第10話「だから僕は川手を辞めた」
「みんな、聞いてほしいんだけど」
走馬灯を打ち消す言葉。
茉莉乃は顔をあげる。
「川手くん、地図持ってる?」
「あ、あぁ」
友菜は将史から地図を受け取った。地図はマップケースに入っており、雨が降っていても問題なく見ることができる。
彼女はしばし地図を見つめると「やっぱり」と言った。
「みんな、これを見て」
彼女は地図を地面に広げると、猿伏川と目的地の山荘の間にある扇状地の谷を指差した。
「私たちは今、ここらへんにいるんだよね」
「あぁ。だが、その正確な場所がわからなくて困ってるんだ」
「うん。でも、
全員が友菜の顔を見た。
友菜も顔を上げ、富三郎のことを見る。
「さっき鼎さん言ってたでしょ。土砂崩れが起きるかもしれないって。それで地図を見てみたんだけど、私たちがいるところの上」
友菜は標高が高い方に向かって指でなぞった。
そこには猿伏川が胴を曲げて流れていた。
「なにが言いたいんだ?」
「猿伏川は長い年月削られてできた屈曲河川。もし、それがこの雨によって氾濫を起こしたとしたら……」
彼女は勢いよく下流に向かって指を移動させた。シャッと水飛沫をあげて指が通過した先には彼女たちの〝おおまかな〟現在地がある。
三人は息を呑んだ。
「じゃ、じゃあどこに行けばいいんだ。被害範囲がわからないんだったら、ここで助けを待った方が……」
「ここから山荘側に歩いたところに急斜面がある。そこを登った先は周囲よりも標高が高くなるから危険性は少ないはず」
三人とも黙り込んだ。
あたりは雨の音と雷鳴。
長い沈黙。
寒さと雨で体力は削られ、土砂災害の危険性も迫っている。
残された時間は少ない。
最初に口を開いたのは渡邉茉莉乃だった。
「動こう」
彼女の顔は色味がなく、生半可な覚悟で言ってるわけではないのが伝わった。
「拙僧はもとより避難を提言していた身。異論はございませぬ」
次に口を開いたのは鼎富三郎。
三人は最後の一人を見た。
東大法学部出身。川手将史。
彼は大学時代に学んだ。
東大に入った自分たちは民を導く領袖になるのだと。
『どうしてフューカインドなんだ? 君なら裁判官にも事務次官にもなれるというのに』
指導教員から尋ねられたことがある。
周囲は国家公務員試験や司法試験に受かっていった。
人々を導く存在になっていった。
けれども、自分は——。
『私は民間から世の中を変えたいんです』
誰かによって決められるのではない。みんなで決める。
それこそ本当の民主主義ではないのか。だからフューカインドに行く。
(すっかり忘れていた。俺は「東大卒の川手」なんかじゃない。
——
***
2021年4月9日 午後3時55分。
長野県尾長岳 山中 標高2037m。
「みんな、あともう少しだ。頑張ろう」
誰よりも声を張り上げて足を前に進める。
足先の感覚はほとんどなくなり、布団があったら入りたいくらいだ。
それでも前へ。前へ。
川手将史を先頭に、一行は歩みを進める。
そして現れた——
断崖。
川の浸食作用によって形成された山岸。かつてV字谷と呼ばれていたソレは、長い年月による河川の屈曲と土砂の堆積によって無名の崖へとその名を変えた。
無言の絶壁。
四人全員、後退りした。道は整備されている。崖の上には木組みされた階段が登山者を崖上まで導いてくれていた。
問題は、彼らがこれを登り切れるか——。
「拙僧が先鋒を——」
まず、鼎富三郎が動いた。浄土宗の寺で二年間培った修行の成果は極限の状態でこそ最大限発揮される。
次に友菜が、茉莉乃が、最後に川手が続く。
道が整備されているとはいえ、傾斜が急であることに変わりない。
加えてこの雨だ。地面はぬかるみ、気を緩んでいなくても足を取られてしまう。
筋力のある富三郎はまだしも、残り三人は上の段差に手をつき、這いつくばった状態で進んだ。
雨は最後の追い上げと言わんばかりに勢いを増した。すでに雨具やレスキューシートは意味をなさず、四人とも全身すぶ濡れだ。
そして崖の中腹まできたところで、
山体が揺れる。
「ゴ」という文字では表象しきれない音の連続が上から下へと迫ってくる。
迫ってくる!
「うわっ」
——揺れで茉莉乃が足を滑らせた!
体勢を立て直す間もなく崖下へと落ちていく。
数分前まで彼らがいたところは茶色の水が侵食を始めていた。
「茉莉乃!」
友菜の叫びは雨音に打ち消され、
スローモーションのように
——————
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