【完結】紅に海は燃えて(作品230927)
菊池昭仁
紅に海は燃えて
第1話
左目は失明し、残った右目も一枚、そしてまた一枚と、薄いトレーシングペーパーを重ねるように視力は徐々に失われつつあった。
スーパーでの買物は、商品を直に手に取り、右目を商品に間近にしなければその判別は難しかった。
小さな虫メガネはいつもポケットに忍ばせてある。
このウイルス騒動の中では、買うかどうかわからない商品を手にすることは憚られるものだ。
家に帰り、ラーメンを作ろうとスーパーで買ったはずの袋入りのメンマを探したが見当たらなかった。
どうやらレジ籠の側面に張り付いて気が付かなかったようだ。
既に私の右目の視野は幾つかの欠損を生じ、狭窄していた。
ゆえに私はその欠損部分を補うためにいつもは頭を動かし視界を確認するのだが、今回はそれを怠ってしまった。
飲食店のタッチパネルも厄介だった。
先日、ひとりで回転寿司屋に入るとタッチパネルになっており、私は戸惑った。
文字がグレーで小さく、拡大鏡を使ってもよく判別が出来ない。
私は仕方なく、画面の商品画像で注文をすることにした。
初めに生ビールと鳥の唐揚げにしようと、その画像を押したつもりだったが届いたのはカキフライだった。
イカを注文するとカレイの縁側が、鉄火巻はかんぴょう巻になっていた。
デザートに注文したお気に入りのプリンは3個もレーンの台車に乗せられてやって来る始末。
私は独り、その光景を笑った。まるでコントのようだと。
目が悪い者にとってタッチパネルは厄介だ。
「障碍者は外で一人で食事をするな」ということなのだろうか?
「ひとりで来ること自体間違っているんだよ。体が不自由なら介助者と一緒に来るべきだ」
至極ご尤もである。ひとりで生活せざるを得ない自分の生き方に問題があるのだから。
私は人生をうまく渡っては来れなかった。
イヤなことはイヤだと言い、ダメなものはダメだとハッキリと言ってしまう、子供のような大人だった。
そう、私はアダルト・チャイルドだったのだ。
その結果、「孤独な障碍者老人」になったというわけだ。
障碍者がひとりで生きていくことには不都合な事も多い。
目が不自由なのでもちろん自動車免許も返納した。
信号の色はかろうじて見えても矢印信号はお手上げだった。どっちを指しているのかわからない。
食品に小さな字で表示された賞味期限も判読出来ない。
従って買って来た食材はすぐに食べるか冷凍庫に入れた。
靴下は黒が多いため、洗濯して干して取り込むと、同じペアにするのも一苦労だった。
触った生地の感触で確かめるしかない。
先日は足の裏に違和感を覚えたので、見てみると靴下に大きな穴が空いていた。
このように確かに辛いこともあるが、私は自分の今の生活に満足している。
なぜならそれらはすべて自分で判断し、選択して来た結果であり、自分の信念を曲げてまで安穏な人生を生きようとは思わないからだ。
自分が納得出来る人生が「幸福な人生」なのだ。
色んな物を失うことで、私は生きていることすべてが奇跡だと知った。
この世に当たり前など何一つないのだと。
住む家があり、飢えることもなく生かされている。
それ以上何を望むというのだ。
左目を糖尿性網膜症で失い、右眼も眼鏡使用で0.1以下だったので、私は障害者手帳を申請しようと眼科医に相談した。
すると掛かりつけの眼科医は申し訳なさそうに言った。
「有村さんの場合、障碍者手帳の対象にはならないのです」
「右眼が0.1しか見えなくてもですか?」
「片方の目しか見えない方は意外と多くいらっしゃいます。
そういう決まりなのです」
「では全盲にならないと障碍者手帳はいただけないという訳ですか?」
「・・・残念ですがそうお考え下さい」
そして私は7年前、心筋梗塞になり、今では心臓が30%しか機能していないらしい。
その時の循環器内科の高橋医師は鎮痛な面持ちで私にこう言った。
「紹介状を書きますから、すぐに医大で冠動脈のバイパス手術をすることをお勧めします」
「先生、血液が流れ易くなったところで壊死した心筋は回復しませんよね?
だったらもうこのままでいいです、手術のストレスや後遺症で、ラスト・アイの右目を失うのは怖いですから」
「私も有村さんと同じ年齢ですので他人事だとはとても思えないのです。
どうか設備の整った医大病院で、せめて精密検査だけでも受けて下さい」
患者に寄り添う、思いやりのある誠実な医者だった。
おそらくこの医師は、自分の患者が亡くなると泣いてくれるはずだ。
私はこの男が私の主治医で本当によかったと思った。
私の寿命を示す砂時計の砂はサラサラと確実に落ちている。
休むことなく正確に、24時間落ち続けている。
起きている時も寝ている時も、執筆している時も風呂に入って居る時もだ。
だがその砂時計の砂の残量は私には見えない。
まだ半年分あるのか? それとも今から5分後に無くなってしまうのか? それは誰にも分からない。
朝、目覚めることで生きていることを実感する。
「ああ、今日も俺は生きている」と。
ルシアン・ルーレットの毎日。
レボルバーのピストルに1発の弾丸を込め、腕の上でそれを一気に滑らせて拳銃をコメカミに宛てトリガーを引く。
パチン
撃鉄の音だけであれば、それが生きている証だ。
昼食に何度か来ていたトンカツ屋に入った。
この店のタッチパネルには慣れていた。
それにいつも食べるメニューはロースカツ定食と決まっていたから安心だった。
だがタッチパネルが上手く作動しない。私は仕方なくボタンを押してホールスタッフを呼んだ。
「いかがされました? お客様?」
そしてパネルの不具合を私が説明しようとした時、声が出ない。
私は驚愕し、何も注文せずに足早に店を後にした。
遂に私は声も出なくなってしまった。
私は店の近くを流れる川の橋の欄干から川を見下ろしていた。
一瞬ここから飛び込むことも考えたが、どう見てもこの高さ、この水深では死にそうにはなかった。
私はくだらない空想をすることを止めた。
ヘレン・ケラーは目が見えず耳も不自由で、言葉も話すことが出来なかったという。
ヘレン・ケラーの映画のあの有名なワンシーン、サリヴァン先生にヘレンは言う。
「わああ、たああ(water)」
本来、感動する場面なのだが私には切ないシーンでしかない。
ヘレン・ケラーと比べれば、私はまだ救われている。
そんなヘレンも優性保護には賛成だったという。
おそらくそれは、彼女が障碍を持って生きることの辛さを誰よりも痛感していたからだろう。
障碍者の日常を美談にしたがるのは健常者の驕りだ。
所詮は他人事なのだ。
手がない、足がない、目が見えない者の気持ちはそうなった者にしかわからない。
障碍者は「かわいそうな人間」ではなく、少しだけ健常者よりも動作に時間が掛かるということなのだ。
僅かではあるが、私はまだ右目が見えている。声は出なくても筆談は出来る。
銀座のホステスにもいたではないか?「筆談ホステス」が。
私はその時ふと、富山で付き合っていた
麻里子は今、どうしているだろうか?
35年も前の話だ、彼女が今も富山にいるとは限らないし、もう連絡先も忘れてしまっていた。
当時は携帯電話もなく、今となっては連絡するすべもない。
死ぬ前に、目が見えなくなる前に一度、私は富山を訪れてみたくなった。
麻里子と過ごした富山での青春の思い出の場所を巡ってみたいと思った。
たとえ麻里子と再会することが叶わなくても、彼女の人生の片鱗に触れることは出来るかもしれない。
今でも彼女は私の記憶の中で、25才の美しい麻里子のまま生き続けていた。
そんな思い出の地をひとり、私は辿ってみようと思ったのだ。
それは単なる私の最後の思い付きだった。
私は富山へ行くことを決めた。
第2話
早朝、初秋のキリリと引き締まった空気が流れる東京駅新幹線ホーム、20番線に佇む流麗なフォルムは6時16分発、『かがやき501号』金沢行きだ。
35年前には新幹線などはなく、富山へ行くには長時間列車に揺られるか、飛行機しか交通手段はなかった。
それが今では富山駅まで2時間足らずで着いてしまうようになった。
定刻通り、北陸新幹線は滑るように東京駅を発進した。
大宮までのビルの森を抜けると、景色は次第に住宅街へと変わって行った。
朝日に照らされた動き始めた街。
渋滞でノロノロと走るクルマ、ランドセルを背負った小学生たち、足早に会社や学校へ急ぐ人の群れが見えた。
私はコンビニで買ったウイスキーのポケットボトルを開け、ビターチョコを齧った。
鼻から抜けるウイスキーとチョコの豊潤な香り、喉を焼く酒の心地良さが広がる。
それをチョコレートの甘さが和らげてくれた。
最近は食事も疎かになり、酒が食事代わりになっていた。
声は出なくなってしまったが、医者には行かなかった。
特に不自由は感じなかったからだ。
そしてもう、医者通いはしたくなかった。
無意味な治療は時間の無駄だと思った。
目の不自由な俺たちは、声の出なくなったミュージシャンを妬んだ。
「いいよなあ、声が出ないくらいであんなにみんなからチヤホヤにされて。
俺たちなんかバイ菌扱いだぜ。
目の見えない辛さなんか、誰もわかっちゃくれねえ」
「あの人は歌手だから歌うことが生き甲斐なんだろう。
俺たちには関係のねえ話だ」
私は殆どの治療を止め、敢えて死期を早めて行った。
高度医療に支えられ、日本人の寿命は飛躍的に延びた。
明晰な頭脳を持った育ちのいい彼らは、より高いレベルの医療を目指し研鑽を積む。
それにより日本の医学は世界的にも高水準にある。
そして人は簡単には死ななくなった。いや「死ねなくなった」とも言える。
私が子供の頃は医者はカルテをドイツ語で書いていた。
その見慣れない筆記体の文字が怖かった。
殆どの日本人には読めないその文字が、自分の病状を事務的に書き連ねてゆく。
余命半年とはドイツ語でどう書くのだろうか?
ドイツが世界の医学の発展に貢献したのはナチスの人体実験によるものだ。
強制収容所では双子の子供を切って繋ぎ合わせてひとりの人間にしてみたり、骨や筋肉、神経を麻酔もかけずに移植してみたりなど、人間の所業とは思えないことをすることで医学は革命的に進歩を遂げた。
ハンブルグで総合病院に行った時、その待合室は暗く、壁のタイルはまるで精肉店のようだった。
診察してくれた老医師は、元ナチスの生き残りの年齢と合致していた。
丁寧に私を診察してくれたその老医師の手を見た時、私は死神に触れられた気がした。
(この医者も強制収容所で沢山の人体実験をしたのだろうか?)
人を殺すことで人を生かすことの矛盾。
モルモットやマウス実験も例外ではない。ネズミとは言わずにマウスと呼ぶことで罪の意識を希釈しているに過ぎない。
宇宙のような人体を知るには、解剖と人体実験は不可欠だ。
養老孟子の著書の最初のページに掲載された、東大の古い解剖学教室に白布を掛けられ並べられた多くの献体の写真は衝撃的だった。
西洋医学は外科的治療が主体だ。
手術を繰り返し、様々な液体を体に流され電子コードで繋がれて自分では食事も排泄も出来ず、病院のベッドで死を待つ患者たち。
意識はあるが体は動かせない。
それでも人は生きる価値があるのだろうか?
私は「ある」と思う。
肉に喰らいつき、着飾り、人を罵り、蔑み、健康で何不自由のない生活を楽しむ者たちよりも彼らは生きるに値するのだ。
神は人間を寿命まで生かして下さる。
故にどんなことがあっても生きなければならない。
それは分かっている、分かっているが私は疲れ果てていた。
今の日本では100歳など珍しくはない。
高まる医療技術、食料事情も良くなり様々な娯楽も増えた。
カネさえあれば何でも手に入る、何でも出来る世の中になった。
テレビでは白衣を着た医学部教授が「これは健康にいい食べ物です」と言った途端、その食材は翌日のスーパーの陳列棚から消えた。
「死にたくない、死にたくはない」
「いつまでも若くいたい、若く美しく思われたい」
と願う浅ましい中高年たち。
それでも人は遅かれ早かれ確実に死ぬ。
停留所でバスを待つ人たちのように。
私は自分が納得できる「最期の死に場所」を探していた。
やがて住宅も疎らになり、山や田園地帯が広がり始めた。
糸魚川に出ると右手には日本海が見えて来た。
自然と涙が溢れて来た。35年ぶりの日本海だった。
海が「お帰り」と言ってくれているような気がした。
太平洋はブルー、そして日本海にはグレーの海という印象が私にはある。
これから冬になるとシルクグレーの空に横殴りの雪が吹き
そんな日本海も私は嫌いではない。
私はスマホのYouTubeでスメタナの『モルダウ』を聴いた。
懐かしい潤んだ海に私は見惚れた。
富山駅に到着すると駅には昔の面影はなく、あの猥雑な駅舎は消え、怪しい人間が
クレオソートの匂いがするあの古い路面電車も、レトロ観光の目的としてたまに見かける程度だった。
その代わりにヨーロッパのような近代的でお洒落なトラムが走っていた。
私は両手を広げて背伸びをすると、35年ぶりの富山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
街は変わっても空気はあの時のままだった。
私は弱った視力を頼りに、左足をステッキで庇いながら
右側に富山城址公園が見えて来たが、昔とはかなり違っていた。
歳を取った私の記憶が曖昧なのか、街並みはすっかり変わってしまっていた。
私は竜宮城から帰った浦島太郎のような気分だった。
第3話
秋になると日暮れは早い。
17時を過ぎた総曲輪のアーケードには、たくさんの人たちが行き交っていた。
学生の時、私がアルバイトをしていた喫茶店はビルごと消え、コインパーキングになっていた。
あの頃、土曜の夜には私がバイトを終わるのを待って、麻里子はカウンターで珈琲を飲みながらマスターと談笑するのがお決まりだった。
「はいマリちゃん、レアチーズケーキのお裾分け」
「マスターいつもありがとう。美味しそー」
「今日の出来は中々いいカンジに出来たからね? 味見してみてよ」
「いただきまーす」
美味しそうにそれを食べる麻里子の横顔が目に浮かんだ。
歩き疲れたので久しぶりに富山の旨い酒と肴で落ち着こうと、近くの鮨割烹の店に入った。
「いらっしゃいませー!」
威勢のいい職人たちに迎えられ、私はカウンターに座った。
私はスマホのメモに「声が出せないのでよろしくお願いします」と打って、仲居さんと正面の板さんにそれを見せた。
「かしこまりました。ではコースはいかがでしょう? 3,000円、5,000円、8,000円とございます」
私は左手の指を全部広げ、右手で3つの指を立て、「8」を表現して見せた。
「では8,000円のコースでよろしいですか?」
私は微笑んで頷いて見せた。
35年前にはなかった、落ち着いた高級感のある店だった。
先付けは越中ばい貝の和え物と紅ズワイガニとイクラ、そしてウニが
酒は『満寿泉』という日本酒の銘柄で、様々な料理に合わせたその酒のシリーズが供され、ワインのように酒の特色に合わせてグラスを変えて出す心づくしが見られた。
広口の香りを堪能出来るワイングラスに入れられた物や枡に入ったグラス酒、そしてお猪口などに入れられていた物もあった。
中にはオーク樽で熟成させたという、ウイスキーのような古酒もあった。
もちろんそれはウイスキーグラスにオンザロックで供された。
酒に料理を合わせているのか? 料理に酒を合わせるようにも誂える。 それは完璧なまでの料理と酒のマリアージュとなっていた。
どちらが上で、どちらが下というものではなく、対等にお互いを引き立てあっている。
そもそも酒と料理はそんな夫婦のように一体であるべき物なのだ。
それはフランスの名だたるレストランにも優るとも劣らない物だった。
甘酢梅の餡掛け茶碗蒸し、白えびと甘エビ、
アオリイカの隠し包丁は驚くほど繊細で見事な物だった。
酢飯には赤酢を使い、上品に口の中で解れた。
ネタにあわせて酢飯の量と握り加減を微妙に変えている。
素材の下ごしらえは入念に吟味され、平目の昆布〆などは芸術品とも言える代物だった。
中でも驚かされたのはガリの完成度の高さだ。
次の鮨へ向かう前に、さっき食べた鮨の記憶を完全にリセットしてくれる。
その後も本マグロの大トロやウニ、
最後の締めにはアナゴ、そしてカワハギの肝合えの海苔巻き。そしてデザートには「塩ジェラート」でコースが締め
カウンターから調理場を見ていると、ここの店主であろう板長が、千手観音のように手を操り、それぞれのお客の食べるスピードに合わせて握りを提供していた。
顧客とのコミュニケーションを取りながら、従業員たちにも的確な細かい指示を与えていた。
見事だった。
「本日は誠にありがとうございました。
ご満足いただけましたでしょうか?」
私は笑って深く頭を下げ、口パクで「とても美味しかったです」とやって見せた。
「またのご来店を心よりお待ち申し上げております」
店のスタッフ全員も私に深々と頭を下げて見送ってくれた。
素敵な店だった。
ただ旨いだけでなく、この店には客をもてなす温かい心があった。
食べていただく
食べさせていただく
ここにはお客と料理人のフィフティ・フィフティの信頼関係があった。
私はとても晴れやかな気持ちになった。
腹ごしらえを終え、ほろ酔いになった私は以前、麻里子の親友だった梢が大学を辞め、バイトしていたスナックがあったことを思い出し、訪ねてみることにした。
何となく勘を頼りに杖をついて歩いて行くと、見覚えのある通りに辿り着いた。
スナック『鈴蘭』
確か前の店の名前は『アカシア』だった筈だ。
35年も前の話だ、当時60近かったママも生きていれば95になっている。
店の名前もオーナーも、変わっていてもおかしくはない。
私は引き寄せられるように店のドアを開けた。
「いらっしゃいませー」
そこにいたのは20代前半と思われる、アッシュ・グレーのボブヘアーをした、人懐っこいホステスだった。
私はスマホを取り出し、
病気で声が出ません
ビールを下さい
と打ってスマホを見せた。
「そうなんだあ、大変ですね? どうぞお掛け下さい」
お通しには茄子とミョウガ、オクラの酢の物。そして富山の名産「黒作り(イカ墨を入れた塩辛)」が出て来た。
「さあどうぞ、お通しになります」
私はすっかり変わってしまった店内を見渡し、コップに注がれたビールを一息で飲み干した。
ここにはまだ、私たちの青春が染み付いていた。
空いたコップにビールが注がれ、私は少しカウンターを撫でた。
カウンターはあの頃のままだった。
「お客さん、このお店初めてですよね? どうしてここへ?」
35年ぶりに来てみました
昔は『アカシア』という店でしたがオーナーが変わったのですね?
「35年前かあ、まだ私は生まれてないなあ。
じゃあ、私のママがこの店でバイトしていた頃かも?
この店、私たち親子でやってるんです」
ママの名前は?
「梢、雪村梢」
その名前を聞いた時、私はこの娘の顔をまじまじと見た。
(似ている、確かに口元と目の辺りが梢にそっくりだった)
「ママ、もうすぐ来るから話してみたらどうですか?
覚えてるかもしれませんよ、お客さんのこと。
あっ、ごめんなさい、「書いてみたら」ですよね?」
その時、店のドアが開き、取り付けられたカウベルが鳴った。
「いらっしゃい。今、美味しいおつまみを作るわね?」
レジ袋を提げたその女は、紛れもなく梢だった。
「ママ、このお客さん、35年ぶりにここに来たんだって。
覚えてる?」
「そうなの? 35年ぶり・・・」
振り向く梢、間違いなく梢だった。
梢は目を大きく見開き私を見て驚いていた。
それは懐かしさではなく、悲しい目をしていた。
「もしかしてジュン君? ジュン君なの!」
「ママ、お客さん、病気で声が出せないんだって」
「声が出せない?」
病気で声が出なくなった
梢なんだね? 久しぶり
すぐにわかったよ 相変わらず美人だから
こんな大きな娘さんがいたなんて驚いたよ
私は携帯のメモを梢に見せて笑った。
だが梢に笑顔はなかった。
「一週間前、麻里子が亡くなったの、病気で・・・」
私は一瞬、耳もおかしくなってしまったのかと思った。
梢はそれ以上何も言えず、時間は35年前に遡り、停止した。
第4話
「麻里子がジュンを呼び寄せたのかもね? びっくりしちゃった、ジュンが富山に来て、しかもこのお店にいるなんて」
ずっと富山に来たかったんだ
不思議と涙は出なかった。
それは麻里子の死がまだ信じられなかったからだ。
(麻里子が私よりも先に死んだ?)
私は悪い夢を見ているのだと思いたかった。
「まだ還暦前よ、59歳。「一緒に赤いパンティを履いてお祝いしようね?」、なんて笑っていたのに・・・。
人は簡単に死んでしまうものなのね?
ジュンは今、何をしているの?」
物書きをしている
売れない物書きを
「すごいわね? 作家さんだなんて」
私は苦笑いをした。
「結婚は?」
その質問には首を左右に振った。
「そうなんだあ。麻里子も私も独身。
私たち、余程パートナーに恵まれない運命なのかもね?
ジュンは一度も結婚はしなかったの?」
私は人差し指を1本立てて見せた。
「それじゃあ私たち、みんなバツイチだね? あはははは」
麻里子は病気だったんだね?
「苦しまずに眠る様に逝ったわ」
どんな病気で死んだのか? 訊ねることはしなかった。
訊いたところで意味がないからだ。
それで彼女が戻って来るわけでも、会って話が出来るわけでもない。
献杯しよう
店で一番強い酒をボトルで出してくれ
「そうね? 今日はゆっくり麻里子を偲んで飲みましょう。
花音、看板を仕舞って来て頂戴。今夜はジュンとお店を貸し切りにするから」
「はーい。じゃあ私、先に上がるね? どうせ私はお邪魔だろうから」
「またあの子と会うの?」
「そうだよ、だって彼氏だもん」
「ママ、あの子あんまり好きじゃないなあ」
「いいのいいの、私が好きなんだから」
「女のしあわせは男次第よ。ママを見ていればわかるでしょ?」
「ママを見て育ったからああいう男に惚れちゃうんだよ。イケメンでだらしない、浮気者のどうしようもないダメンズに。
放っておけないんだよねえー、時々見せる寂しそうな横顔につい騙されちゃう。
やっぱり私はママの娘、血は争えないものね?」
「花音にはちゃんと当たり前にしあわせになって欲しいのよ。私のカワイイひとり娘だから。
赤ちゃんだけは気を付けなさいよ」
「これでも薬学部だよ。大丈夫、ちゃんとゴム付けてしてるから」
「バカね、ジュンの前で」
「えへっ」
花音というその娘は移動看板を店に入れ、店の表の灯りを消した。
「それじゃあお先です。
ジュンさん、ママをよろしくね? それからジュンおじさん、今、ママは彼氏いないからチャンスだよ」
「こらっ、個人情報を暴露すんな! まったく!」
私は笑って軽く右手を挙げ、花音を見送った。
梢はワイルドターキーのボトルを開けた。
「あの子も痛い目に遭わないと分からないのよ。ウイスキー、ロックで良かったわよね?」
私は頷いた。私の飲み方をよく覚えていてくれたものだ。
トクトクトク
ウイスキーグラスに入れたエベレストのような形の氷に、バーボンがとろりと流れて行った。
梢はもうひとつのグラスを私の右隣に置き、静かにバーボンを注いだ。
私たちはグラスを掲げ、麻里子に献杯をした。
「献杯。良かったわね? マリ。ジュンが来てくれたよ。マリに会いにわざわざ富山まで。
どうせアンタが呼んだんでしょうけどね? こんな手の込んだことして。
どうせなら生きているうちに呼べば良かったのに。おバカな麻里子。
あんなにジュンに会いたがっていたのに。
今夜は3人で朝まで飲み明かしましょう。35年ぶりの同級会。
娘の花音、私にそっくりでしょう? よく姉妹に間違えられるのよ。うふっ
頭はいいのよ、私にも旦那にも似ないで。
今は薬学部に通っているの、製薬会社の研究員になりたいんですって。
富山は薬の街だしね?
でも親に似て、イケメン好きなのがちょっと心配。
顔のいい男ほど、ダメ男なのにね?
元の旦那はイケメンだったけど仕事もしないヒモみたいな男だった。
酒癖が悪くて、よく殴られたわ。
マリは同じ中学校の職場の英語教師と結婚して、3年でダメになった。
いい人だったんだけど、どうして離婚したのかは私にも言わなかった。
ジュンの元嫁はどんな人だったの?」
梢は酒を煽ると、マイルドセブンに火を点けた。
気の利くいい女房だったよ
「ならどうして別れちゃったの? そんなにいい嫁と」
俺は我儘だから
「どうせジュンが浮気でもしたんでしょ?」
私は笑った。
「ジュンはモテるもんねー?
今もダンディーよ。あはははは」
梢は小首を傾げて私を見て笑った。
その仕草が少し、土屋アンナに似ていた。
「今、お付き合いしている人はいるの?」
いたら一緒に来ているよ
「それもそうね? 食事はして来たの?」
私は「済ませて来た」、と大きく口を動かして見せた。
「そう? 私もお店の時はいつも夕食を食べてからお店に出るの。だってお腹空いちゃうから。
でもよく常連さんたちとお店が終わってラーメンを食べに行くからすぐ太っちゃう。
深夜のラーメンは危険よね? おつまみに卵焼きでも作ろうか?」
私はゆっくりと首を縦に振った。
「私の作る卵焼きは結構評判いいんだよ。私の卵焼きは甘いんだけど、甘くても平気?」
私は頷いて見せた。
梢が調理の支度を始めると、私も煙草に火を点けた。
懐かしい梢との会話。
35年の時が次第に蘇ってゆく。
ドアが開き、今にも麻里子がやって来そうな気がした。
息を切らし、店に入って来る麻里子。
「ごめんごめん、職員会議が長引いちゃって。
あらジュンじゃないの? 久しぶりね?
私に会いに富山まで来てくれたの?」
これは梢のブラックジョークなのではないのだろうか?
「なーんて嘘。今すぐここにマリを呼ぶわね?
麻里子、きっとびっくりする筈よ! ジュンがここにいるなんて!」
そんな風にお道化て見せて欲しかった。
私には麻里子が死んだという実感が、どうしても湧かなかった。
それを見透かすように、卵焼きを上手に巻きながら梢は言った。
「信じられないでしょう? あの麻里子が死んだなんて・・・。
ジュンのその隣の席でよく笑っていたわ。「あいつ、今どこで何をしているのかしら?」ってね? いつも話題はジュンのことばっかり」
梢は卵焼きを焼きながら泣いていた。
「はい、お待ちどうさま。
梢ママ、特製出汁巻き卵でーす。
ちょっと塩っぱくなっちゃったけどね?」
梢はそれを3つの皿に分け、ひとつを麻里子の影膳として据えた。
綺麗な卵焼きだった。
私はそれを食べ、何度も頷いて見せた。
その卵焼きの味は、私が長く忘れていた家庭の味だった。
「どう? 美味しいでしょう? マリも好きだったんだ、私の卵焼き。
そういえばジュン、荷物は? ホテルに置いて来たの?」
旅行はいつも手ぶらなんだ
着替えは現地で買えばいいから
余計な物は持たない主義でね?
だから女房もいない
「じゃあ、泊るところは?」
まだ決めてない 適当にビジネスホテルでも探すよ
「だったらウチに泊まりなよ。大丈夫、襲ったりしないから。
そして明日、一緒に麻里子に御線香を上げに行こうよ」
ありがとう じゃあ遠慮なく世話になるよ
その夜、私と梢はバーボンのボトルを空けた。
朝方、私は梢の家に泊めてもらうことになった。
第5話
梢の家は郊外の住宅地にあった。
総二階建の小さな家だが母娘で暮らすには丁度良いだろう。
「15年前に中古で買ったの。
花音がお嫁に行っても、私ひとりで住んでもいいと思って。
狭くてボロ家だけど、さあ上がって」
玄関から犬の鳴き声がした。犬を飼っているようだった。
梢が玄関を開けると、トイプードルが梢に猛ダッシュで飛び掛かって来た。
梢の帰りをずっと待っていたのだろう、その喜び様はたいへんなものだった。
尻尾をちぎれんばかりに振っている。
梢は犬を抱き上げた。
「ハイハイ、ただいまベルちゃん。お利口さんにしてましたかー?
どう? かわいいでしょう? 私のもう一人の娘」
ベルというそのトイプードルは、私に向き直ると梢から逃れて私の元へ来ようと暴れた。
「ベルちゃん、ジュンのことが好きなの?
ほら、おじさんに抱っこしてもらいなさい」
梢がベルを私に抱かせると、ベルは急に大人しくなった。
「そうなのー? ベルちゃんはジュンが好きなのー? 良かったわねー、ジュンおじさんに抱っこされて。
ママもジュンに抱っこされたいなー。あはははは」
几帳面な梢らしく、突然の訪問にも拘らず、家の中は掃除が行き届き、よく整理整頓がされていた。
玄関には余分な靴など1足も出ていなかった。
「ちょっと待っててね? 今、お風呂の用意をして来るから」
かなり飲んだはずだが、頭は冴えていた。
今日、私は麻里子が死んだ事実を自分で確かめに行くのかと思うと、やはり心は沈んだ。
その時、私は麻里子とどう向き合えばいいのだろう?
果たして私は冷静でいることが出来るのだろうか?
10分ほどすると、梢が着替えとバスタオルを持ってやって来た。
「お風呂の支度が出来たわよ。
下着は前の彼氏の忘れ物だけど、新品だからいいよね?
私も一緒に入ろうかな? あはははは」
梢はお道化て見せた。
私は笑ってバスルームへと向かった。
脱衣場には梢たち親子の下着が干したままになっており、それはおそらく、梢の悪戯心だったはずだ。
下着はベージュのおばさんパンツではなく、若い娘の履くような、小さくてかわいらしい物だった。
私のために用意してくれた着替えの下着は男性物のTシャツと、チェックのトランクスが包装されたまま入れられていた。
私は湯舟にカラダを深く沈めた。
乳白色の入浴剤に、久しぶりの長旅の疲れが癒された。
病気になってからは取材旅行も控えるようになっていた。
35年ぶりの富山で、麻里子の友人の梢の家に泊まるなど、夢にも思わなかった。
麻里子のことは今まで一度も忘れたことはなかった。
私たちは学部こそ違ったが、同じ映画サークルで仲良くなり、大学2年の時から私と麻里子は付き合い始めた。
それはごく自然なもので、口にはしなかったが将来、私たちが結婚するのが当然だと思っていた。
麻里子は実家通いだったが、私がアパートのひとり住まいだったこともあり、大学が終わると毎日のように私のところにやって来て、掃除や洗濯、食事の用意までしてくれた。
かわいいエプロンをして料理を作る麻里子は、まるで新婚の新妻のようだった。
その頃だった、突然、梢が大学を辞めたのは。
父親が経営していた会社が倒産し、大学に残ることを梢は断念したのだった。
「梢、何とか大学を続けられないのかしら?
あの子も私同様、地元で中学の先生になるのが夢だったのに・・・」
そして梢はスナックでバイトを始めたので、私のバイト代が入ると、私と麻里子は梢のいるスナック、『アカシア』へ出掛けた。
最初、しあわせそうな私たちが梢と会うことに躊躇いはあったが、幸いなことに、梢にも当時付きあっていた彼氏がおり、私たちはよく一緒に遊んだりもした。
そんな梢がある時、ポツリと言った。
「大学には残りたかったけど、パパもママ、そして弟も頑張っているしね?
私だけが我儘を言うわけにはいかないわ」
その時の梢はとても寂しそうだった。
大学を卒業すると私は横浜の貿易会社へ就職が決まり、麻里子は教員採用試験に合格し、中学の数学教諭となった。
私たちは遠距離恋愛になってしまったが、3年後には麻里子は横浜の中学へ異動し、結婚して横浜で暮らすことになっていた。
最初の1年は離れていることでより愛は深まり、私たちは毎日のように手紙を書き、長電話をした。
私たちは慣れない社会人生活に疲れ、受話器を握ったまま眠ってしまうこともあった。
そして遠距離生活も2年目になった時、事件は起きた。
会社での飲み会の帰り、2年先輩の立花裕子から、「有村君、もう少し飲んでいかない?」と誘われ、私は酔っていたこともあり、その誘いを気軽に快諾してしまった。
色んな店を回り、沢山カラオケも歌った。
色っぽくボディタッチを繰り返す彼女に私は耐えた。
そのうち気分も良くなりかけた時、彼女は言った。
「お金ももったいないし、ジュン君の家で飲み直そうよ」
麻里子に会えない寂しさに性欲を持て余していた私は、彼女の策略にまんまと嵌められてしまった。
「随分と溜まっているんでしょう? 彼女、富山だもんね?」
私は何も考えず、先輩を抱いた。
朝起きて、また行為を続けていると、急に玄関のドアが開いた。
「ジュン! 驚いたで・・・」
麻里子だった。
両手には地元の紙袋を持ち、言葉を失い呆然と立ち尽くす麻里子。
どうやら麻里子は私を驚かせようと連絡もせず、有給を取って横浜に突然やって来たのだった。
「もしかして富山の彼女さん?」
裕子は悪びれることもなく、更にカラダを私に押し付けて来た。
それからのことは覚えてはいない。
麻里子は何も言わず、泣きながら富山へ帰って行った。
こうして私たちの永すぎた春は終わりを告げた。
梢が脱衣場から声を掛けた。
「ジュン、大丈夫? のぼせてない?
ちょっと開けるね?」
浴槽のドアが開いた。
「あんまり静かだから溺れちゃったのかと思ったわよ。
お布団、和室に敷いて置いたから、ゆっくり休んでね? 今日は色々と疲れたでしょうから」
私は「ありがとう」と口パクで答えた。
「うふっ 背中、流してあげようか?」
私は手を左右に振った。
「冗談よ、じゃあ午後、マリに御線香を上げに行きましょうね?
おやすみなさい」
私は深く頷いた。
それは物言わなくなってしまった麻里子と対峙する覚悟でもあった。
第6話
その老婆には見覚えがあった。
麻里子のお母さんに間違いない。
あの美しく、上品だった人はすっかり白髪になってしまい、シワも増え、ほうれい線が目立っていた。
歳月の流れを、私は彼女を見て知った。
(あれからもう35年が過ぎたのか?)
「おばさん、ジュン君よ、有村純一君。
覚えてる?」
「ジュン君? あの、有村君なの? ううううう
マリが、麻里子が・・・、呼び寄せたのね?
娘に、麻里子に会ってあげて頂戴」
「ジュン君ね、病気で声が出せないんですって」
「声が出せない? それは辛いわね?」
私は深々と頭を下げた。
二間続きの和室には、たくさんの花に囲まれた麻里子の遺影と遺骨が置かれていた。
麻里子の遺影は笑っていた。
何がそんなに楽しいんだ? もう死んでしまったというのに。
麻里子はどんな人生を送って来たのだろうか?
それはあまりにも短い人生だった。
歳を重ねたその顔には、落ち着いた円熟さが見て取れた。
ロウソクの炎に線香を翳したが、手が震えて中々火が点かない。
ようやく線香に火が点き、火を消して線香を立て、鐘を鳴らし手を合わせた。
後から後から止めどなく零れ落ちる涙と鼻水を、私は隠すことなく懸命にハンカチで拭った。
私は思わず、両手で遺骨に触れた。
「麻里子、どうして? どうして・・・、俺よりも、先に・・・」
その時突然、失われていた声が出た。
声が出るようになった。
「ジュン! 声が! 声が出るようになったのね!
よかった! マリが、マリが治してくれたのよ! うううううっ
話せるようになって、本当によかった・・・」
私は自分を責めた。
どうしてもっと早く、麻里子に会いに来てやれなかったのだろう。
今の時代なら麻里子を探し出し、消息を知ることなど
それなのに私は「終わった恋」だと諦めてしまっていた。
どうせ会ってはくれはしないだろうと、勝手に思い込んでいたのだ。
麻里子のことを忘れたことは一度もなかった。
麻里子の好きだったフリージアの香りを嗅ぐ度、彼女が好きだった桃や葡萄を見る度に心が軋んだ。
富山のある、遠く西の空を眺め、
「麻里子は今、しあわせなのだろうか?」
そんなことをぼんやりと考えたりもした。
私が結婚に失敗した本当の理由は、麻里子の面影を女房に重ねていたからだった。
女房はそれに気づいていたのだった。
「私はあなたの別れた恋人じゃないわ!」
私が今まで再婚をしなかったのは、麻里子と、別れた妻への贖罪だった。
女の愛を求めないことで、私は自分の罪を
だがそれも、麻里子が死んだ今となってはなんの意味もなくなってしまった。
それは麻里子と、別れた妻がしあわせであることが大前提だからだ。
麻里子は独身のまま死んだ。
一体私の人生は何だったのだろう?
麻里子の人生を私は台無しにしてしまった。
私はかけがえのない愛を失い、会社も辞め、先の見えない小説家になった。
そして左目を失い、残された右眼を酷使している。
遂には心筋梗塞にもなり、今は30%しか心臓が動いていない。
いつ死んでもおかしくない体になってしまった。
目が見えなくなるのが先か? それとも心臓が停止するのが先なのか?
せめて麻里子の最期を看取ってから死にたかった。
私はもっと悲しみ、苦しむべき男なのに。
お母さんが遺影を見ながらポツリと言った。
「有村君のことは時々あの子が懐かしそうに話していました。
やっぱり有村君のことが好きだったんでしょうねえ?」
お母さんはそう言って目頭を押さえた。
「マリ、ジュンに会えて良かったね?
天国でゆっくり休んでね? 私たちもいずれそっちに行くから。
そしてやろうよ3人で、天国の同窓会」
梢も泣いていた。
人は死なないために生きている。
死ねばそこで人生の物語は終わってしまう。
私の人生の物語の終わりも近い。
だが、よく死ぬためには「良く生きなければならない」のだ。
生きるとは、死へ向かう旅なのだから。
しばらくの間、私は遺骨の前から離れることが出来なかった。
「何もないけど、ご飯でも食べていって下さいね?」
「ありがとうございます」
「富山にはいつまでいらっしゃるの?」
「少し、ゆっくりしようと思っています。自由業なので」
「おばさん、ジュン君ね? 小説家さんなんだって」
「あら、そうだったの? たいへんなお仕事ね?」
「売れない小説家です」
私がそう言って自嘲していると、花音くらいの女の子が入って来た。
怪訝そうに私を見ると、私に軽く会釈をした。
「お婆ちゃん、アキおじちゃんが帰るって」
「あらそう? ご挨拶しないと。じゃあちょっと失礼しますね? よっこらしょっと」
「純子ちゃん、この人、ママの昔の彼氏さんの有村さん。今はおじさんだけどね?」
すると純子というその娘は私を一瞥し、不機嫌そうに部屋を出て行った。
目元と顔の輪郭、後ろ姿、そして歩き方までもが麻里子にそっくりだった。
「マリの娘さん、純子ちゃんって言うのよ。ウチの花音と同じ22歳。
文学部の4年生。マリにそっくりで驚いたでしょう?」
「よく似ている」
「悲しいくらいによく似ているわよね?」
それは丁度、別れた頃の麻里子と瓜二つだった。
私は自分の犯した過ちも忘れ、麻里子との楽しかった日々を思い出していた。
そしてまた、涙が零れた。
食事をご馳走になっている時も、純子ちゃんは2階から降りて来ることはなかった。
どうやら私は彼女に嫌われたらしい。
帰りのタクシーの中から見える街の景色は切なく、セピア色になっていた。
「よかったね? 声が出せるようになって」
「ああ、もう諦めていたからな?
梢には本当に世話になった。ありがとう」
「どうせゆっくり出来るならウチに下宿すれば?
ホテルとか勿体ないでしょう?」
「いつまでも梢に甘えるわけにはいかないよ」
「甘える? 何言ってんの、泊めてあげる代わりに家政夫として働いてもらうってことよ。
番犬としてもね?
女の二人暮らしでしょう? 結構狙われるのよ、下着ドロボーとか。
この前も私と花音のお気に入りのパンティ、盗まれちゃったんだから」
梢の嘘は見え見えだったが嬉しかった。
私はその好意を素直に受けることにした。
その日から私と梢、そして花音の家族ごっこが始まった。
第7話
大学の学食で私はカツカレーを、花音は天ぷらうどんを食べていた。
「純、またカツカレーなの?
ホント、好きだよねー、カツカレーが」
「カレーにはカツが付き物だよ。ラッキョウや福神漬みたいに。
花音だっていつも天ぷらうどんのくせに」
「うどんには絶対に海老天なのよねー。
最後に残しておいた、海老のシッポを齧りながら飲むお出汁、それが堪んないのよ」
カツカレーの真ん中の、いちばん美味しい部分に私はフォークを刺した。
「この前、花音ママと変なオヤジが家に来た時、そのオヤジの事をグーで殴ってやろうかと思ったわよ。
ママを捨てた男が今更なんなの? まったく!」
私は亡くなった母から、有村という男の、浮気が原因で別れたことを聞かされていた。
(ママと二股を掛ける男なんて許せない!)
私はそう思っていたのだ。
「ああ有村さんね? 結構いい人だよ、あの人。
有村さんなら今、ウチに住んでいるけど?」
「えーっつ! どうして? なんであんなキモイオヤジなんか泊めるのよ!」
「ママが誘ったみたい、「ウチに住めば」って。
昔から友だちだったみたいよ? ウチのママと有村さん、そして純子のママも。
よく一緒にダブルデートしたってママが言ってた。
有村さんって小説家さんなんだよ。大学の図書館にも何冊が置いてあったから、純子も今度読んでみたら?
私、読んで泣いちゃった。
パソコンを買って来て、家で小説を書いているみたい」
「花音はイヤじゃないの? あんなオッサンと一緒で?」
「ママが今まで付き合っていたロクデナシばっかり見て来たから、凄く新鮮だけど?」
花音は天ぷらうどんを啜った。
「まさか花音のママと一緒に寝てなんかいないわよね?」
「それはないよ。だって純のママの元カレさんなんでしょ? いくらなんでもそれはないよ」
「そんなのわかんないわよ!
浮気してママを捨てたオヤジだよ? 花音のママ、美人だし、それに花音だって襲われちゃったらどうすんのよ!」
「どうしたの? そんなにムキになっちゃって? いつものクールな純らしくないよ?」
「あのオッサンが嫌いなだけよ! 大っ嫌いあのオヤジ!」
私はようやくフォークに刺したままだったカツを口にした。
「でもね? うちのママはとってもうれしそうなの。
あんなに楽しそうなママを見たのは初めて。
もしかするとママはずっと有村さんのことが好きだったんじゃないのかなあ。
ほら、よくラブコメでもあるじゃない? 親友のために彼を諦めたとかって話」
花音はまるで他人事のようにそう言うと、海老天を齧った。
「あんなオッサンのどこがいいの?」
「なんだかさー、「家族ごっこ」しているみたいなんだよねー。
ママと有村さんが夫婦で、私がその間に産まれた「かわいい娘」みたいなさ。
私は父親の記憶があまりないからファザコンなのかも」
まだ3/4以上も残っているカツカレーを持って私は席を立った。
「午後からの講義に遅れそうだから、先に行くね?」
「講義って、まだお昼になったばかりだよー」
(何が「家族ごっこ」よ! ママを悲しませた男と同居しているなんて!)
家に帰ると有村がまた来ていて、祖母とお茶を飲みながら話をしていた。
「あら純ちゃん、お帰りなさい。
有村さんがママに御線香をあげに来て下さったのよ、ママの好きだった果物とフリージアの花束を持って」
「お邪魔しています」
私はそれが腹立たしかった。
「帰って! もう二度とママのところに来ないで!」
「純子、有村さんに失礼ですよ! 謝りなさい!」
「おばあちゃんもどうかしているよ! この人はママを捨てた人なんだよ!
何よ今さら! 謝罪のつもり? もう帰って! 二度とここには来ないで!」
有村は私に向き直ると、両手をついて土下座をした。
「どうもすみませんでした。
あなたのお母さんを悲しませたのは事実です」
「私になんか謝らないでよ! 母に謝ってよ! もう遅いけど!」
我慢していた想いが溢れ、涙が零れた。
すると有村は母の遺影の前で土下座をし、頭を畳につけて嗚咽して詫た。
「辛い想いをさせて・・・、本当に、申し訳ありません、でした」
「頭を上げて下さい、有村さん。
若い時のお話ですもの、そんなことは誰にでもあることですから。
あなたはここへ来てくれた、それは麻里子のことを本当に愛してくれていたからだと私は思います」
「誰にでもあってたまるもんですか!」
「あなたもそのうち分かる時が来るわ。
うまくいかない恋も恋は恋なの。
傷付いたのはママだけじゃないのよ。
有村さんも同じくらい、あるいはそれ以上に傷付いたのかもしれない。
それはママと有村さんにしかわからないことなの。
ママも有村さんのことを懐かしそうに笑って話してくれていたじゃないの?
有村さんのことを恨んでいたら、あんなに楽しそうに有村さんの話なんか出来るかしら?」
有村は言った。
「嫌な思いをさせてすみませんでした。
もうここへは参りません。
でも納骨が済んだら、お墓参りだけはさせて下さい。
お願いします」
有村は私と祖母に深々と頭を下げた。
「もちろんですよ。そしてまたいつでもここに遊びに来て下さいね? 麻里子もきっと喜ぶと思いますから」
「ありがとうございます。
では、失礼します」
有村が靴を履いて玄関を出ると、祖母が私に言った。
「ちゃんとお詫びをして来なさい。ママが悲しまないように」
私は有村の後を追った。
有村は杖をつきながら夜の外灯の下を慎重に歩いていたが、道路の植え込みに躓き、生け垣に倒れ込んでしまった。
「大丈夫ですか!」
「ああ純子さんですね? 大丈夫です、よくやってしまうんですよ、目が悪いもので」
「目が悪いって老眼だからですか?」
「いえ、左目を失明していまして、右目もぼんやりとしか見えないんです。
きっとお母さんを悲しませた罰ですね?」
「ちょっと待ってて、花音の家までクルマで送ってあげるから」
私は自分のクルマに有村を乗せた。
「目が悪いならそう言って下さいよ、クルマで送って行ってあげたのに」
「ありがとうございます。途中でタクシーを拾うつもりだったので助かりました」
間が持たないと思った私は、FMラジオを点けた。
「お母さんとは結婚するつもりでした」
「・・・」
「別な女性と一度、結婚したこともありましたが長続きはしませんでした」
「・・・」
「どうやら私は女性を不幸にしてしまうようです」
「そんなのあなたの勝手な詭弁でしょう!
だから何? だから母も不幸にしたとでも言いたいの?
結局それはあなたのエゴでしょう!」
「そうですね? 私のエゴです」
「でも、もうどうでもいいです、そんなこと。
母はもうこの世にはいないんですから」
「生きているうちに謝りたかったです。
あなたのお母さんに」
クルマのラジオから松田聖子の『あなたに逢いたくて ~Missing You~』が流れて来た。
あなたに逢いたくて 逢いたくて
眠れぬ夜は
あなたのぬくもりを そのぬくもりを思い出し
そっと瞳 閉じてみる・・・
花音の家に着いた。
「送っていただいて、本当にありがとうございました。
気を付けて帰って下さいね?」
「さっきは少し言い過ぎました。また来て下さい、母に会いに」
「ありがとうございます」
クルマを降り、花音の家に向かって杖をつき、左に少し傾いて歩く母の元彼。
私は小さく呟いた。
「ママ、中々いい人じゃない? ママが愛した元カレさん」
子供の頃、母に訊いたことがあった。
「ママ、私の名前はどうして「純子」なの?」
「それはね? 純真な心をいつまでも大切にして欲しいと思ったからよ」
でもそれはおそらく嘘だ。
「純子」という名前は有村純一の「純」の字を取って私に付けてくれた名前だ。
有村さんが私を振り返りながら歩くその姿を見て、私はそう確信した。
母はずっとこの男性を愛していたのだ。
第8話
「今日から少しの間、お世話になります」
「何よ、そんなに改まって。
お嫁さんに来たわけじゃないんだからさあ」
「色々とありがとう。これは私からのささやかなお礼です。
松坂牛のすき焼きを作ってごちそうしたいと思います」
私は肉の包を開いた。
「すごーい! ママ、こんなお肉、テレビでしか見たことないよ!」
「ワンワン!」
ベルもおすそ分けを期待しているようだった。
「ありがとう! ジュン大好きー!
花音、ビール、ビール!」
「はーい!」
私はすき焼き鍋を乗せた卓上コンロに火を点け、切ったネギを入れて軽く焦げ目を付けた。
「あら、ネギから焼くの? それにネギも斜め切りじゃないんだ。
焼鳥のネギ間みたいに切るのね? それに少し短いみたい」
「ネギを斜めに切るのは見栄えとネギを多く見せるための工夫だが、食べるにはこの方が旨いんだ。
こうして切ると、噛んだ時にネギの芯が飛び出て、ネギの甘味が増す。
板前によってはわざとネギの外側を焦がして、甘い中身だけを使うこともある。
ちょっと勿体ない気もするけどね?
最初にネギを焼くと香ばしくなって、風味も良くなるんだよ」
「へえー」
そして肉を入れ、ザラメ砂糖を少し多めに入れて日本酒を注ぐ。
そこに市販の割り下を軽めに入れ、春菊、焼き豆腐、肉厚のあるシイタケを入れた。
「割り下は自分で作ってもいいんだが、市販の物でも十分美味しい物もある。
割り下は少し熟成させた方がまろやかだしね?」
「白滝はまだ入れないの?」
花音が言った。
「すき焼きの味を左右するのはね、実は白滝なんだ。
白滝はその製造過程で石灰を多く入れるから石灰の匂いが残るし、水分も多いから味も薄くなってしまう。
だから白滝は十分に水洗いをして石灰臭さを落とし、それを下茹ですることで余分な水分を抜いて置くんだ」
私は花音と梢の溶き卵の中に肉を入れた。
「食べてご覧」
箸をつける花音と梢。
「おいしい! お口の中でお肉がとろけちゃう!」
「ちょっとお砂糖を入れ過ぎなんじゃないかと思ったけど、丁度いいわね?」
「生卵で味に丸みが出るからね? 少し味は濃い目の方がいいんだよ。
それに日本酒が入るから、肉も柔らかくなるしね?
それから白滝はこっちに置く」
私は肉を鍋の外側に寄せ、その対角線上に白滝を置いた。
「白滝はお肉と離すのよね?」
「そうだ、白滝の石灰分は肉を黒く変色させ、肉のタンパク質を硬くしてしまうからね」
私は割り下をさらに加え、肉を足した。
「こうしてすき焼きを食べるなんて久しぶりだね?」
「いつもはママと吉野家の「牛丼」だもんね?」
「いいものよね? こうしてみんなですき焼きを食べるのって。
私たち、何だか本当の家族みたい。
私とジュンが夫婦で花音が私たちの娘。アハハハハ」
「ありがとう有村さん。とっても美味しいよ。
御飯、お替りしちゃおうかな?」
「あはははは」
小さな食卓に笑顔の花が咲いた。
「ウーッ、ワン!」
「ごめんごめん、ベルちゃんの肉はここにあるからね?」
私は湯引きしておいた肉をベルの餌箱に入れてあげた。
「良かったね? ベル、お肉おいしい?」
ベルは夢中で肉を食べ、あっという間にそれを平らげると、私の足に前足をトントンさせ、肉のお替りを
以前、テレビのポン酢のCMで明石家さんまがこんな歌を歌っていた。
しあわせって なんだっけ? なんだっけ?
だがそこにはやさしいメッセージが込められていた。
家族のしあわせとは、こうして家族みんなで鍋を囲んで食事をすることなんだと。
そんなささやかなことが家族の幸福なのだ。
私は今、それを実感していた。
私が失った物はこれだったのだ。
食事が終わり、後片付けをしようとすると、
「有村さん、お風呂、先にどうぞ。
私とママは長風呂だから。
洗い物は私がやるから大丈夫だよ」
「すまないね?」
「ううん、全然平気。
今度はしゃぶしゃぶを作ってよ」
「いいけどしゃぶしゃぶは外で食べた方がいいな?」
「どうして?」
「洗い物が多くなるからね? それにしゃぶしゃぶは食べ放題の店でも安くて旨い店も多い。
それにしゃぶしゃぶはタレが美味いと肉はそれほど気にならないものだ。
肉は向こうが透けて見えるくらいに薄く切られているしね?」
「そうかあ」
「今度、ママと花音ちゃんが休みの日にでもしゃぶしゃぶを食べに出掛けようか?
彼氏君も一緒に。ごちそうするよ」
「やったー!」
その光景を目を細めて見ている梢がいた。
花音が風邪をひいてしまい、大学も店も休んだ。
私は花音の部屋の外から声を掛けた。
「花音ちゃん、具合はどう? 熱はまだある?」
「薬を飲んだから熱は少し下がったみたい・・・」
「そうか? 何か食べたい物はある?」
「うどんとアイス」
「アイスは何がいい?」
「チョコミント」
「わかった、買って来てあげるからちょっと待ってて」
「いいよ、もう夜だし」
「大丈夫だよ、コンビニはすぐ近くだから俺でも行けるから」
「ごめんね、有村さん・・・」
「じゃあ、行って来るよ」
私はコンビニに歩いて行き、チョコミント・アイスと讃岐うどんを買った。
冷蔵庫に富山名物の蒲鉾とトロロ昆布があったのでそこに三つ葉とネギ、そして体力がつくようにとニンニクを少し入れた。
「花音ちゃん、うどんを作って来たから入るよ」
「はーい」
私はお盆にうどんとアイスを乗せ、花音のベッドまで運んだ。
「おいしそうー」
「少し出汁を利かせて醤油は控え目にしたんだ。
ニンニクも少し入れておいた、スタミナがつくようにね?
ごめんね、花音ちゃんの好きな海老天がなくて」
「ううん、十分おいしそうだよ。
ありがとう有村さん、いただきまーす」
花音は両手を合わせ、レンゲでうどんの出汁を啜った。
「あー、おいしいー、カラダが温ったまるうー。
有村さんは何でも出来るんだね? ママよりも上手だよ」
「ママには敵わないよ」
「あんなに楽しそうなママ、ずっと見たことなかった。
有村さんのお陰だよ」
花音はうどんを二本、箸で掬って食べた。
「ママがここに連れて来る男はみんなサイテーの男でさあ。
働かないし浮気はするし、パチンコばっかりしていいのは顔だけ。
私にまで手を出そうとするしさあ。
ママ、いつも泣いてた」
「大変だったんだね?」
「私よりママがね?」
花音はウドンを完食した。
「さてと、ではアイスをいただこうかな?
おっ、いい具合にチョコミントが溶けてる溶けてるー。
あれ? 有村さんは食べないの? チョコミント?」
「俺はラムレーズンにしたんだ、チョコミントはちょっと苦手だから」
「あはははは、オジサンだなあ、有村さんは。
美味しいんだよ、チョコミント」
「何だかミントガムを噛みながらアイスを食べてるみたいでね?」
「あはは ママも同じこと言ってた」
「でも良かった、食べられるようになって。
じゃあ、後で下げに来るからゆっくり食べてね?」
「ねえ、有村さん」
「んっ、どうした?」
「有村さんのこと、パパって呼んでもいい?」
「・・・いいよ」
「ありがとう、パパって呼ぶの、夢だったんだ。
パパ、ずっとこの家に居てね?」
「ありがとう、花音」
私は思わず花音を呼び捨てにしてしまった。
私は泣きそうになり、そのまま花音の部屋を出た。
翌朝、風邪も良くなった花音は大学に出掛けるため、二階から降りて来た。
「それじゃあ行ってくるね? パパ、ママ」
「ああ、気を付けて行くんだよ、花音」
「具合が悪くなったらすぐに帰って来るのよ」
「うんわかった。行ってきまーす」
照れ臭そうに花音は玄関を出て行った。
「いま花音、ジュンのことパパって呼んだよね?」
「ゆうべ、花音から「パパって呼んでもいいですか?」って言われたんだ。だから「いいよ」って言ったんだ」
「そうだったの・・・」
梢は目を潤ませているようだった。
梢の手が瞼を拭っていたからだ。
「ジュン、ずっとここにいて・・・」
「花音からもそう言われたよ。
ありがとう、梢。珈琲でも淹れようか?」
「いいよ私が淹れてあげる。愛情たっぷりのおいしいコーヒーを」
第9話
最近、背中の痛みも強くなって来た。
心臓が悪くなると心臓自体にではなく、その周辺部位に痛みが現れると聞く。
そして心臓に激しい痛みを感じた時、その時が私の人生が終わる時だ。
だがその前に目が見えなくなってしまうかもしれない。
日中はレイバンのサングラスを手放すことが出来なくなっていた。
目の障害もかなり進んでしまっていた。
先日は眼底出血も発症し、執筆もペースダウンしていた。
焦る毎日である。
朝の掃除を終え、パソコンで小説を書いていると、梢が二階からパジャマにフリースを着て降りて来た。
「おはようー、寒いわね?」
「珈琲でも淹れようか?」
「いいよ、お仕事中でしょう? 自分でやるから大丈夫。
なんだか夢見て疲れちゃった」
私はキーボードを叩きながら気のない返事をした。
「どんな夢?」
「ジュンがこの家からいなくなる夢。
そして家の中を花音と泣きながら探し回っているとね? それをマリが見て笑っているの。「あの人はそういう人だから」って。
でも夢で良かった」
「それはすまなかったな? 俺を探してくれて」
梢はコーヒーメーカーにコーヒー豆をセットし、自分のカップと私のカップを用意した。
私のカップは先日、花音が私にプレゼントしてくれた物だった。
「パパのコーヒーカップ、買って来たんだ。
この前、看病してくれたからそのお礼」
それはスターバックスの珈琲カップだった。
「ありがとう花音、スタバのカップなんて随分おしゃれだね?
大切に使わせてもらうよ」
「いつもこのカップで飲んでね?」
「ほうじ茶もコーラも、みんなこれで飲ませてもらうよ」
私はカップの包装を解き、そのカップを両手で愛おしく包み込んだ。
「素敵なカップをありがとう、凄く気に入ったよ」
泣きそうだった。
まるで父の日に初めて娘からプレゼントをもらった気分だった。
「あはは、そのカップはコーヒーを入れるカップだよパパ」
花音はあの日以来、よく私を「パパ」と連呼するようになっていた。
彼女にとって父親は、失くしたもう片方のピアスなのかもしれない。
「花音のプレゼントだから、なんでもこれで飲みたいんだよ」
花音はうれしそうに笑った。
私はいつもソファーテーブルの上でパソコンを開き、ソファーを背凭れにして原稿を打っていた。
梢が零さぬようにと静かに珈琲をテーブルに置いた。
「ありがとう」
「どんな小説を書いているの?」
梢は片手でカップを持ってそれを啜りながらディスプレイを覗き込んだ。
「北陸の小さな漁港で食堂をやっている、バツイチの中年オヤジと、そこにやって来たワケアリの若い女との、ああでもない、こうでもないという、そんなどうでもいい話だ」
「書いてる本人が自分の小説を「どうでもいい話」なんて言っちゃダメじゃないの」
「アハハ、それもそうだな?」
「完成したら私にも読ませてね?」
「いいけど梢にはつまらない小説だと思うよ。身勝手な男が主人公の話だから」
「どんなタイトルなの?」
「まだ決めていない」
「主人公の店主はジュンね?」
「さあ、どうだろう?」
「プロットとかも作るんでしょう?」
「俺は作らないんだ、ただ思いつくままに書いてしまう。
まず主人公を含めた登場人物の名前が浮かぶ。
するとそのキャラクターたちが勝手に喋り、動き出す。
俺はそれをただ書き写すだけなんだ。
プロットを作ると、なんだかリアリティが無くなる気がしてね?
工場で作る冷凍食品みたいで嫌なんだよ。
結末のわかっている小説を書いていてもつまらないからな?
俺も自分の小説の読者のひとりだから、自分で書いていて感心することもあるんだ。
「へえー、そういう展開になるんだあ」ってね?
自分がワクワクしたり、ドキドキしたりしない小説は、誰も買ってはくれないし、読んでもくれない」
「小説ってそういう物なのね?」
「結局小説家なんて、売れなければただの「オナニー小説家」だよ」
「何それ?」
「自分だけ満足していい気になっているって話だよ」
「それはわかっているわよ、でもね? 私は自分がいいと思える小説なら、たとえ売れなくても立派なジュンの作品だと思う。
たとえそれが1000人に1人の評価だとしても」
私は原稿を保存し、パソコンを閉じた。
「そろそろお昼だね? 今日は外で食べないか?
おすすめの定食屋とかはある?」
「あるわよ、すごく美味しい食堂があるんだけど行ってみる?
ジュンの今書いている小説の参考になるかどうかはわからないけど」
「別にならなくてもいいよ、メシが旨いならそれで。
それならクルマじゃなくて、タクシーで行こう」
「どうして?」
「だって梢も飲みたいだろう? 定食屋のビール」
「定食屋さんじゃなくても、いつでも飲みたいけどねー」
「俺もだ」
私たちは笑った。
お昼は混むということなので、少し時間をずらすため、私と梢は「世界一美しいスターバックス」と誉れの高い、富山環水公園にあるスターバックスで時間を潰すことにした。
オーダーカウンターでメニューを見ながら梢が私に訊いた。
「ジュンは何がいいの?」
「ダークモカチップクリームフラペチーノ」
「これね? なんだか名前が長くて舌を噛んじゃいそう」
店員さんが笑っている。
「じゃあ、それ1つと、私は・・・、エスプレッソアフォガードフラペチーノを頂戴」
「かしこまりました」
この手のテイクアウトの店は苦手だった。
目が見え難い私は、躓いて人にぶつかったり、飲み物などを床に落とす心配もあるからだ。
そして私の場合、外見からは目が悪いようには見えない。
梢がいてくれて助かった。
私はカードを出して支払いを済ませると、窓際の席に向かって歩いて行った。
「いい眺めでしょう? ここのスタバは「世界で一番美しいスタバ」って言われているのよ」
梢は私にフラペチーノを手渡ししてくれた。
「一度、来てみたいと思っていたんだ。このスターバックスに。
でもメニューは見えないし、虫メガネを出すのもちょっとね?
梢が一緒にいてくれて、本当に助かったよ」
「大丈夫よ、私がジュンの目になってあげるから。
オムツ替えだってしてあげるから安心して富山にいてね?」
そう言って梢は笑っていた。
「でもよくそのフラペチーノを覚えていたわね?」
「前にラジオ番組でパーソナリティーの女性が言っていたんだ、それが耳に残っていてね?
ダーク、モカチップ、クリーム、フラペチーノって、分割してひとつひとつをイメージして記憶していたんだ。
やっと飲むことが出来たよ、ありがとう梢」
梢がストローでそれを飲みながら、溜息を吐いた。
「もう、秋も終わりなのねー。
歳を取ると時間がどんどん早く感じるわ」
「もうすぐあの、北陸の長い冬が始まるんだな?」
店を出て、少し公園内を梢と散策した。
私は事前にダウンロードしておいた、イブモンタンの『枯葉』をスマホで聴くことにした。
片方のイヤホンを梢に勧めた。
「秋にピッタリの曲なんだ、聴いてごらんよ」
私たちは片方ずつのイヤホンで『枯葉』を聴いた。
木々の味気ないモノクロームの景色が、次々と鮮やかな紅葉へと変化してゆく。
梢が私の手を握った。
「ジュンが転ぶといけないから、こうしていてあげるね?」
梢の手はとても冷たかった。
私は繋いだその手を、私のコートのポケットの中に入れた。
「ありがとう梢」
「ジュンのポッケの中、あったかい。
私がずっとあなたを守ってあげる」
梢の手が私の手を強く握った。
おそらく私の人生も、この落葉のように冬を越すことはないだろう。
私は梢のやさしさに触れ、そう感じた。
なぜなら、いいことはあまり長くは続かないことを私はよく知っていたからだ。
定食屋に着くと、もう13時半を過ぎているというのに数人のお客がまだ外に並んでいた。
「人気がある食堂なんだね? まだこんなに並んでいるよ」
「いつも11時からやっているんだけど、それでも20人近くはいつも並んでいるのよ」
店内に入いることが出来たのは、14時を過ぎた頃だった。
「ここのお勧めは?」
「何でもおいしいよ、お肉でもお魚でもみんな」
「ブリの刺身はある?」
「あるみたいよ、「氷見の寒ブリ」って書いてある」
「じゃあ俺はそれで」
「私はアジフライにしようかなー? ビールにもよく合うし」
私たちはお互いの料理をシェアしてビールを飲んだ。
「おかずがなくなっちゃうね?」
「本当にここはいい店だね? 追加でカキフライも頼んでくれるかな?」
「ここのカキフライも絶品だよ。じゃあ、私は「今日のお刺身盛り」にしようかしら?
それから生ビールのお替りも」
うれしそうにビールを飲む梢を見ていると、心が揺らいだ。
(梢に私は何をしてあげることが出来るだろう? もう別れは近いというのに・・・)
運ばれて来たカキフライにタルタルソースをつけながら、梢が言った。
「来週の火曜日、マリの納骨なんですって、一緒に行くわよね?」
「ああ、悪いな?」
「気にしないで、麻里子は私の親友でもあるんだから」
梢は残ったビールを飲み干した。
納骨式の火曜日は朝から小雨が降っていた。
住職の読経の中、麻里子の遺骨が冷たい墓石の下に収められてゆく。
周囲からはすすり泣く声が聞こえた。
墓に供える線香の束に、中々ライターの火が点かない。
私が傘を置いて再度、火を点けようとすると、純子が私を自分の傘の中に入れてくれた。
「御線香、中々火が点きませんね?」
「ありがとうございます、でもそれでは純子さんが濡れてしまう」
「私は大丈夫です、母の為に御線香を点けてあげて下さい」
「すみません」
ようやく線香に火が点き、それを手で消して墓に供えた。
雨の中を線香の煙がゆったりと流れて行く。
再びみんなが手を合わせた。
麻里子との思い出が、後から後から蘇って来る。
それはみんな、麻里子が笑っているものばかりだった。
私は自分が泣いていることを悟られないように、傘を斜めに深く差した。
(マリ、俺も間もなくそっちに行くよ)
心の中でそう呟いた。
その日は一日、さめざめと泣く、女の涙のような雨が降っていた。
第10話
放課後、母の好きだったフリージアの花と、苺大福をお供えするためにお墓にやって来ると、お墓にはすでに新しい黄色のフリージアの花が供えられ、御線香が焚かれた跡が残っていた。
「ママ、有村さんが来てくれたのね?
昔、捨てた女のところによく来るよね? 納骨の時にはいい歳して泣いているし、本当にヘンなオジサン。
私もママの好きだったフリージアのお花と苺大福、買って来たから一緒に食べようね?」
私はフリージアと苺大福を1つ供えて御線香を焚き、手を合わせた。
「有村さん、ずっとママのことが好きだったんだね?
だったら浮気なんかしなければよかったの。
でもそうなると私は産まれてはいないのかあ」
私はそう言って自嘲した。
それから三日後、お墓の前で手を合わせている有村さんを見掛けた。
晩秋の午後、お日様は早くも傾き始めていた。
私はこんなに哀しそうな男の人の横顔を見たことがなかった。
有村さんが墓参りを終え、立ち上がると私に気付いた。
有村さんが私に軽く会釈をして通り過ぎようとした時、私は思わず声を掛けた。
「いつも母のお墓参りをしていただいて、ありがとうございます。
先日のフリージアのお花も有村さんですよね?」
「お母さんの好きだった花ですから」
「少し待っていて下さい、送って行きますから」
「よろしいんですか? ありがとうございます」
クルマを運転しながら、私は有村さんに尋ねた。
「どうして毎日、母のお墓参りをして下さるんですか?」
「お母さんの死が、まだ私には受け入れることが出来ないからです」
「母のこと、本当に好きだったんですね?」
「でも、あなたのお母さんを裏切ってしまいました。
私とお母さんは結婚するつもりでした」
「母は祖母には有村さんのことを懐かしそうに話していたようですが、私にはあなたを驚かせようと、連絡もせずに横浜の有村さんのマンションに行ったら、他の女性と一緒だったとしか話してはくれませんでした。
でもそれは私が父の子供だったから、別れた恋人を良く言うのは私に気兼ねしたからなのかもしれません」
「・・・」
「有村さん、少しお茶して行きませんか?
母の若い頃のお話を聞かせて下さい」
「わかりました」
私は以前、母がよく連れて来てくれた、『ピカソ』という喫茶店に有村さんを誘った。
「ここなんですけど、素敵なお店でしょう?
すごく珈琲の美味しいお店なんですよ」
その店を見て、有村さんの足が止まった。
「ここが、『ピカソ』がまだ残っていたんですね?」
「有村さんも知っているんですか? 『ピカソ』を?
このお店、ずっと母のお気に入りだったんです。
珈琲を飲む時はいつもここでした」
「富山に住んでいた時、お母さんとここでよくお茶をしました。
良かった、まだ残っていてくれて」
「寒いから中に入りましょうか?」
「そうですね」
懐かしそうに店内を見渡す有村さん。
「何にします?」
私が有村さんにメニューを渡そうとすると、
「ウインナーコーヒーはありますか?」
その時私は有村さんの目が不自由だったことを思い出し、慌ててメニューを引き戻した。
「ごめんなさい、有村さんは目が悪いんでしたよね?
ウインナーコーヒーはたぶんあると思います。
ここに来るといつも母はそれを頼んでいましたから」
「そうですか? ではトマトジュースは?」
「それもあるようです」
「それじゃあそれを両方お願いします、ウインナーコーヒーはお母さんのために」
「今日は寒いから私はミルクココアにしようかな?
まだここでは飲んだことがないので」
「珈琲の美味しい店はココアもおいしいはずですからね?」
飲み物が運ばれて来た時、私は有村さんの隣にウインナーコーヒーをそっと置いた。
母と有村さんを並んで座らせてあげたかったからだ。
「ホイップクリームが乗っているんですよね?」
「お母さんはそれを崩さないようにと慎重に召し上がっていました」
「有村さんは珈琲はお嫌いなんですか?」
「今は好きですが、あの頃はどうも苦手で。いつも私はトマトジュースでした。
今日は昔と同じ物にしてみました。
連れて来ていただいて、本当にありがとうございました」
「有村さんは母とどこで知り合ったのですか?」
「同じ大学の映画サークルです。
お付き合いさせてもらったのは大学2年の時でした」
「じゃあ、花音のママとも一緒だったんですか?」
「そうです」
「三角関係だったりして?」
私は少し意地悪な質問をしたが、有村さんは静かに笑って、
「いいえ、花音さんのお母さんには当時、付き合っていた彼氏さんがいましたから。
よくダブルデートをしたものです」
「先日有村さんとおばさんがウチに来た時、私、気付きました。
たぶん、花音ママは有村さんのことが好きなんだと」
「私はもう爺さんで、しかも体が不自由です。
梢さんの恋愛対象にはなれませんよ。ははははは」
「有村さんは梢さんのこと、どう思っているんですか?」
「お母さんの親友だと思っています」
「それだけですか?」
「居候させていただいていますから、大家さんでもありますね?」
「最近の花音、とてもウキウキしているんです。「家族ごっこしてるんだよ」って喜んでいました」
「家族というより、私は梢さんの兄、つまり叔父さんのようなものでしょうけどね?
でもあの親子にはとても良くしていただいています」
有村さんは話題を変えようと、トマトジュースを飲んだ。
「ストローは使わないんですか?」
「ストローは女性のためにあるものだと思っているんです。
口紅がグラスにつかないようにと。
飲み物はそのまま飲んだ方がおいしく感じませんか?」
母がなんでこの人を好きになったのか、わかるような気がした。
「私の父のことは訊かないんですか?」
「聞けば嫉妬してしまいますからね?」
「浮気した有村さんもどうかとは思いますが、私の父よりはまだマシです。
お葬式にも来なかった、サイテーの人ですから」
「それでもお母さんが愛した人ですからね?
そうしなければならない事情があったのかもしれません」
「そんなの何もないですよ、人間としてのやさしさがないんです、あの人には」
私は母が好きだったウインナーコーヒーを飲んでみた。
母はここに来ると、なぜいつも決まってウインナーコーヒーを頼んでいたのか?
それは有村さんとの思い出の珈琲だったからだと私は知った。
上唇に少しクリームが付いたようで、私は紙ナプキンでそれを拭き取った。
「これ、美味しいですよね? 初めて飲みました」
その時突然、有村さんが天井を見上げた。
それは涙を零さないようにと咄嗟に取った行動だった。
「どうかしましたか?」
「すみません、あまりにも昔の麻里子、失礼、お母さんにあなたが似ていたもので・・・」
「私たち、よく姉妹に間違えられるんですよ」
「そうでしょうね?
純子さんは大学は文学部だそうですね?」
有村さんはハンカチで目頭を押さえながら話題を変えようとした。
「編集者になるのが夢なんです、純文学の」
「それは素晴らしいことですね? 純文学は今、化石のような扱いをされていますから。
ミステリーや異世界物、ラノベが主体になってしまいました」
「そうなんですよ、純文学にはあまり人気はありませんからね?
有村さんはどんな小説を書いているんですか?」
「実は私も純文学を書いています。昭和のムード歌謡のような小説ですが。
だから読者も限られています。
限られてはいますが、私の読者さんは心のやさしい方ばかりです、それが励みにもなっています。
あまり売れませんけどね?
もう歳ですし目も悪いので、よく時制を間違えたり、登場人物の名前が間違っていたり、言い回しの表現がおかしかったりもして、いつも編集さんや校閲の人たちにご迷惑をかけています。
それでも売れないということは、自分の書く作品が社会から必要とされていないからなのかもしれません。売れなければ書く意味はありません、紙の無駄使いです。
自然破壊ですよね? あはははは」
「今度、読ませて下さい。
ペンネームは何ですか?」
「もう忘れました、歳なので」
「ケチ」
私は笑った。
そして有村さんも笑った。
「有村さん、母の好きだったウインナーコーヒー珈琲、飲んでみませんか?」
「いいんですか?」
「もちろんです」
クリームがすっかり溶けてしまったウインナーコーヒーを、有村さんは大事そうに飲んだ。
「あの頃と同じ味ですか?」
「ちょっと違うような気がします。
35年の時が珈琲の味を変えてしまったのか、それとも自分の味覚が変わったのかもしれません」
「おそらくその両方ですよ、たぶん」
私は有村さんからそのカップを受け取り、すっかり温くなってしまったそれを飲んだ。
それは母に代わっての意図的な間接キスだった。
「温くなっちゃいましたね?
私と母、そして有村さん。私たちも家族みたいですね? お父さん?」
有村さんが嬉しそうに微笑み、また泣いた。
この人はいつも泣いてばかりいる。
この人はずっとママを本当に愛していたんだと、私も胸が熱くなった。
(ママ、良かったね? 愛したひとがこの「泣き虫オジサン」さんで)
有村さんの隣で母が笑っている気がした。
「純子、いい人でしょう? 有村君って?」
(そうだね? ママがずっと愛した人だから)
いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。
第11話
右眼の網膜剥離を抑えるため、佐藤准教授に網膜の70%近くを入念にレーザーで焼いてもらっていた。
それは眼科医にとって緻密な点描画を描くようなもので、高い技術と集中力を必要とした。
レーザー照射のほんのちょっとしたミスで、失明を招く危険もあるからだ。
初期の段階であれば数回の照射で痛みもないが、私のように一度に数百発のレーザーを当てる場合には脂汗が出るほどの痛みを伴う。
そして照射が終わるとまるでピンクのサングラスを掛けたように、周りがすべて薔薇色に見えるのだから皮肉なものだ。
失明の恐怖に怯える私に、人生がバラ色に見えることの矛盾。
当初は両目を手術する予定だったが、左目を手術してみると網膜の状態がかなり脆弱になっていることが判明し、右眼は「ラスト・アイ」ということもあり、ギリギリまで温存することになった。
最初の手術で左目の硝子体を生理食塩水に置換したが改善せず、激しい頭痛と吐き気にみまわれたので、今度はそれをシリコンオイルに交換する手術を受けた。
信じられないかもしれないが、眼球自体の手術は局部麻酔で行う。
それを椅子に座ったまま行うので、まるで歯の治療のようだった。
つまり手術がどういう状態で行われているのかが、患者である私にも分かり、会話も出来るのだ。
執刀医の好みの音楽をかけて、最初の手術は4時間半を要した。
目の手術としてはかなり異例なことだろう。
手術が予定よりも長時間に及んだため、麻酔が少し切れ始めて来たので私は佐藤医師にそれを伝えた。
「先生、麻酔が切れて来たようですけど」
「わかりました」
麻酔が追加された。
珍しいオペだったので、見習いの看護師や研修医たちも見学に訪れていた。
経験を積ませないとスタッフのスキルが上がらない。
(いくらでも俺の体を練習台に使ってくれ)
と、私は思った。
手術の準備が行われていた時、
「有村さん、抗生物質を入れますからね?」
という若いナースの声が聞こえ、右腕に点滴針を刺そうとするが中々うまく刺せず、苦労しているようだった。
ようやく点滴針を刺すことが出来たようだが、その若い看護師はスタスタと無言で出て行ってしまい、その後、手術室に戻って来ることはなかった。
どうやら何かミスを犯し、パニックになって逃げて行ったようだった。
すると右腕全体に冷たい液が広がっていくのを感じた。
「すみません、点滴液が漏れている気がするんですが?」
「あれ? ホントだ、点滴が漏れているなあ? あのナース、どこに行っちゃったんだろう?」
という、まるでコントみたいなハプニングもあった。
初めての目の手術という緊張で、私の血圧はかなり上昇してしまい、助手の医師が佐藤医師にそれを伝えた。
「先生、血圧が220です、筋弛緩剤を入れますか?」
「そうだね? 頼むよ」
オペをしながら佐藤医師はそれを許可した。
(なるほど、これが筋弛緩剤なのか?)
意識がふわーっとなり、体が急にラクになった。
致死量になるとこのまま眠るように死ねるのだろうか?
呼吸困難になると聞いたこともあるが、どうなのだろう?
いずれにせよ、これを自殺に利用するのは困難だ。
医療関係者による嘱託殺人でも依頼しない限りは。
私はその光景を想像して少し口元が綻んだ。
シリコンオイルを入れたことで頭痛と吐き気は収まったが、網膜を安定させるための一週間の24時間うつ伏せ寝は拷問だった。
佐藤医師はそんな私のために休日を返上し、包帯まで自分で交換して励ましてくれた。
そして遂に包帯が取れる日がやって来た。
それは曇りガラスで見るような世界だった。
それから3カ月後、私の左目は完全に光を失った。
ここのところ集中して原稿を書いていたせいか、少し見え方が暗くなって来た気がした。
心臓も気になるが、目が見えなくなってしまった場合、おそらく私はその事実を受け入れることは出来ないだろう。
私は小説を書くことでしか、生きる希望が持てなかったからだ。
小説を書くことが私の生き甲斐だった。
視力がなくなるくらいならいっそ・・・。
私が富山に来た本当の目的は、麻里子との思い出の場所を辿り、ここで自らの命を絶つことだった。
私はすでに生きることに絶望していた。
この富山で、麻里子との思い出の地で、私は死ぬつもりだったのだ。
だがそれはいつの間にか忘れてしまった。
死にたくない
梢、花音、純子、麻里子のお母さんたちとの出会い、麻里子との止まった時間が私をそういう気持ちから遠ざけ、「生きたい」と願うようになっていた。
所詮、私はただの弱い人間だったのだ。
その頃、花音は彼氏の竜司との行為を終え、別れ話の最中だった。
「ねえ竜司、私たち、もう今日で終わりにしようよ」
「なんだよ、いきなり!」
「私と付き合っていると、竜司がダメになるからだよ」
「それってどういう意味だよ?」
「竜司は私に甘えてばかりだもん、竜司は私といるとラクチンでしょう?
なんでも私がしてあげちゃうから。お金もそう。
それがあなたをダメにするのよ」
「他に好きな奴でも出来たのか!」
花音の頭に一瞬、有村の顔が浮かんだ。
「いないよ、今は」
「俺は絶対に別れないからな! 俺には花音が必要なんだよ!」
「そういうところなんだよ、 竜司のダメなところって。
女から別れ話を言われたら、「そうか」、で終わりにするのが男でしょ?」
そう言って、シャワーを浴びた花音はショーツを履き、ブラのホックを留めた。
するといきなり竜司が花音に抱き着いて来た。
「やめてよ! もうそんな気になれないんだってばあっ!」
「俺には花音が必要なんだ! 絶対に諦めねえからな! 花音は誰にも渡さねえ!」
「いいかげんにして! 本当にイヤなんだってばあ!」
「絶対に諦めねえぞ! 俺は別れねえからな!」
花音は有村と暮らしているうちに、竜司が物足りなく感じるようになっていた。
(どうしてこんなお子ちゃまみたいな子と付き合っていたんだろう?)
花音はいつの間にかそう考えるようになっていた。
有村といると、とてもやさしい穏やかな気持ちでいられる自分が不思議だった。
(もしかしてファザコンなの? 私)
花音は大人の男の包容力に心地良さを感じていた。
午前零時になり、スナック『鈴蘭』の営業が終わろうとしていた。
「山ちゃん、今日はどうもありがとう。
また、来週も待ってるからね?」
「ママ、週末には会社の飲み会があるから、ウチの課の仲良し5人組でまた来るからよろしくー。
おやすみママ、花音ちゃーん」
「はーい、待ってまーす!」
「おやすみなさい、気を付けて帰ってねー」
常連さんの山崎さんを送り出し、梢と花音は置き看板を店の中に入れ、表の看板の灯りを消した。
「花音、お疲れー。
さあ、さっさと片付けてパパと味噌ラーメンを食べて帰ろうね?」
「うん、寒い夜にはやっぱり味噌だよね?」
「冷たいビールにあったかい味噌ラーメン。
そうだ、餃子も付つけないと」
「いいねー、じゃあママ、早く片付けちゃおうよ」
「お店の方はお願いね? ママは洗い物をやるから」
「はーい」
その時、店のドアが開いた。
「すみません、今日はもう閉店なん・・・」
花音が振り返ると、そこに竜司が立っていた。
「花音、なんで着拒にすんだよ! 俺は別れねえって言っただろう!」
「もうしつこいなあ! 竜司とはもう会わないって言ったでしょ!」
「俺は別れねえぞ!」
「ちょっとアンタ、ウチの娘に何してくれてんのよ!
そんなんだから愛想尽かされんでしょ! 男なら
「うるせえ! ババアは黙ってろ!」
「もう、帰って!」
竜司はポケットからナイフを取り出して見せた。
「どうしても別れるって言うのなら、お前らを殺して俺も死んでやる!」
カラン
ドアが開き、そこへ有村がやって来た。
有村はナイフを持った竜司を一瞥すると、
「さあ帰ろうか? 早くしないと味噌ラーメンが延びちゃうぞ」
有村はそう静かに言った。
「何だテメエは!」
「花音の父親だよ、君は誰だね? そんな物騒な物を持って、穏やかじゃないなあ?」
「うるせえ! すっこんでろ! クソジジイ!」
「そうはいかないよ、私は大切な家族を迎えに来たんだから」
「お前も一緒に殺されてえのか? コラッ!」
竜司はナイフを左手に持ち替えると、右手で有村の左頬を一発殴った。
有村の言葉遣いが変わった。
「酷えなあ、いきなり殴るなんて。
殴らないでそれで刺せばよかったのによお」
竜司がナイフを右手に握り締めた。
「あんちゃん? それで刺すつもりか?
それじゃお前、自分の手を切るぜ。
お前、人を刺したことがねえだろう?
ねえよなあ? ブルブル震えてやがるもんなあ? 生まれたての子鹿みてえに?
教えてやろうか? 本当のナイフの使い方を? まず刃を上向きにする。
そしてナイフの柄は手で持っちゃダメだ、軽く添えるだけ。
お前みたいな持ち方じゃあ、刺した時の反動と血糊で手が滑り、自分の手を切っちまう。
ナイフの柄は腰骨に当てて、そのまま体ごとぶつかるんだ。
ほら、ここが心臓だ、ここを狙え、ほらココだよ」
有村は丁度そこが心臓に来るように、ステッキを捨てて体を屈めた。
「しくじるなよ、しくじったら今度は俺がお前を殺す。確実にな?」
消し忘れた有線放送から、柏原芳恵の『春なのに』が流れていた。
「どうした? ただのハッタリか? ほら、やれよ早く」
竜司は震えていた。
有村はゆっくりと立ち上がり、竜司に近づいて行った。
「あんちゃん、そんなに花音のことが好きなら、花音の方から惚れられるような男になって出直して来い。
女に付き纏うようなゲスな男にはなるな。
折角のイケメンが台無しじゃねえか?
こんなことをして、自分の人生を無駄にするな。
お前の人生はこれからじゃねえか?」
「ううううう、ああー!」
竜司は泣き出してしまった。
「このナイフは俺が記念に貰っておくからな? 林檎を剥くのには丁度良さそうだ」
竜司は黙ってナイフを有村に差し出した。
「これから俺たち、ラーメンを食いに行くんだけど、お前も一緒に来るか?」
「いえ、どうもすみませんでした」
「二度とこんなくだらねえことはするなよ」
「はい・・・」
竜司は背中を丸めて店を出て行った。
有村はいつもの穏やかな有村に戻っていた。
「さあ、味噌ラーメンを食べに行こうか?」
「ジュン!」
「パパーッ!」
梢と花音は緊張が解けたのか、有村に抱き付いて泣いた。ふたりとも震えていた。
「花音、ジャニーズみたいなイケメン君じゃないか? まだガキだけどな?
いい勉強になったな? 恋愛する相手はちゃんと選ばないと。
花音は頭もいいし、ママに似て美人でやさしい子だ。だから花音に甘える男はダメになる。
簡単な男選びの方法を教えてあげるよ。
そいつがいい男かどうかは、まずそいつの母親を見ることだ。
その母親がそいつの正体だからだ。
それから胸板の薄い奴も駄目だ、残忍な奴が多い。
そして一度は泥酔させてみることだ、本性が出るからな? 酒乱の男は意外に多いもんだ。
特に父親が酒乱の場合はその傾向が強くなる。
クルマの運転が荒かったり、ヘタなやつも駄目だ。
そいつの付き合っている友だちも・・・」
「いいよ、その時はパパとママに紹介するから。
そして「アイツはダメだ」って言われたら諦めるよ」
「それが一番だ。あはははは」
「さあ、早く片付けて味噌ラーメン、食べに行きましょう!」
「うん!」
そのラーメン屋は北海道の有名な味噌ラーメン屋の暖簾分けの店だった。
「大将、生3つと餃子3枚、あと味噌3つね」
「うちは味噌しかねえよ、味噌ラーメン屋だからよお」
「あははは、それもそうだね?」
「ママ、私はバター追加で」
「俺はビールだけでいい」
「どうして?」
「さっき殴られて口が切れたんだ」
「大丈夫? パパ?」
「大丈夫だ、あんなへなちょこパンチ、俺には効かないよ」
「ごめんなさい、私のせいで・・・」
「何も花音が謝ることはない、別れを決めた花音は偉い。
あんな男と結婚しなくて良かったな?」
「でもびっくりしちゃった、いつのも穏やかなジュンじゃないんだもん。
高倉健さんみたいだったよ、しびれちゃった」
そう言って梢はタバコに火を点けた。
「さっきのパパ、すごくカッコ良かったよ。
私、パパみたいな人と結婚したい!」
「それは一番ダメな選択だな?
俺みたいな男がいちばん結婚には向いていない」
有村はタバコの煙を静かに吐いた。
「どうりでマリが惚れるわけだ」
「ナイフはただの脅しだと思ったんだ。
アイツ、目が怯えていたから。
最初から刺す気なんてなかったんだよ、そんな度胸のある奴じゃない。
少しスープ、飲んでもいいか?」
「うん、どうぞ」
「痛っ! やっぱり沁みるな? 旨いけど」
有村たちは楽しそうに笑った。
有村は花音と梢を守れたことに満足していた。
梢と花音を守るためならこの命、惜しくはない。
どうせ短い命だ。
(残り少ない時間の中で、私はこの母娘に何をしてやることが出来るのだろう?)
有村は目の前で笑いながらラーメンを啜る、梢と花音を見て、胸が締め付けられる想いだった。
(死にたくない)
深夜のラーメン屋で、有村は改めてそう思った。
第12話
ラーメン屋から帰って来ると、梢が私に風呂を勧めてくれた。
「ジュン、今日はどうもありがとう。
お風呂、お先にどうぞ」
「いつも悪いな? 居候が一番風呂で」
「パパは居候なんかじゃないよ。掃除にお洗濯、ゴハンだってパパが作ってくれる。
それにお金はいつもパパが出してくれるじゃない?
ベルのお散歩だってしてくれるし、それに今日みたいに私とママを守ってくれた。
だからパパは居候なんかじゃないよ。パパはヒーローだよ。
そうだ、今日はママと一緒にパパの背中、流してあげるよ」
「遠慮しておくよ、そんなことされたらのぼせてしまうから。
じゃあお先に風呂、もらうよ」
私はなるべく早く風呂から上がって梢たちに今日の疲れを落としてもらおうと湯舟には浸からず、シャワーのみで済ませようとしていた。
すると急に浴室のドアが開き、
「パパのお背中流してあげまーす」
「私は前の方を担当します。うふっ」
梢と花音が急に浴室に入って来た。
しかも全裸で。
「遠慮しないで、助けてもらったほんのお礼だから」
風呂場はたちまち大人3人でいっぱいになり、私は目のやり場に困ってしまった。
「いいよ、お礼だなんて」
「別に気にしなくてもいいよ、どうせパパには私とママのナイスバディはよく見えないんでしょう? 残念だなあー。触ってもいいよ。うふふ
それに私たちは家族だから恥ずかしくなんかないよ」
「そうよ、それにお互いそういう歳でもないしね?
はい、それじゃあ万歳して」
梢は私の前に立ち、花音は私の後ろについた。
ふたりはスポンジにたっぷりとボディソープをつけて、熱心に私の体を洗い始めた。
不覚にも、私のそこは硬直してしまった。
「あらあら、こんなになっちゃって。ジュンもまだ元気じゃないの?」
すると花音が身を乗り出し、私のそれをじっと見ていた。
「どれどれ? あっ、ホントだ、パパのが大きくなってる。あはははは」
梢がそこを洗おうとした。
「いいよそこは、自分で洗うから」
「いいから、いいから。介護の練習だからさ。
いつジュンに介護が必要になっても、私と花音が支えてあげるからね?
だからどこにも行っちゃイヤだよ、ずっとここに居てよね?」
「ありがとう。ふたりは浴槽に浸かるといい。風邪をひくぞ。
俺はもう上がるから」
私がシャワーで石鹸を落としていると、梢と花音がじっと私を見て言った。
「頭も洗ってあげようか?」
「いいよ、その時が来たらお願いするから」
「パパ、任せておいてね?
ママ、今度パパのシャンプーハット、買って来ようよ」
「そうね? シャンプーが目に入ると痛いしね? ジュンに似合いそう。アハハハハ」
私が持てなかった家族という幸福が今、私の目の前にあった。
そこにエロスは存在せず、おおらかな家族愛があった。
私は突然出来た妻と娘に愛されていた。
そして、その家族を私も愛していた。
浴室から聞こえる、梢と花音の楽しそうな笑い声。
私は歯を磨きながら洗面台の鏡に映る自分に問い掛けた。
(お前はこの家で最期を迎えるつもりか? そんな資格がお前にはあるのか?
お前はこの親子の親切にただ甘えているだけではないのか?)
麻里子が死んだ今、私だけが幸福になるわけにはいかない。
リビングでキーボードを打っていると、梢たちがパジャマを着てやって来た。
「パパ、これからお仕事?」
「もう少し書いたら寝るよ」
「ジュン、今日は3人で一緒に寝ようよ」
「俺の鼾がうるさくて眠れないぞ? 歯ぎしりもするし」
「大丈夫、パパの鼾は子守唄だから」
「さあ花音、和室にお布団を敷くから手伝って頂戴」
「はーい」
その夜、私を真ん中にして川の字になって眠ることになった。
「なんだか修学旅行みたいだね?」
「そうね? ちょっと歳を取った高校生がふたり、混じっているけどね?」
梢と花音が私の腕をそれぞれに抱いた。
彼女たちからトリートメントのいい香りがした。
柔らかなふたりの乳房の感触が、私の腕に伝わる。
「ジュン、今日は助けてくれて本当にありがとう。
私たちだけだったら、何をされていたかわからないわ。
考えただけでも怖い。
ジュンが居てくれて、本当に心強かった。
男の人が傍にいるって、こういう事なのね? 凄く安心する」
「今までの男はみんなロクデナシだったもんね?」
「そうね? なんだか私たち、ずっと前から家族だった気がする」
「なんだかすごくしあわせ。ママ、これが理想の家族なんだね?」
私は今、しあわせを噛み締めていた。
決してカネでは買えない、掛け替えのない家族。
たとえ血の繋がりはなくても、私たちは心で強く繋がっていた。
「ジュン、ずっとここに居てね?」
「パパがいる毎日が楽しい」
「・・・」
「あれ、もうパパ寝ちゃったの?」
「多分、狸寝入りよ。
花音も今日、大学だから早く寝なさい」
「おやすみなさい、パパ、ママ」
「おやすみ、花音」
私は嗚咽しそうになるのを必死に堪えていた。
朝、目が覚めると花音の布団はなく、既に大学へ出掛けたようだった。
私がトイレに起きようとすると、梢が布団の中から声を掛けて来た。
「ジュン、おはよう。
私のオシッコもして来て、寒くて起きたくないから」
「自分のオシッコは自分でしろよ」
「冷たいのね? ふふっ」
私がトイレから出ると、今度は梢がトイレに入った。
私はもう少し眠ろうと、再び布団に入いると、洗面所で歯を磨き、髪を整えた梢が戻って来て、私の寝ている布団の中に潜って来た。
梢が私にキスをした。
「私ね、ずっとジュンのことが好きだったの。
でも諦めていた、だってジュンはマリの物だったから」
「・・・」
「わかる? この切ない気持ち?
映画サークルの時からずっと、ジュンのことばかり見ていた。
麻里子からあなたのことが好きだと聞かされた時、頭の中が真っ白になった。
そんなの前から分かっていたことなのに。
ジュンを取るか? 友情を取るか? 悩んだわ」
「そして君は友情を取った?」
「そう、だって仕方ないでしょう? あなたはマリが好きで、マリもあなたが好きなんだから。
私がそこに割込む余地なんてなかった。
だから正確には友情を取ったんじゃなくて、私はジュンとの恋に破れたのよ。マリに負けたの」
梢はそのまま私の上に乗り、私の耳元で囁いた。
「だからお願い。一度でいい、一度でいいから私を抱いて。
そうしてくれたら私はあなたを諦められる気がする」
私は梢をやさしく抱き締めた。
それは梢への謝罪の抱擁だった。
「ずっと辛い想いをさせてごめん。
梢は今でも美しいままだ。
俺に性欲が残っていないと言えば嘘になる。
梢がそんなに俺を想っていてくれたとも知らず、すまない」
「ジュンとマリが私のバイト先だったあの店に来る度、胸が張り裂けそうだった。
私は父親の会社が倒産し、大学も辞めるしかなかった。そして本当に愛する恋人もいない。
つき合っていた彼はみんなジュンの代わりだった・・・。
神様は不公平だと思った。
私には夢も、愛する人もいないんだと。惨めだった・・・。
「どうして私だけがこんな目に遭うの?」、そう思ったこともある」
「辛い想いをしていたんだね? 何も出来なくてごめん」
「だからね? 私にも今までがんばったご褒美を頂戴。
先日、マリのお墓にお願いに行ったの。
「お願いマリ、私にジュンのことを任せて」って。
だって、ジュンのことを看取ってあげることが出来るのは私しかいないでしょう?」
「ありがとう、梢。俺は失明して、心臓がいつ止まるのかも時間の問題だ。
君たちにしてもらうことはあっても、俺が君たちにしてあげられることはたかが知れている。
それが辛い。
俺はクルマの運転も、ひとりで飲食店に入ることも出来ない。
テレビで報じられる緊急速報のテロップも読むことが出来ない。
そんな俺は君たちのお荷物なん・・・」
梢のキスが私の口を塞いだ。
「何もしてくれなくていいの。ジュンはただ私たちの傍に居てくれるだけでいい。
私たちはあなたにしてもらいたいんじゃなくて、あなたにしてあげたいの。
それがしあわせなの。だから私と花音に甘えて欲しい。辛い時は辛いと言って欲しい。
助けて欲しい時は「助けて欲しい」と言って欲しいの。
一日でも長く、1秒でも長くジュンと一緒に居たい。
ジュンがいてくれるだけで私と花音はしあわせなの。
だってジュンは私たちの王様だから!」
梢を抱けば麻里子をまた裏切ることになる。そしてしなければ梢に恥をかかせてしまい、悲しませることになってしまう・・・。
私は梢の誘いを受けることにした。
(ごめん、麻里子。俺はまた、君を裏切ってしまいそうだ)
その時、麻里子の声が聞こえた。
(梢なら仕方がないわ、許してあげる。
梢のこと、大切にしてあげてね? 梢は私の親友だから)
(麻里子・・・)
私たちはパジャマを脱いで裸になり、お互いの愛を重ねた。
「好きよ、ジュン! やっと私の願いが叶った! 35年ぶりに!」
私は最後のシナリオを演じることにした。
「梢、俺と結婚してくれ」
「えっ・・・、うれしい。凄く・・・」
それには理由があった。
結婚しなければならない理由が。
第13話
「もうすぐ麻里子の四十九日だから、その後、婚姻届を役所に出そう。
花音と純子ちゃんにはまだ内緒にしておいて欲しいんだ」
「花音にも?」
「あの子はすぐに態度や表情に出てしまう。
純子ちゃんにとっては、あまり気分のいい話ではないからな」
「わかったわ」
「明日、市役所で婚姻届の用紙を貰った帰りに、結婚指輪を作りに行こう」
「うれしい・・・」
梢は私にカラダを寄せた。
翌日、私たちは婚姻届を貰いに富山市役所へ行き、総曲輪にある宝飾店で指輪を選んだ。
「これがいい! 私も半分出すからさあ」
「梢が好きな物を選べばいい。じゃあ結婚指輪はこれでいいね?
サイズを測ってもらおう」
結婚指輪は一週間後に出来上がるそうだ。
「もうひとつ、指輪をプレゼントするよ。梢の御守として」
「いらないよ、結婚指輪も結構高かったし」
「いいから選んでご覧」
目を輝かせ、ショーケースの指輪を真剣に見詰める梢は、女の顔になっていた。
「たくさんありすぎて迷っちゃう。指輪なんて久しく買ってないから。
ねえ、あなたはどれがいいと思う?
パーティにしていくわけじゃないから、普段つけていられるのがいいんだけど」
「これなんかどうだ?」
私はエメラルドとダイヤがあしらわれた指輪を梢に勧めた。
「すごくキレイ、でも・・・」
梢は私の耳元に顔を近づけ、囁いた。
「120万円だよ、そんなに高いのはいらないよ」
「この指輪、気に入らないのか?」
「それは素敵だとは思うけど、いいよ、いくらなんでも120万円もする指輪なんて。
しかも税別だよ? 私には勿体ないよ、10万円位ので十分だよ」
「エメラルドはダイヤモンド、ルビー、サファイアと並ぶ世界4大宝石のひとつなのは知っているよな?
エメラルドは『ベリル』という鉱石の一種で、ブルーに近いとアクアマリーンに、そしてピンクに近いとモーガナイトとして加工される。
地中深くで強い圧力をかけられて出来たベリルほど深い緑になる。
だが非常に傷が多く、エメラルドになるベリルは希少価値が極めて高い。
心に沢山の傷を持ち、それでも美しく輝いている梢にはぴったりの宝石だと思う。
エメラルドは不思議な宝石でね? 解毒作用や肝臓、てんかん、ライ病などの万能治療薬でもあったそうだ。
そのために時の権力者たち、シーザーやクレオパトラ、ネロなどもエメラルドを珍重し、集めていた。
女は貞節を守り、男は浮気をしないという言い伝えもある。
伝説ではエメラルドをヘビが凝視すると、ヘビは失明するとも言われている。
俺はエメラルドを見詰め過ぎたのかもしれないな? あははは
すみません、これを下さい」
「かしこまりました。
それではサイズを確認させていただきますので、どうぞお好きな指にはめてみて下さい」
「ちょっと、こんな高価な指輪なんて普段していられないわよ!」
「右手は行動力 左手は精神力を司る。
右手の人差し指に指輪を付けると、何かに迷った時、その人差し指の指輪が進むべき道を示してくれるとも言われている。右手の人差し指にはめてご覧。
見てるだけでもいいじゃないか?」
恐る恐る梢が指輪をはめてみると、それは右手の人差し指にぴったりと収まった。
「いかがですか?」
「ぴったり・・・」
「まるでこのエメラルドの指輪が梢を待っていたようだな? ではこれを包んで下さい、リボンをかけて」
私は店員にカードを渡した。
「お買い上げいただき、誠にありがとうございました。
こちらにお掛けになってお待ち下さい」
「いいの? 売れない作家さんにこんな凄いお買物させちゃって?」
「下宿代の代わりだよ」
梢は大好きなぬいぐるみを離さない少女のように、指輪の入ったお洒落な紙袋を大事そうに抱えていた。
梢の足取りが軽い。
「後はウエディングドレスだね?」
「ドレスはいいよ、もうそんな歳でもないし、それに二度目だし」
「ドレスを売っているところに連れて行ってくれないか?」
「ドレスならレンタルでいいよ、どうせ一度しか着ないから」
「君と花音の服の好みも体型も似ているから、花音の時にもそれを着ればいいじゃないか?
それに知らない人たちが着回わししたウエディングドレスを、梢に着せたくないし、レンタルも買うのもそう変わらないからな」
「うれしい! ジュン、大好き!
今日も帰ったらいっぱいサービスしてあげる! 今日はお店、臨時休業にしちゃう!」
ウエディングドレスを試着した梢が、大きな鏡の前で急に泣き出してしまった。
「お客様、どうされました?」
「ごめんなさい、あまりにもしあわせ過ぎて・・・」
その若い女性スタッフも、もらい泣きしていた。
ゆっくりと終わりが始まろうとしていた。
第14話
朝、私は花音に言った。
「今度の日曜日、ママと花音、そして純子ちゃんも誘って、みんなで焼肉を食べに行かないか?」
「うんうん、それいい! 純子、きっと喜ぶと思う!
だって会うといつも「有村さん、どうしてる?」って訊くんだもん。
今日も学食で会うから訊いてみるね?」
「いい肉をたくさん食べさせてやるから楽しみにな?」
「それじゃあ行ってきまーす!」
「気を付けてな?」
「はーい」
見送る花音の背中が寂しく、遠く感じた。
花音は私の本当の娘のように大切な存在になっていた。
昨日の朝食で花音が言った。
「パパとママ、結婚しちゃえばいいのに」
(結婚するつもりだよ花音、でも今は言えない)
私と梢は黙って箸を動かしていた。
「だってもう一緒に寝ているんだし、パパとママ、もうラブラブでしょう?
私、弟が欲しいな? かわいい弟。
そしてどこにでも連れてっちゃうの、私の
「もう無理よ、生理も終わっちゃったし。あはははは」
「じゃあ代わりに私が産んであげる、パパの赤ちゃん!」
私と梢は食事を吹き出しそうになった。
「そうね? ジュンのDNAを残すにはその手があったわね?」
花音と梢はうれしそうに笑っていた。
食事を終え、花音が大学へ行くと、
「さあジュン、赤ちゃんを作るわよ」
「梢に似たカワイイ子供を頼むよ」
「ううん、あなたによく似たイケメンの男の子がいい」
私たちのいつもの長いフレンチ・モーニングが始まった。
お店が休みの日曜日、私たち4人は富山で一番高級だといわれている焼肉店に集合した。
「先日は母の四十九日にご参列いただき、ありがとうございました。
そして今日は高級焼肉にもお誘いいただき、凄くうれしいです。今日は花音と私で、牛一頭食べちゃいますからね。お財布は大丈夫ですか?」
「足りなくなったらピストル持って向かいの銀行にお金を下ろしに行くから大丈夫だよ。
さあ今日はたくさん食べて下さい、牛一頭分。あはははは」
「あー、お腹空いたー」
これが君たちとの最後の食事だというのに、花音と純子はそれを知らずに燥いでいた。
そしてそれをしあわせそうに見ている梢。
胸が締め付けられる想いだった。
「わー、 ねえ? シャトーブリアンって牛のどこのお肉だっけ?」
「何これ、チョー柔らかいんですけど!」
「お口の中でお肉が蕩けそう!」
「この牛タンだって全然違うよー? パパもママも食べて食べて!」
「花音、有村さんのこと、ホントにパパって呼ぶんだ?」
「そうだよ。純も「有村さん」じゃなくて「お父さん」て呼びなよ。私たち、パパの娘なんだから。
私はパパだから、純子は「お父さん」ね?
いいよね? パパ?」
「こんな頼りない父親で良ければ喜んで。
お父さんと呼ばれるほどの威厳はないけどね?」
「それじゃあ遠慮なく、「花音のお父さん」、お肉をどうぞ」
純子が私の小皿に肉を乗せてくれた。
「純、「花音の」は要らないよ、パパは純子の「お父さん」でもあるんだから。
ハイやり直しー」
そして純子は照れながら言った。
「お父さん・・・」
「純も照れることあるんだ! あはははは」
「ありがとう、純子」
その時初めて私は純子ちゃんのことを自分の娘として呼び捨てにした。
うれしかった。
「そういえばパパも純子も同じ純だね? 純純だね? ダブル純、あはははは」
だが、笑っていたのは花音だけだった。
私たち3人はその純子という名前の由来が、偶然名付けられたものではないことを知っていたからだ。
「もっと肉を追加しよう。ハラミがいいかい? 特上カルビもあるよ?」
「もうお腹いっぱい、産まれそー。あははは」
「こんなに高いお肉を食べたのは初めて。もう食べられないよ、お父さん」
今が話すタイミングだと私は決断した。
「実はみんなに話があるんだ。
純子のお母さんの四十九日が終わったばかりでこんな話もどうかと思うが、梢と入籍することにしたんだ」
すると花音が言った。
「良かったね? ママ。
どうせそうなると思ってたよ、純子といつもその話題で盛り上がっていたし。
それに最近、ママがとってもキレイになって、すごく嬉しそうなんだもん。
純子も入れて急に4人で食事をしようなんて言うからピンと来ちゃった。
見え見えだよ」
「あんたたち、知ってたの?」
「そうなればいいと思っていました。 おばさんとお父さんが結婚すればお父さんもずっと富山に居てくれるでしょう? お父さんと梢おばさんが結婚するなら、天国のお母さんきっと祝福してくれると思います」
すると純子が突然席を立った。
そして大きな花束を持って戻ってくると、梢にそれを渡した。
どうやら私たちを驚かせようと、あらかじめお店に花束を預けておいたらしい。
「おめでとうございます、梢おばさん。
私は最初、有村、いえ、お父さんのことが嫌いでした。
でも母はお父さんと知り合って、しあわせだったんだと知りました。
有村さんはいつものように母のお墓参りをして下さっていました。
それにカラダの不自由なお父さんをひとりにするのは心配ですから。
梢おばさん、お父さんをよろしくお願いします。
それからひとつ、お願いがあります。
私もあなたの娘にして下さい。そして私も家族に加えて下さい。
どうぞ仲間に入れて下さい。
だって、とっても楽しそうな家族なんですもの」
「もちろんいいよね? パパ? ママ?」
「そんなの当たり前でしょ? 私たち、家族なんだから」
私と梢は泪が止まらず、何度も頷いた。
「ごめんね、純子ちゃん。
あなたのお母さんの分まで、この人を大切にするからね?」
「私、わかっていました。
梢おばさんがお父さんのこと、ずっと前から好きだったことを。
だから幸せになって下さい」
「ありがとう、純子ちゃん。ううううう
私のことも「お母さん」って呼んでね?」
「お母さん・・・」
「パパ、ママをよろしくお願いします。
そして私と純子のことも。
私たちもみんなでパパを助けるからね?
私たち、これからずっと家族だよ」
その日は人生最高の「最期の晩餐」だった。
第15話
「師走にウエディングなんて、ヘンよね?」
純白のウエディングドレスを纏った梢は、少し照れてそう呟いた。
「おかげでチャペルが空いていて良かったじゃないか?
キレイだよ梢、とても」
「ありがとう、あ・な・た」
「結婚式は花嫁のためにあるんだ。
君は美味しそうなバースデーケーキで、俺はそこに添えられたチョコレートのメッセージプレートみたいな物だからね?」
「あら、私は好きよ、あのチョコプレート。
だってあそこに「Happy Birthday こずえ」と書かれているからこそ、それが誰の為のケーキで、何の為のケーキかがわかる訳でしょう?」
「それもそうだな?」
私たちは顔を見合わせて笑った。
私と梢の両親は既に他界しており、結婚式の列席者は花音と純子、そして麻里子のお母さんと梢の弟、充の4人だけだった。
教会のステンドグラスからは、冬の日差しが斜めに差し込んでいた。
ゆっくりとバージンロードを歩いて来る梢と麻里子のお母さん。
エスコートはなくても良かったが、梢が麻里子のお母さんにお願いをして快諾を得たものだった。
「本当に私でいいの? 私なんかで?」
「おばさんに是非お願いしたいんです、麻里子のお母さんだから」
本来「バージン・ロード」とは和製英語で、本当は「Wedding Aisle(ウエディング・アイル)」といい、扉からバージンロードまでを過去、祭壇は現在を表し、そして開いた扉の向こうを未来として考える。
カトリックでレッドカーペットを敷くのは、しあわせそうな花嫁に悪魔が嫉妬して、花嫁をさらわれないようにするためだそうだ。
めでたい結婚式だというのに、花音たちのすすり泣く声が聞こえる。
「ママ、とってもキレイだよ」
「おばさん凄くキレイ。良かったね? 花音」
「うん」
アイルランド人の白髪の神父が誓いの言葉を静かに語り始めた。
「あなたは病める時も富める時も、この人をワイフとして愛することを誓いますか?」
「誓います」
「あなたは病める時も富める時も、この人をハズバンドとして愛することを誓いますか?」
「はい、誓います」
「それでは指輪の交換と、誓いのキスをして下さい」
これからの私の人生には富める時はなく、病める時しかない。
私と梢は結婚指輪をお互いの指にはめると、やさしいキスを交わした。
「それではみなさん、讃美歌312番「いつくしみふかき」を歌いましょう」
教会に鳴り響くオルガンと、透き通るような聖歌隊の唄声。
梢の持っている12本の薔薇、「ダーズンローズ」の12本の薔薇にはそれぞれに意味が込められている。
感謝・誠実・幸福・信頼・希望・愛情・情熱・真実・尊敬・栄光・努力・永遠
それは人生にあるべきすべてだ。
教会の外に出ると、私と梢は花びらとライスシャワーを浴びた。
「中世の頃のヨーロッパでは、「ダーズンローズ」は野に咲く花を12本の花束にしてプロポーズをしたそうだ。
そして求婚された女性は「Yes」の代わりにそこから一輪の花を抜いて男性の襟に刺したらしい」
「ロマンチックなお話ね? 私もをれをやりたい!」
花音が言った。
「ブーケトスはしないわよ。お嫁に行くのはあなたたちふたりだけだから。
これは純子ちゃんと花音にあげる。
ふたりともいい旦那さんを見つけるのよ、私みたいにね? うふっ」
花音と純子はブーケに目を輝かせていた。
全員で記念写真を撮った。
「ママ、良かったね!」
「とってもキレイよ。お母さん」
「姉貴、これで最後にしろよな?
有村さん、こんな姉ですけど、意外といい奴ですからよろしくお願いします」
「こちらこそですよ、充君」
「梢ちゃん、あの子もきっと喜んでいますよ。
麻里子の分までしあわせになってね?」
「ありがとう、おばさん」
「みなさん、今日は本当にありがとうございました。
すみませんがこれからお隣の金沢に新婚旅行に出掛けますのでこれで失礼いたします」
「パパ、ママ、気を付けてね?」
「楽しいご旅行を」
「それじゃあ行ってきまーす。今日は本当にありがとうございました!」
飛行機は敢えて敬遠した。
気圧の変化で眼球や心臓に負担を掛けることになるからだ。
それにもし、私に何か起きた場合、富山に近い方が安心だった。
その為、新婚旅行は近場の金沢を選ぶことにしたのだった。
香林坊、雪吊りをした兼六園、東茶屋の石畳の道、主計町茶屋の川の畔。
金箔を掛けた黒蜜の葛切り、近江町市場の海鮮や金沢おでんなどを食べた。
内灘の砂浜では靴を脱いで梢と裸足になり、手を繋いで波打ち際を一緒に歩いた。
鱗雲と、横たわる灰色の日本海。
「梢、殆の人間は「人生は幸福であるべきだ」と考えている。
だが俺は「人生とは辛く悲しいもの」だと思う。
人生は苦しいことや悲しいことばかりだ。
そう考えて生きていれば、辛いことや嫌なことがあっても、「いつものことだ」と諦めがつく。
そして幸福に出会った時、それを素直に喜び、感謝することが出来る。
やはり生きていることは「奇跡」なんだと」
「私は今まで幸福になることばかりを考えて生きて来たわ。
花音を抱えて必死だった。
死んじゃった方がラクだと思ったことなんて何度もある。
寝ている花音の首を絞めて、一緒に死のうと思ったこともある。
でも今はやっぱり生きてて良かったと思う」
梢は私の手を強く握った。
「人は今までの自分の人生を振り返った時、良かった時をブラス、苦労した時をマイナスとして時系列のグラフにすると、なぜかプラスとマイナスが同じ量になり、辛かった時のことを殆ど忘れてしまうものだ。
小さくマイナスに振れれば小さくプラスに振れ、大きくマイナスになっても、また大きくプラスに転じる。
つまり、人生のプラスとマイナスを足すと「ゼロ」になるというわけだ。
神様は人間が皆、平等になるように配慮して下さっているんだろうな?
俺はそう思うんだ」
「そうかもしれないわね?
だって私、今までのマイナスがすべて吹き飛んでしまったから」
そして梢は私の頬にキスをした。
宿は金沢の老舗旅館にした。
「キレイで広いお部屋ね? 個室露天風呂もあるわ。
何だかすべてが夢みたい。
午前零時になったら魔法が解けて、みんな消えてなくなりそうで怖いくらい」
「シンデレラじゃないんだから、タクシーがカボチャの馬車にはならないし、ガラスの靴もないから大丈夫だよ」
「ねえ、エメラルドの指輪、はめて」
梢はバッグから指輪のケースを取り出し、リボンを解いて私に渡した。
「右手を出してごらん」
私はゆっくりと梢の指に指輪をはめてやった。
「ほら見て、とっても綺麗・・・。
結婚指輪とふたつになっちゃった」
私は梢をやさしく抱き締めた。
「ごめんな? 梢」
「どうして謝るの?」
「弱い男で」
「何を言っているのよ、あなたは私が35年間も待ち続けた「最愛の夫」なのよ。
これから私があなたを守ってあげる。しあわせにしてあげる!
今夜が本当の新婚初夜よ。お月見をしながら一緒にお風呂に入りましょう」
「そうだな? ゆっくりと風呂に浸かろうか? 月夜の露天風呂に」
とても美しい満月の夜だった。
露天風呂には枡酒が用意されていたので、私は枡酒に酒を注ぎ、梢にそれを渡した。
「ほら、梢に月をあげるよ」
「あなたはやっぱり恋愛小説家さんね?」
梢は月が映った枡酒を口に含むと、その酒を口移しで私に飲ませてくれた。
「どう? 美味しい? 月のお酒は?」
「旨いよ、月の酒は・・・」
その夜は初夜ではなく、「最期の夜」だった。
私は激しく梢を抱いた。
梢を決して忘れないために。そして一秒でも永く、梢を愛していたかった。
そして新婚旅行から帰った三日後、私は家を出た。
最終話
ダイニングテーブルの上には菓子箱が3つ、並んで置かれていた。
A5のコピー用紙に大きく黒の太字マジックで書かれた宛名が貼り付けてあった。
花音、純子ちゃん、そして私へと。
私はそれを呆然と眺めていた。まるで他人事のように。
おそらく私の表情には血の気はなく、能面のような顔をしていたはずだ。
私はまた、生きる希望を失くしてしまった。
「花音、純子ちゃんをここに呼んで頂戴。
純子ちゃんが来てからこの箱を開けるから」
花音もまた、感情のない金髪のバービー人形のようだった。
「電話してみる・・・」
花音の落胆は見ていられないほどだった。
尊敬し、慕っていた父親が突然消えた
そしてそれは私も同じだった。
頭の中が真っ白になるとは、こういうことを言うのだろう。
夫は生きることに絶望してこの富山に帰って来た。
自らの手で人生を終わらせるために。
私はそれをすっかり忘れて
目も不自由になり、心筋梗塞という不治の病を抱え、次第に衰えてゆく体。
夫は生きる気力を既に失くしていたのだ。
だからこそ、私と花音は最期まであの人を支えたかった。
私たちの家族として・・・。
だが、その願いは虚しくも否定されてしまった。
純子ちゃんも花音の電話の様子から、何が起きたのかは察していたようだった。
「これ? どうしたんですか?」
「たぶん、あの人からのメッセージが入っていると思う。
純子ちゃんが来るまで、私と花音もこの箱を開けることが出来なかったの。
正直、開けるのが怖い・・・。
それじゃあ各々、箱の中身を確認しましょうか?」
私たちは震える手で自分宛ての箱を開くと、中には本と手紙、そして小切手が入れられており、さらに私の箱には通帳と銀行印、有価証券と実印、キャッシュカードとクレジットカード、生命保険の証書が入れられていた。
それは私たちの予想通り、夫からの「遺箱」だった。
私の大切な娘、花音へ
君のお陰でパパはとてもしあわせでした。
花音の笑顔は世界一だよ。
太陽に向かって咲く、日向葵みたいだ。
突然、家を出ることを赦して下さい。
ここにいるとしあわせ過ぎて、小説が書けないから。
創作を生業としている私にとって、幸福は作品を産み出すことを阻む。
地位と名声、そして莫大な富としあわせを手にした人間は、みな堕落して
しまうものだ。
それを掴むために、成功するために、プールサイドで水着の美女に囲まれ、
シャンパンを飲むために生きるのならそれもいいかもしれない。
だが、そんな彼らはアーティストではなく、単なる欲にまみれた金持ちなのだ。
パパは小説家のまま、この世を去りたい。
そんなパパの我儘を許して欲しい。
人はどれだけ長く生きたかではない、「いかに生きたか?」なのだ。
自分の納得できる人生を生きたかなんだ。
私は自分の人生に後悔はない。
だからパパは自分の気持ちに素直に生きることにした。
病院で死ぬのは芸術家として相応しくないからね?
このお金は花音がしあわせになるために役立てて下さい。
それからパパの一番のお気に入りの小説を入れて置きました。気が向いたら
是非読んでみて下さい。
ママのことをよろしくお願いします。
純子と仲良くね? お体を大切に。
2023年12月
パパ 有村純一
作家 三枝純一
そして一緒に3,000万円の小切手が箱の中に収められていた。
「パパのバカ・・・、 お金なんか貰ってもしょうがないよ・・・、そうじゃ、ない、の・・・、
私が欲しいのは、お金、じゃなく、て・・・、パパなのに!」
私のカワイイ娘 純子へ
あなたを初めて見た時、息が止まりそうでした。
あまりにもお母さんの若い頃にそっくりだったからです。
お母さんを裏切ってしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。
私はこの35年間、あなたのお母さんのことは一度も忘れたことはあり
ませんでした。
前妻と離婚し、その後も結婚をせず、家族を持たなかったのは、せめても
のお母さんへの贖罪のつもりでした。
自分にはしあわせになる資格がないと思ったからです。
あなたのお母さんは、私には勿体ないくらいに素敵な女性でした。
あなたと一緒に飲んだ、クリームが溶けて温くなってしまったウインナー
コーヒーの味は一生忘れることはないでしょう。
お母さんとの思い出の『ピカソ』に連れて行ってくれて、ありがとうござ
いました。
純文学がお好きだとか? とてもうれしかったです。
これでも私は「純文学者」ですからね?
純子とお父さんが、純文学について議論する、素敵じゃないですか?
「純」がいっぱいあって?
私のペンネームは「三枝純一」といいます。
そう、あなたの苗字と同じ名前です。
そうしたのはいつか、あなたのお母さんに気付いてもらいたくてそう
名付けました。
バカでしょう? 純子のお父さんは?
私の代表作『ラスト・ワルツ』を添えておきます。
気が向いたら読んでみて下さい。
感想が聞けないのが残念ですが。
あなたから「お父さん」と呼ばれた時、凄くうれしかった。
純子はずっと私のかわいい娘です。
純子も小説を書いてみてはいかがですか?
純子の小説、読んでみたかった。
このお金はこれからの純子の将来に役立てて下さい。
花音とお母さんをよろしくお願いします。あなたはしっかり者だから。
お体を大切に。
2023年12月
お父さん 有村純一
作家 三枝純一
純子にも3,000万円の小切手が添えられてあった。
「おとうさん・・・、どうして・・・」
本を開くとそこには有村のサインが記してあった。
三枝純一として。
我が麗しの妻、有村梢へ
映画サークルで観た『麗しのサブリナ』を覚えているかい?
梢は俺のオードリーヘップバーンだ。
死ぬのは怖くない。
俺はもう目もよく見えなくなってしまったし、心臓も急速に悪化しているのが自分でもわかる。
ゾウも猫も、自分の死が近づくといつの間にか姿を消すだろう?
だから俺もそうすることにした。
決して梢が嫌いになったわけじゃない、君を愛すればこそ、そうすること
にした。赦して欲しい。
どのみち、俺はもう長くはない。
やはり君たちに俺のオムツを替えてもらうのは気が引けるよ。(笑)
梢、俺は君と再会して一生分のしあわせを貰ったんだ。
毎日がバラ色だった。
正に『Days of Wine & Roses』だったよ。
ありがとう、梢。
人は人生は幸福であるべきだと考えるものだ。
だから苦しみや悲しみが訪れるた時、すぐに落ち込んでしまう。
人生は天気のようなものだ。
1年の天気の半分は曇りなんだよ。
そして雪や雨が15%で晴れの日も15%、そして15%が快晴。
残りの5%が嵐だ。
人生も同じだ、殆どが曇り。
だから快晴はありがたいし、雨や雪は嫌だが、それも生きていくには必
要なことだ。
嵐も時として絆をより強くしてくれる。
哀しみや辛さは人を成長させてくれるものなんだ。
そう、苦悩した分、そこに気付きが生まれる。それが学びだ。
急にプロポーズしてすまなかった。
君をまた傷物にしてしまったね?
夫婦になれば生命保険金や年金、相続などがスムーズだからね?
せめて君たちには遺産を残してあげたかった。
俺にはもう必要のないカネだから。
手続きはすべて終わっているから安心して欲しい。
君に受け取って欲しいんだ。せめてものお礼に。
俺を愛してくれて、本当にありがとう。
梢には悪いが、横浜のマンションとクルマは前妻に渡すことにした。
最期に映画のような恋愛が出来たこと、心から感謝しています。
やっぱり家族っていいものだね?
愛しているよ、梢。
それから梢にひとつお願いがある。
俺がいなくなっても、決して悲しまないで欲しい。
君や花音、純子が悲しむのを見るのは辛いから。
人はいつか必ず死ぬ、ただそれが遅いか早いかだけの違いだ。
俺だけが死ぬわけじゃない。
梢も花音も、純子も、俺や麻里子がそうだったようにいつかは死ぬ
時を迎える。
それが定めだ。
I'm crazy about you.
2023年12月
君の最愛の夫 有村純一
小切手は夫が個人会社を設立し、当座預金まで開設して振出された物だった。
私は左手の薬指の結婚指輪と、右手人差し指のエメラルドの指輪が光る、両手を見て泣いた。
「あなた、エメラルドを見ても、これからどうやってあなたのいない毎日を送ればいいいのかわからないわ・・・、ジュンの嘘つき。
あれほどずっとここに居てねって言ったのに・・・」
「そんなの、そんなのイヤだよ! 絶対におかしいよ!
ずっと一緒だって言ったじゃない!」
「お父さん・・・」
有村の愛した3人の女たちは抱き合って、涙が枯れるまで声をあげて泣いた。
「いくじなし、ジュンのバカ・・・」
新湊の海は12月としては比較的穏やかだった。
正確に押しては返す、メトロノームのようにリズムを刻む波。
海に戻り切れない波が、砂に沁み込んでいくのが聞こえる。
小さな蟹が目の前を横切って行った。
石川啄木 『一握の砂』
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて蟹とたはむる
蟹は居たが、涙は出なかった。
うつろいゆく日々に何もかもが変わり、そして消えて行った。
麻里子と行ったボーリング場も、スカッシュの出来たあの喫茶店も、君と初めてキスをした公園のベンも・・・。
そして君もいなくなってしまった。
でも、この海だけは35年前と何も変わってはいなかった。
私はそれがすこぶるうれしかった。
この世にも変わらないものがあるのだと。
空と海、そして人を愛する想い。
それはこれからも変わることがないはずだ。
「さあ、ピクニックをはじめようじゃないか?
梢はビールだよね? 麻里子はレモンサワーだったね?
そして俺はこれ、ラフロイグ。
人生最期の酒は、これに決めていたんだ」
私は缶ビールとレモンサワーの缶を開け、私の左右の砂浜にそれを静かに置いた。
「よく3人でここに来たよなあ?」
スモークチーズをそれぞれの缶の前に置いて、私はバカラグラスにラフロイグを注ぎ、彼女たちと乾杯をした。
「乾杯。きれいな海だね? ダイヤモンドをばら撒いたようだ。
光る海。
いいウイスキーには、バカラのグラスじゃないとサマにならないからね?」
私はイヤフォンで大貫妙子の『春の手紙』を聴いた。
彼女のやさしい透明感のある唄声が、波のリフレインとシンクロしていた。
「麻里子、梢。花音、純子。
俺たちは海から来たんだ。
だってこんなにも懐かしく感じるじゃないか? 海って。
だからいつかは海に帰らなければいけない。そう思うだろ?」
私はコートのポケットから薬瓶を取り出し、その錠剤をひとつづつ口に入れると酒でそれを流し込んでいった。
「人は何のために産まれ、何のために生きるのだろう?
どうせ、みんないつかは死んでしまうのに・・・。
生きる意味ってあるのかなあ?
教えてくれよ、生きる意味を。
視力も弱くなり、いつ止まるかもわからない心臓を労りながら生きる意味を。
もう疲れたんだ、そして君たちのやさしさに甘えてしまいそうな情けない自分にね?
なんだか君たちのしあわせを邪魔しているようで。
いつも隠れて俺を見つめている死神が微笑んでいる。
「まだ、お前をラクにはさせないよ」
麻里子、もうすぐ君に会いに行くよ。
そして今度こそ、一緒に暮らそう。
こんな時、生きてる人には「さようなら」だろうけど、死んでしまった君には「お待たせ」でいいのだろうか?」
日本海を前に
潮騒の音もカモメも、私に気付くことはなかった。
夕日は沈み、有村純一の人生の幕が静かに下りた。
満天の星たちの煌めきと引き換えにして。
『紅に海は燃えて』完
【完結】紅に海は燃えて(作品230927) 菊池昭仁 @landfall0810
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