第5話「全ての涙が滝へと変わる」

 羽坂友菜は先ほどの怯えが嘘のように澄んだ瞳をしていた。


「労働改革が進まないこの国では、八割以上の人が仕事にストレスを感じています(※1)。


 災害時ほど強いストレスはかかっていませんが、慢性的なストレス下に置かれていれば、正常性バイアスが起こる可能性は十分あり得ます。


 そんな状態で加入する火災保険。


 火災が起きても被害額が補償されるというサービスは間違いなく人々を楽観的にさせ、火の元を疎かにさせるでしょう」


「しかし、等級性を用いれば……」


「正常性バイアスに囚われた人は、自分に有利な情報に目を向けがちです。

 等級制度を設けても、果たして何人が読んでくれるでしょうか。

 それよりも彼らは『被害額』が補償される方に目を奪われるでしょう」


「…………」


 ここで初めて銀華が黙る。


 会議室内の視線が全て銀華に向かう。


 彼は無意識に奥歯を噛み締め、拳を力強く握りしめていた。


 頭をフル回転させ突破口を探すが、一つの(屈辱的な)事実が彼の思考を妨げていた。




   ハメられた!!




(あの表情。あいつは俺が仕掛けてくると予想してワザと誘導したんだ)


 背後から滅多刺しにしようとしたら、その腕を掴まれて一本背負いを決められたようなもの。


(嘘だろ! この私が!?)


 生まれて初めて感じる悔恨が彼の思考を阻害する。

 一方、会議室にいた新入社員たちは一連のやり取りを口を開けて見ていた。


「す、すげぇ」一人の声を皮切りに、

「マジかよ」

「相手は取締役だぞ」


 感嘆の声は瞬く間に広がり、ついには会議室の外から他の新入社員も駆けつける事態となった。


 好奇の視線が銀華に集まる。

 自分が醜態を晒しているという自覚が、彼の心をさらにかき乱した。


「くっ……」


 とうとう銀華が頭を抑えて俯く。

 室内にどよめきが走る。


 友菜はいまだに喋らない。ただ真っ直ぐに彼のことを見つめる。

 まるで銀華のことを見下しているかのように。


「このやろぅ……」


 誰にも聞こえないように小声で呟くと、彼は銀色の前髪をかき上げた。




   同時に鼻から息を吸う。




 まるで土石流のように思考を妨げるものを全て流し去り、全神経をに集中する。


 彼の雰囲気が変わったことに友菜はすぐ気づいた。


 さっきまでとは違う。

 まるで自分が喰われてしまうのではないかと錯覚してしまうほど、




 本能的な「圧」!




 友菜の額に脂汗が浮き出る。

 ここから先、一瞬でも気を抜いたら死んでしまう!

 そんな気がした。




 氷城の貴公子が口を開く。


「いいか、私は——」




   「プフッ!」




 誰かが、笑った。


 その高い声は辺りの空気をリセットさせる。


 全員が声の主を見た。


 そこにいたのは、

 銀華の秘書、黒梅鉄治だった。


 黒髪をツーブロックに刈り上げた彼は口元を押さえ、アイラインが引かれた目に涙を浮かべ、漏れ出る笑いを必死に堪えようとしていた。


「て、鉄治……?」

「もう、ギンカちゃん。……マジになりすぎ」


 上擦った声に銀華はハッとすると唇を真一文字に結んだ。


 顔はトマトくらいに真っ赤になっている。


 彼はトマトを銀色の前髪で隠すと、

「帰るぞ」

 と言って部屋から出ていった。


「ちょっ」


 友菜が声をかけようとしたところで、彼は立ち止まる。


「試験はやり直しだ。不合格者含め、一週間後にプレゼンの準備をしてくるように。テーマは……学生時代の研究内容だ」


 そう言い残して出ていった。


 ややあって……




   室内は歓喜の声で溢れかえった。




「すげぇ、取締役に勝っちまったぞ!」

「マジかよ、信じられねぇ」

「まだ、突破できるチャンスがある!」


 何名かは飛び跳ね、何名かは大きなため息とともに椅子や床に腰を下ろした。


(勝った……の?)


 徐々に噴き出す安堵を押し除けて、強烈な頭痛が友菜を襲う。

 まるで五寸釘で頭を刺されたような。


 友菜がよろめくと、先程まで泣きじゃくっていた女の子が支えてくれた。


「だ、大丈夫?」

「う、うん……」


 短時間で多くの知識を吸収することは友菜の脳に強いストレスをかけ、疲弊させていたのだ。


(むやみやたらに情報を出すことはできないか。もうちょっと使い方を考えないとな)


 なんてことを思っていると、目の前の彼女がモジモジと体を動かす。


「あ、あの……ありがとう」


 彼女の一言を皮切りに人々が集まってくる。


「ありがとう」

「さすがだよ」


 口々に言われる聞き慣れない言葉。


(こんなに感謝を言われたの、いつぶりだろう)


 前の会社では「ありがとう」なんて言われたことなかった。まるで人のことを感情のない機械だと勘違いしているようで、みんなぶっきらぼうに応対していた。


 だから、こうして真正面で感謝を伝えられると、どう対応すればいいか分からない。


 分からないから、

 友菜は少し困った笑みを浮かべた。




   ***




 新入社員が取締役を言い負かした。


 前代未聞のニュースは瞬く間に社内を駆け巡る。




   嵐が、来ようとしていた。




 快晴だった山間部には立て続けに積乱雲が線状に発生し、一時間に30mm以上の大雨を降らせた。


 視界はたちまち雨粒によって遮られ、

 土を、葉を、枝を穿つ音のみが周囲を満たす。


 その大雨の中に羽坂友菜は、いた。




 2021年4月9日 午後3時12分。

 長野県尾長岳 山中 標高2035m。


 土砂降りの中、道なき道を進む友菜と三人の仲間たち。


 数時間前、彼らは思いもしなかった。


 まさか、自分たちが遭難することになるなんて。






——————

※1:https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/r04-46-50_gaikyo.pdf


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