第3話
「あ、先輩、お疲れ様でぇ〜っす!」
あ〜お疲れお疲れ〜、と呑気に挨拶しながら休憩室に入ったら後輩ちゃんが下着姿だった。……え?
「あの〜、先輩?」
部屋を出る。
…………ふぅ。
落ち着け、俺は慌ててない。深呼吸して、もう一度ドアを開けてみよう。
ガチャリ。
「……もう、何してるんですか?」
下着姿の美少女がドアの前に立っていた。
いや何でもう一度ドアを開けてみようと思った??
「あ、もしかして。私の着替えシーンを目撃しちゃったから、慌ててドアを閉めてくれたんですか?」
別に俺は慌ててなんかいないのだが、まあ大体そんな感じなので俺は冷静に首を三回縦に振った。
すると彼女は少しだけ頬を赤くして、優しい笑みを浮かべた。
「別に、私は先輩に見られても気にしませんよ? 全然下着は着てますし、大丈夫ですっ! というか逆に、今は先輩しかいないから安心して着替えてたわけですし〜」
大丈夫じゃないし逆接の使い方もおかしいが、俺は一旦頷いて休憩室の中に入りドアを閉めた。
…………ふぅ、危ない危ない。あと少しで不審な男(俺)が下着姿の女の子(後輩)を部屋に押し込んでいるとかなんとか通報されるところだった。お客さん一人もいないけど。
しかし、これで一安心。外との繋がりは絶たれ、今は密室に二人きり。
汗を拭って安堵の息を吐いてから顔を上げると、下着姿の後輩が体を斜めにしてニヤニヤと笑っている。
「先輩、ちょっと緊張してます?」
正直に小さく頷く。
「……ふ〜ん。まあ、それならいいです」
そう言って納得した様子で微笑まれるが、俺は意味が分からず眉を顰める。
「私は先輩に見られても全然平気ですけど、私の下着姿を見た先輩は全然平気じゃダメってことです」
自分のロッカーへと戻る道すがら、彼女は飄々とした雰囲気で教えてくれる。……スタイルいいなぁ……。
しゅるしゅるーっと彼女が手慣れた様子でスカートを履いていく。フックを止めてチャックを上げる、そんな音が心地よく響いた。
続けて彼女がワイシャツに腕を通す。
というかこういうのって女子は普通上から着るものじゃないのか? その方がシャツの端をスカートの中に入れやすい。
なんて思っていたら、彼女はゆっくりと俺の方へ振り返った。まだシャツのボタンは全開で、白い肌と華やかな下着が体の中心に沿ってちらちら見える。
「……ねぇ、先輩。……シャツのボタン、閉めてくれませんか?」
は? ……と、素で声が出た。
何を言ってるんだこの子は。
そんなことをして、もし仮に誰かに見られでもしたら紛れもなくヤバいやつだと思われる。いい歳して男をこき使うのが好きだとか噂されたらショックで上京しちゃうんじゃないのこの子。
それに、後輩の素肌に触れるかもしれない行為は俺的にもちょっとハードルが高い。
しかも触れるの手とかじゃなくて腹か胸だし……どうせならモモ肉が良かった。今夜はからあげだな。
……ところでシャツのボタンが何だって?
「べ、別に変な意味とか全くないですよ? ただちょっと背徳感、というかそういうの、なんか……いいかなって。……かぁぁっ! 言ってて恥ずかしくなってきたじゃないですか! 理由なんて何でもいいんですよっ! 強いて言うならあれです、先輩の精神的な疲労回復? みたいな?」
勢いよく捲し立てて、彼女はどすどす床を鳴らしながら俺の方へ近づいてくる。
これはあれだ。密室にしたの失敗だった。
どう転んでも俺ってば犯罪者。
逃げるならこれがラストチャンス……と思った時には既に手首を掴まれていた。え、ちからつよ。マジで逃げられない。
どうやら知能と筋力は反比例するようだ(しない)。
「抵抗しても無駄です♪ 恨むなら、一日頑張って働きすぎた自分を恨んでくださいっ! いくら私でも、くたくたな先輩になら力でだって負けません。…………それに、先輩がへとへとじゃなければ、こんな恥ずかしいことだってしてません」
どうやら筋力と優しさは比例するようだった。マッチョって優しい人多いもんなぁ……あんまり遭ったことないけど。
ただ、まあ、この子は本当に嬉しいことを言ってくれるな。プラス5点。
それでも下着で迫ってくるのはダメだけどな。プラス5点。……間違えたマイナス1点。
覚悟は決まっているようなのに、彼女の瞳は揺らいでいた。
どうやら俺の反応を不安に思っているようだ。
なので俺はポン、と彼女の頭に手を乗せた。ちなみに右手は拘束されているので左手で。こいつマジで力強い……。
「……な、なんですか急に……頭撫でたりして。へ、変態っぽいのはダメですよ……?」
ボタン全開でシャツを羽織っているだけの女の子が何か言ったが、理解できなかった。無視して頭を撫で続ける。
「それに前にも言いましたけど、距離を縮めるのは私の仕事なんですから。……こういう、私が勇気出してる時にマジな感じで頭撫でられると、その、優しさが痛いって言うか……」
いや痛いのは俺の右手首なんだが……まあいい。
少しの間、彼女の髪を撫で続け、彼女が落ち着いたであろうタイミングで手を離す。すると彼女も俺から手を離した。
「……」
静寂が落ちる。
柄にもないことをしてしまった。
だからなのか、手を離した後のこの静寂が妙に気恥ずかしい。
彼女もこの沈黙を利用して、シャツのボタンを上から三つほどいそいそと閉めている。
恥ずかしかったならやるなよ……。
そんなことを思っていると、残りのボタンを上から下へと閉めながら、彼女がチラリと俺を見た。
「ねぇ、先輩。……わたし、先輩のおかげで、ものすんっごいスピードで成長できてますよ。先輩が私を過保護に守ってくれるから……、理不尽なクレームとかから、身を張って守ってくれるから、ちゃんと成長できてますよ……? だからもう、私のために先輩がお仕事頑張りすぎちゃうの、やめてください……っ」
小さく肩を震わせながら、それでも俺に喋る隙を与えずに彼女は俯きがちに続ける。
「私がシフトを入れる時、後から必ず先輩も同じ時間に入れてきますよね? ……最初は、私のこと好きなのかなって、ちょっと、思ってたりもしましたけど……多分、そうじゃないんですよね?」
遠慮がちに俺を見上げてきた彼女から、今度は俺が顔を逸らす。……あまり続きを聞きたくなかった。
「私は、もう克服しましたよ? 誰かに高圧的な態度で迫られること、怒鳴られること、命令されること……全部全部、先輩が私をイジメから救ってくれたあの日から、少しずつ、ちゃんと、克服してきましたよ……? 今はもう脚が震えて動けなくなることも、ないですよ……?」
そうは言いながらも彼女の言葉はどこか奥深くでとてもとても苦しそうだった。
人は簡単に人を傷つける。
悪意のない陰口、無意識の排斥、軽い気持ちのボディタッチ。そういうのは、人の心を悔しさや悲しさで締め殺す。
そして逆に、あからさまな悪口も、除外も、暴力も、人の心に一生消えない傷を残す。
ずっと同じ学校で過ごしてきたからこそ分かる。彼女がイジメによって受けた傷は『克服』できるものでは到底ない。
それでもいつからか過剰に明るく振る舞い始めたのは、俺に心配するなと伝えたかったからだろう。自分はもう大丈夫だから、心配しなくていいからと。
今の話を聞いて確信した。
「ちょっとでも怖そうなお客さん、機嫌が悪そうなお客さん、明らかに文句を言いに来てるクレーマー……、そういう人たちの対処、いっつも先輩が変わってくれちゃうじゃないですか。お客さん次第で時間もかかるし、気力もすっごい消費する。何より先輩は、本気で将来のために進学しようとしてる受験生じゃないですかっ。その傍らで、まだ受験まで一年以上ある私に合わせてバイトを入れて、それで怖いお客さんの対応まで全部引き受けちゃってくれてたら、いくら先輩でも体も心も持ちませんよっ!」
ところどころ声を裏返しながら必死の様子で言ってくる。
その訴えを、俺は直視できないまま立ち尽くしていた。
彼女の言っていることは全て正しい。
受験勉強の傍らで彼女の心を守りつつ、頼りない店長からあてにされて増えまくってしまった今のバイトのシフトでは、正直破綻するのは時間の問題だった。
体力がもたない。
精神ももたない。
潰れるのは目に見えていただろう。
ただ、それでも──
それでも俺は、「じゃあこれからは一人で頑張ってね」と、彼女を送り出せない。
なぜなら、彼女の傷は癒えていない。
前に彼女が俺と一緒にバイトしたいと言い出した時、俺はてっきりそうじゃないと思っていた。傷はもう癒えたのだと思っていた。なんせコンビニバイトは接客業だ。変な客も来れば、怒鳴ってくる客もいる。その怒気を喰らっても傷がひりつくことはないのだと、自分で判断したと思っていた。
そして事実、そのはずだったんだろう。
彼女の明るい接客はお客さんすら笑顔にしてしまうものだった。やってたことや言ってたことはともかく、その姿勢や内容は素晴らしいものだった。
でも、初めて声のデカイ客が来た時、彼女の笑顔は凍りついてしまった。
手が止まり、脚が止まり、やがてレジカウンター越しの見えないところで彼女の脚はガタガタと震え出した。
そんなもの、黙って見ていられるはずがない。
だから口を出した。
対応を俺が引き受けた。
次も、その次も、それ以降ずっと。
でも、その事実を彼女に直接伝えるわけにはいかない。
君がバイトを辞めれば俺の負担は減るのだと、そんなこと絶対に伝えてたまるもんか。
だって、彼女はようやく一歩を踏み出したんだ。
ずっと傷を庇って人を避けてきた彼女が、俺と一緒ならバイトをしたいと言ってくれたんだ。その気持ちを俺は無碍にしたくない。
だから悩む。
なんて伝えればいいのか。
何を伝えればいいのか。
どう伝えればいいのか。
そうして俺が口籠もっていると、不意に彼女が俺に抱きついてきた。ぎゅっと優しく背中まで腕を回される。
「先輩」
へへっと照れ笑いを浮かべるような、そんな優しい声だった。
「私は私の恩人に……大好きな人に、無理をさせたくなんてありません」
耳元に吐息がかかる。
それでも俺は頷けない。
もう、たまたま彼女をイジメから救った時とは違うのだ。
彼女の笑顔も、優しさも、可愛さも、今はもう全部知っている。だから、その笑顔が理不尽に凍りつくあの瞬間は、もう二度と見たくない。
短い沈黙を拒絶と受け取ったのか、彼女は再び温かい吐息を漏らした。そして、続く声音に落胆や悲しみの色はなかった。
「……きっと先輩は、それでも私を助けてくれちゃうんですよね。いじめられてた頃のことを私が思い出さないで済むように、自分が疲れていることなんて無視して、手を差し伸べてくれちゃうんですよね。報酬も何もないのに……、え? い、いや、ダメですよ、私の笑顔なんかじゃ、先輩の優しさに報えません」
そんなことはまるでない。
のだが、俺が何かを言う前に、彼女は凛とした表情で俺を見上げた。目には何やら決意のようなものが強く見える。
「……私、今改めて、決めました。先輩が私を助けてくれる分、私は先輩を癒します。もう疲労なんてぜ〜〜んぶ吹き飛んじゃうくらい、先輩のこと甘やかして、癒して、とろとろにします。……もう決めました」
この段階ではもう既に、そんなもの必要ないだなんてことは言えない。癒しが何を指すのかは不明だが、マッサージでもなんでもしてもらえるならありがたい。
それでも、やっぱり少しは気が引ける。
別に俺は見返りを求めて彼女を助けているわけじゃない。強いて言うなら、彼女にはただ笑っていてほしい。
だが、そんなことは彼女も承知の上なんだろう。
何より、彼女がやりたいと決意して一歩踏み出したものを、俺が止められるはずがない。
小さく頷いてみせると、彼女は年相応の可愛らしい笑顔を浮かべた。
「ふふっ、よかったです。これで反対でもされようものなら、強引にでも……あー、なんかその、色々と、しちゃうところでした」
えへへっと恥ずかしそうに苦笑して、彼女は俺から距離をとった。
とりあえず、一件落着……だろうか。
カチカチと時計の秒針が沈黙を刻む。
「……って、わ、私、よく考えたらなんて格好で先輩に抱きついて……!? ひや、やぁぁああっ! ダメです! 見ないでくださいっ! 今すぐ後ろ向いてー! すぐにスカート履きますから、ちょっと、あぁ……ほんとうに、外、行っててくださいぃ……っ」
不意に絶叫をあげたかと思ったら、瞬く間に顔を真っ赤に染め上げ、声をしゅんしゅんすぼませていく。
まったく……本当に忙しいやつだ。
というか俺もそろそろ目線のやり場に困り果てていたので、大人しくドアから退出しようと手を伸ばす。
「あ、あの、先輩」
ドアノブに手をかけたところで声をかけられ、危うく振り返りそうになる。
「……こ、今度のシフトの休憩時間……から、始めますから、私と先輩の癒し時間。だから、その……そのつもりで、よろしくです」
そんな妙に恥ずかしそうに言われるとあれやこれやと想像してしまいそうになるのだが、とりあえず今は考えても仕方がない。
俺は一度頷くと、ドアを開けて部屋から出た。
……ふぅ。
後輩美少女の下着姿を前にして、本当によく冷静でいられたな俺。俺ってばマジ紳士。ステッキとか持ったら絶対似合う。
そんなどうでもいいことを考えて、俺は彼女の白い肌を頭の中から追い出すことにした。
……耳元で囁かれた声は追い出せそうになかったが。
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