第36話「半径0mの世界を変えろ」
2021年9月30日13時30分。
東京・荻窪 三賀森物産本社 3階・大会議室。
大会議室に入った三賀森靖気を襲ったのは数多の視線だった。
千人近い視線が一人に集中している。多くの人がまず経験することのないことだ。それを若干三十二の男は、三年前までただの娘婿だった男は一心に浴びた。
身体中から汗が吹き出てくるのがわかる。震える体で友菜たちのことを見る。友菜と東崎は黙って頷いた。
この一ヶ月、二人には本当にお世話になった。取締役の説得から新しい制度の策定、そして今日の発表の練習。大勢の前で喋るなんて今までの靖気なら悲鳴をあげて逃げ出していただろうが、それでも必死に続けてきたのは、ひとえに〝彼女〟のため。
今にも崩れ落ちそうな足取りで長机に向かう。長机には人事部が用意した発表用の資料とマイクが一本だけ置いてあった。白いテーブルクロスの上に置かれたそれが靖気には処刑台の縄に感じてならなかった。
心音が耳元で聞こえる。
長机に到着するまでに二十年かかったんじゃないかと思うくらい長く感じた。だが実際には一分と経っていない。吹き出した汗はワイシャツを湿らせた。
三賀森の異常に友菜は気づいていた。
「大丈夫でしょうか」小声で呟くと、隣で東崎が言った。
「やれることはやった。俺たちに残された仕事は信じることだけだ」
長机にたどり着いた靖気はマイクを手に取った。スイッチを入れるとキーンと一瞬だけハウリングする。
一息ついて視線を上げる。練習でそうしたように。
だが、そこには練習とは違う光景が広がっていた。
千の顔、二千の瞳。
鼓動が一気に跳ね上がる。
マイクを持つ手が震え、口の中が渇いていく。
マイクを口元に持っていく。すぐに違うそうじゃないと喉元にある人工声帯の近くまで下げた。
「………………
マイクテスト。そう、これはマイクテストだ。マイクの準備よし。スピーカーも問題ない。配信の音声はこちらからじゃ確認しようもないから、とりあえずよしとしよう。全部
だが、目の前には——
千の顔、二千の瞳。
何も考えられない。何も考えられない。
もはや息をしているのかも分からい。立っているのかも怪しい、かと思えば体が回転しているかのような錯覚を覚える。このまま倒れてしまえばどれだけ幸せだろうか。
(あぁ……、やっぱり僕は……)
そのとき、群衆の中に一人の女性を見つけた。
彼女はお気に入りの白のワンピースを身につけて立っていた。明らかに異質な存在である彼女に周囲が気づかないのは、きっと彼にしか見えていないからだろう。
——数年ぶりに見た。
薄暗い霊安室で見た時とは違い、いつもの明るい彼女だった。
今すぐ駆け寄りたい衝動にかられた。
マイクを放り出して、
スーツを脱ぎ捨てて、
神妙な面持ちなんて忘れて、
くしゃくしゃの顔で涙を流しながら、思いっきし抱きしめたい衝動に駆られた。
けれども——、
彼女の口が動く。
声が聞こえたわけじゃない。
でも、何を言っているのか自然と理解できた。
『社長は、社員に隠し事しちゃダメでしょ』
そう言い残して彼女はスゥと消えていった。
残されたのは千の顔、二千の瞳。けれども、さっきとは違う自分がいた。
歯を食いしばる。
頭に浮かんだイメージを、現実とするために————
三賀森靖気は首の包帯を剥がした。
破れた包帯が彼の周辺に舞う。会場の一同が目を見開いたのは言うまでもない。
それは友菜たち裏方も同じだった。
「えっ?」困惑の色を隠せない。
だが、しばらくして、
「……お、おい」「あれって……」
誰かの言葉に端を発し、社員たちは次々と身を乗り出した。
彼らの視線は靖気の首元に集中する。
いくつもの傷跡。
奇しくも、ライブ配信の画面には彼の顔がアップで映っていたため、配信には彼の傷がより鮮明に映っていた。配信を見ていた社員は、弁当を食べる箸を止める。
三賀森靖気はすかさずマイクを口元に近づけた。
「十年前まで、僕は自分のことが嫌いでした。理由はこの声のせいです」
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