シーフのノルン
ゴールドウィン大佐の部隊から逃げ出したカナタは、助けてくれたノルンと共にしばらく夜の草原を歩いた。少し離れたところで、彼女も野営をしているらしい。
そこはハレノから東に位置する「レオルカ草原」といった。北側は海が近いらしく、ほのかに潮の香りを感じる。
「いったんこの辺りで息を落ち着かせましょう。でも夜のうちに草原は抜けないと」
ノルンは太い広葉樹の植っている木陰で足を止め、休憩を提案した。
足音がなくなると、草原はとても静かだった。優しく耳を撫でる虫の声と、かすかなさざ波の音。
「ノルンさん。ホントに助かりました。ありがとうございます。こんな遠くまで……」
ノルンはぶんぶん首を振る。
「お礼を言いたいのはこっちだよ。あなたとギルドのみんなのおかげで、私とお母さんはイェスターから解放された。本当にありがとう。あなたは……カナタさんは、恩人です」
ノルンはほんのり頬を赤く染め、目には涙が浮かんでいた。
「ぼ、僕はなんにも……ただ、知らん顔なんてとてもできなくて。それにみんなが力を貸してくれたからです。そしてそれはたぶん……そう、ノルンさんがみんなに愛されていたからですよ」
心地のよい沈黙が流れる。草原が風になびく。
「ええと……そうだ。ユレイナから話を聞いたの。兵士たちがギルドへ乗り込んできて、カナタさんが連れて行かれてしまったって」
カナタを憲兵団から取り返すのに、ユレイナはノルンが適任だと判断し、彼女に相談を持ちかけたらしい。
「これでもシーフとしての経験と実績は誰にも負けないからね。近道を使って街道を先回りし、寝静まったところを狙うのはわけないよ。ほら、これも必要でしょ?」
そう言って渡されたのは、憲兵団に押収されていた杖だ。
「わああ! もう半分諦めてました! よかった戻ってきて……ノルンさん、本当にありがとうございます! シーフってホントにすごいですね!」
その杖は道中でユレイナが準備してくれたものだ。どこででも手に入る安物らしいけど、今ではすっかりカナタの手に馴染んでいる大切な相棒だった。
ノルンは頬を赤らめた。
「い、いえそんな……ソーサラーにとっては、杖は手足のようなものだと思って……取り返すのはそんなに苦労しなかったよ。むしろギルドの冒険者たちを説得するほうが大変だった。みんなカナタを助けにいくって聞かないんだもん」
カナタはその気持ちに感謝しながらも、彼らがハレノにとどまってくれてよかったと思った。「ギルドVS憲兵団」の構図は、この国にとってあまり良い結果に結びつかないだろう。
「そういえばユレイナさんはどこに?」
「行き先はわからないけど、調査しておきたいことがあるって。私たちもこのまま王都へ行き、そこで落ち合う予定」
「ノルンさんもですか? でも……」
ノルンは真剣な眼差しで夜の草原を眺めた。
「ユレイナに聞いた。二人は旅の末に、魔王を討伐しに行くんだよね。実は……実は私も連れていって欲しいの」
カナタは仰天した。
「連れていってって……いやいや、冗談ですよね?」
彼女は首を横に振る。
「ギルドのみんなには話してきた。お母さんのことはギルド長がときどき様子を見てくれると言ってくれた。受付嬢の仕事で稼いだ分があるから、しばらくは大丈夫だよ。一緒に行きたいとユレイナに言ったら、カナタさんがいいと言えば構わないって」
カナタが懸念点として挙げそうなことを、ノルンはすべて先回りしてきた。ユレイナさんにまで事前に話を通しているなんて。
どうやら、本気みたいだ。
「イェスターが魔族だったって知ったとき、実は少し恥ずかしくなったの。ハレノにいるとなんとなく、魔族の侵略は遠い異国で起こっていることで、自分には関係ないと思っていたから」
カナタは慎重に頷く。
彼女の気持ちに寄り添いたかった。遠くの国の戦争に実感が湧かない感覚は、よくわかる。
ノルンはハレノの街がある方角を睨んだ。
「でも、こんなに近くにいた。こんなにわかりやすく、私たちの暮らしを脅かしていた。カナタさんが来なかったら、魔族の仕業だと知ることすらないまま、もしかしたらハレノは滅んでいたかもしれない」
カナタはノルンのそばまで歩いていき、並んで草原を見渡した。
「人間のフリをしていたなんて僕たちも驚きました。今後も魔族には、予期せぬところで遭遇すると思います。だからすごく危険で……ノルンさんはせっかく穏やかな生活を取り戻せたのに。お母さんと一緒に、心配事なく暮らせるのに……」
「それは違うよ。心配事は、よりはっきり目の前にあることがわかった。魔族はすぐそこまで侵略しにきている。私はイェスターのようなヤツが、同じように誰かを苦しめているのを放っておけない」
ノルンは数秒カナタを見つめたが、すぐに顔を伏せる。
「ええと、ごめん……これはあなたの受け売り。ホントは……ホントは罪滅ぼしだよ。私はたくさん盗みを働いた。たくさんの人に迷惑をかけた。あなたに協力できれば、少しは
そのとき遠くで物音がした。
金属の擦れる音。甲冑の鎧を身につけた兵士が駆ける音だ。憲兵団たちはカナタがいなくなったことに気づいたらしい。
「ノルンさん、ひとまず移動しましょう」
できるだけ足音を立てないようにして、二人は草原を走り抜けた。ほとんど意識せずに、カナタは手を伸ばした。それをノルンは躊躇せずに掴む。彼女の手は想像よりずっと小さく細く、カナタは少し驚いた。
「自分勝手なんかじゃないです」
カナタは言う。少し後ろを走るノルンは無言だった。でも、じっと耳を傾けてくれている。
本当はノルンに言いたいことがたくさんあった。もっと自分のために生きていいのにとか、やっぱりお母さんの元にいてあげたほうがいいとか、こんなところまで女の子が一人で来るなんて危険だろとか――
でも結局全部飲み込んだ。
こんなに決意の固い彼女を追い返すなんて、できるわけない。
「僕と来てくれたら嬉しいです。ノルンさん」
ノルンはカナタの手を強く握り返した。
「うん」
白状すると、ただ僕は可愛い女の子と一緒にいたかっただけなんだと思う。一緒に星も見たかったし、まあ、けっこう心細かったし。
でも、彼女の心の
あんなに辛い目に遭ったのに、くじけることなく前を向き、自分と同じように苦しんでいる人のことに想いを馳せることができる。
それは、とても素敵なことだと思った。
だんだんと潮の匂いが強くなり、少し風も出てくる。
二人は海岸に出る。いつの間にか、兵士たちの足音は聞こえなくなった。
「海沿いにもう少し行けば森がある。私のテントもその辺りだよ」
この世界と元の世界は似ているようで、よく観察してみると、まるで異なっている。
でも海は、なぜか海だけは、まったく同じだ。寄せては返す波のリズムも、そこに息づいている生命の気配も、遥か彼方の水平線も、元の世界と同じだった。
こんなこと言うと、ユレイナさんに笑われそうだ――カナタはぼんやりとそう思った。
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