第16話
考えてみれば俺たちは喧嘩なんかしていない。
俺が一方的に他の女とやって、気まずくなって家を出ただけだ。
話せばわかる。そもそもあそこは俺ん家だし。家に帰ろう。
俺はすっかり暗くなった裏道を早足で抜け、最短距離で家に帰った。
きっと家に帰ったらアイコさんはメシを作っていて、いつもの通りおかえりって言ってくれる。
だってあの人は、俺の理想なんだから。
「ただいま……」
鍵を開け恐る恐る中に入ると中は暗かった。もしかしていないのかな。
廊下の電気をつけると、テレビの前で丸まって眠っているアイコさんが見えた。
そばにはクッキーやサブレなど、ありったけのお菓子の空き箱が散乱していた。
家中のお菓子を食べてから寝たようだ。栄養が大事だってあれほど言っていたのに。
俺はそっと、アイコさんの顔を覗き込んだ。
毛布を被っただけの状態で寒くはなかったのだろうか。
アイコさんは起こされなければずっと眠っていられると言っていた。
一体どのくらい眠っていたのだろう。
「アイコさん、起きて」
肩をゆすって声をかけてみたがぴくりともしない。いつもならこれで起きるのに。
俺は腕の中のアイコさんに顔を近づけて呼吸を確認した。よかった息はある。
アイコさんの寝顔。こんなにまじまじと見たことは初めてだった。
冷たいほど綺麗で、胸が熱くなるほど愛おしい。
こんなに綺麗な人は見たことがない。最初に会った頃より彼女は綺麗になった。
それはアイコさんが顔を変えられるから、とかいう単純な話ではない。
俺はおもむろに、アイコさんの唇に口付けた。
小さい唇は蕾が花を咲かせるように紅潮していき、長いまつ毛は幼虫の孵化のように開いていった。
「……おはよう」
俺は彼女と目を合わせてしっかりとそう言った。けれど反応はない。
「……」
アイコさんは何も言わない。眉間に皺を寄せた虚ろな目は、何かに怯えているようにも見える。
「ごめんね、その、家を何日間も空けて。どのくらい寝てたの?」
俺はアイコさんをベッドの上に座らせ、隣に座って彼女の両手を握った。いつも温かかった彼女の手はすっかり冷え切っていた。
「お願い、何か言って」
俺はアイコさんの両手を握り懇願した。
アイコさんは眉間に皺を寄せたまま、俺じゃない何処かの方を見ている。
「何を話せばいいのか分からない」
「アイコさん!」
人形のように固まったアイコさんは小さく呟いた。
「分からない」
こんなに強く握りしめているのに、彼女の手は氷のように冷たいままだ。
「本当に分からないんだ。過剰な糖質と脂質の摂取にしかならない嗜好品を食べる手が、あなたが出ていったあの日から止まらない」
アイコさんはゆっくりと目を閉じた。
「あなたならならできるかもしれないと思ったのに」
目の前の女の子は聞いたことがないくらい低い声で喋る。俺の手の中にある彼女の手がずしんと重くなった。
「それでも、うまくできなかった」
女の子の目からは涙が一粒溢れ、頬を伝った。
この人は誰なんだろう。
「俺、本気で好きだったんだ。君のことが愛おしくて、本当にふさわしい男になって、ずっと一緒にいたいって…… あの時の君に戻ってよ。あの君を返してよ……」
その時、今まで焦点の合わなかった目がきゅっとこっちを向いた。
目が合った嬉しさが心の中をじんわりと支配した後、アイコさんはふっと笑った。
「あ……アイコさん……」
アイコさんの唇が俺の唇に重なった。
たくさん、何もかも分からなくなるくらいに続けて、あるときふっと、今自分はどこにいるのか分からなくなった。
「ごめんね」
どこか遠くから声が聞こえる。アイコさんの声だ。
どこにいるの、謝るのはこっちだよ、いかないで、俺の手を握って……
光を感じるほうに向かって必死にもがく。
いったいどれだけの時間そうしていたのだろう。
目を開ける。体を起こして辺りを見まわす。
俺の部屋の中の、そのどこにも彼女の姿を見るけることはできなかった。
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