尊敬しています。
あなたは誠実でやさしい人だから。
私はあなたの気持ちが癒えるまで、あなたの傍を離れる
ことにします。嫌いだから離れるわけではありません。
今は奥さんを偲んであげる時間が必要だと思うからです。
ずっとあなたが好きです!
大好きです! 凄く愛しています、心から!
私はいつまでもあなたを待っています。
あなたのリサより 愛を込めて
私は大切なことを忘れていた。リサという掛け替えのない存在を。
私を信じ、愛してくれているリサのことを。
彼女は最愛の夫を亡くしたからこそ、私の気持ちを理解してくれている。
翌日、私は彼女のオフィスに赴くことにした。
事務所のスタッフに手土産を渡し、私は所長室のドアをノックした。
コン コン コン
「どうぞー」
リサは仕事に没頭していた。
「リサ」
リサは顔を上げ、仕事用の眼鏡を外した。
「あら、あなた。家出した妻をもう迎えに来てくれたの?
ちょっと早すぎない?」
「ごめん、リサ」
リサが椅子から立ち上がると、私はリサを強く抱き締めた。
「ごめん、女房のことは忘れることは出来ない」
「そんなのお互い様よ、私も夫を忘れることが出来ないもの。
あの日、あなたと一緒に夫のお墓参りに行った時にね? 私は夫に言ったの、「この人と再婚します。でも決してあなたのことは忘れはしない」と」
「それを聞いて安心したよ。リサに無理をさせているんじゃないかと思っていたから」
「そんなあなたが好き」
「一緒に帰ろう、リサ。そして明日朝一番で区役所に婚姻届を出しに行こう」
リサの涙が私の肩に落ち、リサは何度も頷いた
外はやさしい小雨が降っていた。
それは冴子とリサのご主人の思い遣りの雨のようだった。
私とリサは腕を組み、半蔵門線のメトロに乗った。
流星のように流れてゆく地下鉄の灯り、儚い人生。
「死なない人間なんていないわ。この地下鉄に乗っている人たちもいつかは必ず死ぬの。
夫も冴子さんも死んだ。
そしていつか私たちも死を迎える時が来る。
もちろんどちらが先かなんてわからないけど、もしも私が先に死んだら、再婚してもいいからね?」
「俺が先に死んだら、リサも再婚していいよ」
「その時は遠慮なくそするわ。私、寂しがり屋さんだから。
でもその頃には皺くちゃのお婆さんだけどね? うふっ」
リサの手が私の手を強く握った。
人生にはこのように暗いトンネルの中を行かねばならない時もある。
その暗くて長いトンネルの中でも、私はリサがいれば辛くはない。そして冴子も私の心の中で生き続けている。
私たちは降りるべき駅を見送り、地下鉄を降りようとはしなかった。
ほんのりと、冴子が好きだったフリージアの香りがした。
私は心の中で呟いた。
(ありがとう、冴子)
『やわらかに降る雨のように』完
【完結】やわらかに降る雨のように(作品231008) 菊池昭仁 @landfall0810
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