第9話「Aoi〜もっと短くしてみた!」
「間も無く土砂崩れが起きようとしていまする」
誰も言葉を発さない。
周囲では雨音が野球場の歓声くらい絶え間なく続いていた。
「……エビデンスはあるのか?」将史が口を開いた。
「拙僧は大学院でデータサイエンスを専攻しておりました。そこで修行僧が持つ直感について修士論文を書いた経験がありまする。修行僧——即ち人智を越える鍛錬を積んだ方達は一様に気候の変動に————」
「けどその理論が今実践できるわけじゃないだろう。修行僧はお前一人しかいないんだから」
「ムムッ、確かに」
「明確な根拠がない〝直感〟で下手に動いて、それこそ滑落してしまったら本当の終わりだ。それよりもここで救助を待った方が——クシュン」
将史は最後まで言い切らずにくしゃみをした。よく見れば歯が震えている。
気温はすでに氷点を下回り、雨はみぞれになっていた。友菜も彼らと同じくあと一時間、耐えられる確証はない。
不安が積雪する中で浮かび上がった富三郎の忠告。
(——セヴァイン)
『はい、友菜様』
彼女の前に〝ディスプレイ〟が現れる(実際に具現化されているのだから「現れる」だ)。彼の声は土砂降りの中でもはっきりと聞こえた。
(ここに土砂崩れの注意報とか出たりしてる?)
『土砂災害警戒情報は現在のところ発令されておりません。気象庁では出すべきか目下、検討が行われています』
別の〝ディスプレイ〟が表示され、気象庁の職員と思われる人々が議論している様子が見える。
(つまり、出るかどうかは微妙ってことね)
『しかし、友菜さま。もっと早くかつ的確に土砂災害の発生確率がわかる方法がございます』
(どういうこと?)友菜は眉を顰める。
『友菜さま、私の〝
(なにそれ?)
『〝人類知〟には様々な学説や理論が保存されています。私はそれらを用いることで未来に起きる事象を予測することができるのです』
友菜は目をパチクリとさせた。心は寒さを忘れてしまったかのようにドキドキしている。
もちろん、彼が提案したのは
それは土砂災害とて例外ではない。
(土砂災害をシミュレートできる理論はある?)
『ロジスティック回帰分析を用いた土砂災害の発生確率を予測する数理モデルがございます(※1)』
友菜の目の前に新しい〝ディスプレイ〟が表示される。ロジスティック回帰分析なんて友菜は聞いたこともないが、彼が出したモデルなら大丈夫だろう。
(じゃあ、このモデルを用いてシミュレーションを実行して)
間髪入れない彼女の言葉にセヴァインは『かしこまりました』と言った。
莫大なデータの中から瞬時に希望のデータを検索し、提示するセヴァインの能力は現代の言葉で言い換えると超超高性能なスーパーコンピュータだ。そのコンピュータを使って行われる数理モデルの演算は一秒にも満たず完了される。
結果を見た友菜は唾を飲み込んだ。
発生確率100%。
もちろん、人類が考えついた予測モデルに基づく計算結果だ。確実に土砂崩れが起きるとは限らない。
だが、この場所から逃げなければならない理由としては十分すぎる。
(みんなに伝えなきゃ!)
口を開きかけた友菜はハッとする。
三人はセヴァインの〝ディスプレイ〟が見えていない。このままでは富三郎と同じになる。三人を、特に将史を納得させるためには今把握できている情報だけで説得する必要がある。
友菜は〝ディスプレイ〟を見た。
(セヴァイン、彼らを説得できる情報はない?)
***
2021年4月9日 午後3時50分。
長野県尾長岳 山中 標高2035m。
三人の体温は氷点下の侵攻を受け、灯火とも呼ぶべき体力の掘削に入った。
茉莉乃はふと、自分の意識が遠のいていたことに気づき身震いした。
(やばい。これ「寝たら死ぬ」のリアルバージョンだ……)
なんとか指を動かそうとするが、うまく動かない。
すでに彼女の体温は三十四度を切っていた。呼吸が浅くなり、意識が朦朧とし始める。さらに手足の先端では筋肉の硬直が始まろうとしていた。(※2)
(あぁ、嫌な人生だったなぁ。田舎生まれだから都会人からはバカにされるし、二年間付き合ってた元カレは浮気しまくってたし。もっといい人と巡り会えたら……)
そのとき、声が聞こえる。
「みんな、聞いてほしんだけど」
——————
※1:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejf/66/1/66_1_122/_pdf/-char/ja
※2:https://www.jstage.jst.go.jp/article/clothingresearch/46/1/46_3/_pdf
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