旅支度

 頭が真っ白になりかけたそのとき。


 また声が聞こえた。


 優しくて懐かしい、そしてどこか悲しげな声。


。大丈夫だよ。まっすぐ手を前に。さっきより少しだけ上に向けて。一度出来た魔法だよ。出来ないはずはない。ね? 次の瞬間、グムド族たちの上半身は風の魔法で吹き飛ばされ、空中で塵になる。下半身はほどなくして動かなくなる。この村は救われる。パトちゃんも助かる。と、一瞬のうちに決意するの。そうすれば詠唱もいらない。お兄ちゃんなら出来るよ。絶対に――〉


 目の前まで迫ったグムド族が停止した。


〈あなたは出来る。


 身体が急激に熱を帯びる。


 次の瞬間、まるで砲台が弾を放ったかのような爆音が鳴り響いた。


 カナタが手のひらを向けたほうへ、凄まじい密度の空気がまっすぐに放たれた。


 風がのたうち、うねり、爪を立てて暴れ回った。


 グムド族たちは断末魔をあげる間もなく、上半身が消し飛んだ。


 声が言っていたとおりにそれは空中で塵と化し、残された下半身はどさりとその場に倒れる。


 やがて風が凪ぐ。


 村のところどころで歓声が上がる。


「あのグムド族をやったぞ! 見たかみんな! 勇者様がやったんだ!」

「勇者様だ! 勇者様が村をお守りくださった!」

「勇者カナタ! カナタ様万歳!」


 その歓声が耳に入ってくるや否や、カナタは強烈な倦怠感に襲われ、ふらつき、やがて気を失ってしまった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ 


 カナタはまるまる二日間意識が戻らず、ユレイナや村の人たちを大いに心配させた。


「ホントにどうなってるのかわかんないけど、とにかくあなたは限界を突破して上級魔法を使った。身体に後遺症が残らないといいんだけど」


 ユレイナが頭を抱え、困った顔で言う。


 二日間熟睡していたカナタは空腹で死にそうではあったが、彼女の心配をよそに身体はまったく問題なさそうだった。


 グムド族の襲撃があったことにより、村に衛兵の警護をつけてもらえるよう村長が国へ要請した。


 村人たちは交代で村の周辺の森で見回りを行ったり、襲撃時に破壊された家屋を修繕したり、残された魔物の残骸を処理したりと、忙しく働いた。


 カナタが見回りに同行した際、とある村の男が言う。


「身体を動かしていたほうが、気がまぎれるのさ」


 グムド族に立ち向かい命を落とした勇敢な男たちは、村の北西にある小高い丘の墓地に埋葬された。


 村を一望できるところで、ここなら彼らも寂しくはないだろうと村長は言う。


 ちょうどその日は夕陽が地平線へ落ちる時間帯で、悲しいほど眺めがよかった。


 パトはといえば、カナタが目を覚ましたと聞いて一目散に宿へ飛んできた。顔を真っ赤にし、涙声で「ありがとうございます」を繰り返した。


 五日目の朝には大粒の雨が降り、森の葉を打ち、川を増水させた。


「ホントなら村を救ってくれたカナタ様のために感謝の宴でもしなきゃいけないのだけど、今はみんな余裕がなくてねぇ――」


 宿の女主人は干し物をとりこみながら、申し訳なさそうに頭を下げた。カナタも宴なんてする気分ではなかった。


「いいんですそんなの。大変なときですし……」


「ごめんなさいね……でも本当にカナタ様は謙虚で優しくて、村のことをいちばんに考えてくれるのね。ラグエルさんのところの娘が虜になるのも納得がいくわ」


 ここだけの話――と、女主人は話し始めた。


「お告げで勇者様が来るとわかってから、パトちゃんずっと沈み込んじゃってたのよ。いくら勇者と言っても、あのくらいの子にはちょっと酷な運命なのよね。見ず知らずの男と強引にっていうのはさ……あの子毎日泣いてたわ。でもカナタ様が来て、宴の席で一緒になってから気持ちが変わったみたい」


 だからあの子はカナタ様が勇者だからではなく、カナタ様だから慕っているのよ――女主人は言った。


「いたいた。カナタ、話があるわ」


 ユレイナがロビーに降りてきた。


 ◆ ◆ ◆ ◆


「明日、出発ですか……」


 ユレイナは頷く。


「あなたはこの村を救った英雄よ。これまで多くの転生者がイベント『グムド族の襲撃』に遭遇し、そして全員が村から逃げることを選択した。それが臆病な行動だとも思わないし、私もそれを推奨してきた」


「はい」


「カナタ……あなたは初めてグムド族に立ち向かった勇者よ。馬鹿げた行いだったけど……でも、勇ましかった。その結果として、皆があなたを認め、尊敬してるわ。この村はとても居心地がいいでしょうけど……でも長居はできない」


「わかってます。こうしているうちに、魔王が次の行動に移すかもしれない」


 カナタはここ数日で「転生者必見! 異世界冒険攻略本(β版)」をひととおり読み終えたことをユレイナに伝えた。


「ところどころ読みなおす必要はあると思いますが、ある程度は」


「上出来よカナタ。読んだならもう知ってるわよね。あなたは一度この村を旅立ったら――」


「もうウィムには、戻ってこれない」


 カナタは布張りのソファに座り、両手を組んだ。


 ユレイナが頷く。


「そうよ。ここは“はじまりの村”だから」


 この村のしきたりなのだ。


 村が受け入れるのは、転生したばかりの、これから旅立とうとする勇者だけ。一度送り出された勇者は、もう二度と村に立ち入ることができない。


 後ろを振り返ることなど、勇者には許されないのだ。


「……寂しい?」


「まあ、そうですね……寂しいです。この村の人たちが好きですから」


 ユレイナはカナタのとなりに座り、足を投げ出して天井を見上げる。


「そうそう、子どもたちとボール遊びをして、勝ったら『草編みのお守り』がもらえるイベントがあったでしょ? まだやってないだろうから、やってきなさいよ。お守りは戦闘で直接役に立つわけじゃないけど、思い出にはなるでしょ?」


「でもそのイベント、もう発生しないんですよね? 僕がゴールを壊しちゃったから。初日にやっておけばよかったな……」


 ユレイナはカナタの背中をばんと叩いた。


「痛っ!!」


「まったくあんたなに言ってるのよ! イベントを発生させるのは簡単よ? 木の枝を二本差し直して、子どもたちを呼べばいいじゃない。一緒に遊ぼうって」


「えっ? それでいいんですか?!」


「呆れた……ねえカナタ。攻略本を読むのは大事だけど、この世界はゲームじゃないわ。ただの現実なのよ」


 午後には雨が上がり、雲間から日が差し込み村を照らした。


 カナタは村を周って子どもたちを誘い出し、一緒になってボール遊びをした。地面はところどころぬかるんでいて、皆身体中泥だらけになった。


 カナタが魔法で作ってしまった大穴が、実際にはいいゴール代わりになり、枝を立てる必要もなかった。むしろ子供たちには好評なくらいだった。


 試合の結果カナタばボロ負けだったが、子どもたちの慈悲により「草編みのお守り」をもらった。


「勝たなきゃもらえないはずだったけど……攻略本どおりじゃないこともあるんだ」


 ユレイナの言うとおり、この世界はただの現実だ。


 お守りは干したイネ科の植物を器用に編み人型に模したもので、どこか味わいのある愛くるしさがあった。


 その後は旅支度も兼ねて村にある店を回った。


 事前にユレイナに相談すると、ある程度のお金を貸してもらえた(貸すだけよ!)。


 この国の通貨の単位は「ルタ」と言い、いちばん価値が低いのが銅ルタ。それが10枚集まると銀ルタ。さらに銀ルタが10枚で金ルタだ。シンプルで覚えやすい。


 この村の物品はおおむね銅ルタで購入できた。水に干し肉、米や麦、日持ちのしそうな果実類、それに日用品をいくらか購入した。


「カナタ様!」


 中央広場で、カナタはパトに出会う。

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