第7話「↑ググってみれば『あぁ、なるほど』ってなる曲、よくあるよね」

 2021年4月9日 午後2時39分。

 長野県尾長岳 登山道 標高1711m。


 尾長岳は中央アルプスの北側にある山で、シラビソなどの針葉樹林に山体が覆われている。その歴史は古く、平安時代にある高名な僧が山頂の木に観音像を掘ったことが始まりなのだそうだ。


 最後を伝聞の形にしたのは鼎富三郎が道中で話していたからだ。


「この慈覚大師と呼ばれる僧は諸説あるものの、の才能があったらしくてですな、若くして頭角を表したのは、夜な夜な師匠を床に参っていたそうで——おっと、このというのは肉体という意味ではなくてですな、ムフン、決してやましいことなど考えておりませんぞ、拙僧は、エェ」


 こんな話を一時間半し続けているのだから足取りが重くなるのも無理はない。


 友菜は軽く身震いをした。富三郎の話に寒気がしたからではない(心の中ではビンビンに感じていたが、おっと、このビンビンというのは——以下略)。春の尾長岳は最高気温が摂氏十度と肌寒く、見上げる山頂は雪に覆われていた。


 しかし、彼女たちが目指すのは山頂ではない。登山道の途中にあるフューカインド所有の山荘だ。


 登山口からの距離は4.8km、標高差は419m。初心者向けのコースだが侮ってはいけない。なぜなら——


「また分かれ道だ」


 川手将史の声に四人は立ち止まる。彼らの行手には三叉路が現れていた。右は上り坂で、左は平坦な道が続いている。


「正規ルートだとこっちかな?」


 優等生の川手が手元の地図を確認して、左の道を指さした。


 尾長岳には複数の登山口があり、周囲の山から続く道が複雑に入り混じっている。標識もなく電波も通じないため、頼りになるのは配布された地図だけ。いくつもの分かれ道を一度も間違えずに進まなければならない。


(世界に誇るトップ企業だもんね。自前の山に設置した標識を取り除くなんて簡単なんだろう)


 友菜は富三郎の話を聞き流しながら、そんなことを思った。


 順調に進んでいるかに思われた登山だったが、小さな異変が現れる。

 四人の行手には川が流れていた。尾長岳を流れる猿伏川だ。


 いわゆる渓流型河川と呼ばれるもので、苔が生えたゴツゴツとした大きな岩の間を縫うように白い飛沫しぶきを上げながら流れている。


 問題は、この川の上に架けられた橋だ。


「正規ルートでは川沿いに上り坂があるはずだよね?」茉莉乃が言う。

「そうだね。坂を登ってから橋を渡ることになっているけど……」


 四人は右手にある斜面を見た。そこに道らしきものは見えない。


「ムムッ、道を間違えたか?」富三郎が言う。

「だとしても。今、俺たちがいるのは、ココになる」


 将史が指を置いた場所は正規ルートよりも標高が下の道。そこには上り坂はなく、橋が向こう岸まで架けられていた。現在四人がいる場所と同じ地形だ。


「う〜ん、でもどこで」

「渡邉さん、大切なことは『これから』を考えることだ。今、俺たちはココにいるだろう。橋を渡った先には上り坂がある。これを登っていくと……」


 将史は言いながら地図を指でなぞった。行き着く先には緑のペンで引かれた正規ルートがある。


「元の道に戻ることができる。引き返してもいいけど、それでは時間が無駄になるだけだ。先に進むことを考えよう」


 さすが一流大卒の優等生。正解を求めるスピードが桁違いだ。


 四人は川を渡り、川沿いの坂を登り始めた。緩やかなカーブを描きながらやがて猿伏川から離れていく坂道を。


 小さな不安を胸に抱え。




   ***




 2021年4月9日 午後2時57分。

 長野県尾長岳 登山道 標高2005m。


 うっすら雪化粧された道を進み続ける。


「ねえ、いったん戻ったほうがいいんじゃない?」


 友菜の心には〝嫌な予感〟があった。


 根拠はないが、社会人を三年続けて身につけた危機回避能力が叫んでいた。

 ——危ないぞ、と。


「いや、まだだ」


 それでも将史は頑なだった。


「坂を登って三つ目の交差路で正規ルートと交わる。まだ二つしか通過していないから、この先にもう一つ、あるはず……」


 息を弾ませながら彼は坂道を登る。


 歩き始めてから約二時間。メンバーには疲労が溜まり始めている。

 出発時はよくわからないうんちくを話していた富三郎もすっかり黙ってしまった。




   ***




 2021年4月9日 午後3時3分。

 長野県尾長岳 登山道 標高2030m。


 いよいよ気温も氷点下近くになり、吐く息が白くなってきた。足元の積雪量はますます高くなり、少しでも油断すると足を滑らせてしまいそうだ。


「見ろ。正規ルートとの交差点だ!」


 将史の声がして顔を上げると頬に水滴がつく。


 雨だ。


 気づけば周囲は雲で埋め尽くされており、視界不良となっている。


「みんな、急ごう」将史は強く地面を踏み締める。

「マジ、もう限界……」


 茉莉乃が泣き言を吐いても、一行は先へと進んだ。


 雨足は一歩踏み出すごとに強くなっていく。


 それでも優等生の川手将史は三人を鼓舞し続けた。


「大丈夫だ。この道をまっすぐ行けばゴールに……」




   ザザザ……

        ……ザザ




「————こちら、フューカインド人事部です」

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