第4話「FAKEit〜討論開始!!」

 一歩前に踏み出す。


 銀華のことを見上げる。


 史上最年少の取締役は相変わらず笑みを浮かべていた。


「では、議題は何にしようか」

「最初の彼と同じ、モラル・ハザードで」


 モラル・ハザードとは危険回避のための手段や仕組みを整備すると、危機管理意識が薄れ、結果として危険が発生する確率が高まる状態のことである。


 たとえば、「うちの会社は財務状況を公表してないから、適当にやっても大丈夫だよね」と好き勝手経営している状態もモラル・ハザードの一種だ。


 モラル・ハザードは経済学の主分野の一つで、これまで数多くの先行研究がある。だが友菜は学生時代、経済学を専攻していたわけではない。モラル・ハザードに至っては、今日初めて聞いた単語だ。22で経済学の博士号を取得した彼と比べれば天と地の差である。


 それでも、彼女には勝つ確信があった。


 なぜなら——


(セヴァイン)

『はい、友菜さま』


 〝ディスプレイ〟が彼女の前に現れる。それは友菜にしか見ることのできない特別な〝ディスプレイ〟だ。


(モラル・ハザードで主要な議題を教えて)


 そう言うと彼女の視界を複数の〝ディスプレイ〟が埋め尽くす。


 公営企業の経営放漫問題、政府の過剰介入による金融システムの信用崩壊。


 友菜はセヴァインというアドバンテージは持っているものの、読解力は一般人と同程度だ。〝ディスプレイ〟の内容はほとんど一読しただけでは理解できなかった。


 それでも彼女は唯一、自分が理解できる議題を見つけた。


「『火災保険に加入した際、火災発生率は上がるのか』でどうですか?」

「単純明快でわかりやすいな。君はどちらで主張する」


 銀華のセリフに友菜の心拍数は上がる。


「……上がる方で」

「では、私は下がる方でいこう」


 モラル・ハザードは数多くの事例が報告されている。火災保険の例なんかは初学者に説明するときに使われるいい例えだ。


 すなわちモラル・ハザードは間違いなく起きるのだ。

 それでも——


「まず君から論を展開したまえ」


 銀華は余裕のこもった口調で彼女を促した。

 友菜は額に浮き出た汗を手の甲で拭うと口を開いた。


「火災保険に入れば、万が一火災が起きた際に保険金が支払われます。その補填が人々の心に緩みを生み、火を取り扱う際の注意力を低下させます。ゆえに、火災保険に加入すると火災は発生しやすくなると考えます」


 モラル・ハザードという用語はもともと保険業界で使われていたものである。この議題を選択し、かつ火災発生率が上がる側についた友菜の勝利に間違いはない


 ——かに思われたが。


「では、私のターンだな」


 鷲山は両手を手前に軽く広げた。

 途端に周囲の空気が変わったのがわかる。

 心拍数が一段跳ね上がる。


「確かに火災保険に入ることで慢心し、火の管理は疎かになるだろう。


 しかし、そこにリスクをつけてみてはどうだろうか。被害の補填に階級を設けるんだ。自然災害など契約者に非がない場合は全額を補填する。一方、契約者の過失によって火災が発生してしまった場合は一部のみ補填する。そうすれば、利用者は火の取り扱いに注意するはずだ」


 保険の内容に対する言及。実際に自動車保険の中には過去に起こした事故の回数によって保険料が変動する制度が存在する。彼が提示した案は、これを火災保険に当てはめたものだ。


 まさに剣士同士の対決で、後ろから斬り込んできた様相だ。


 しかし、友菜は焦らない。


 彼女はある〝ディスプレイ〟を前に持ってくる。


「……ですが、今度は補償される範囲内で事故を起こしても大丈夫と思うようになるはずです。いくら等級を設けたところで人は『保険に加入した』という安心感が芽生え、正常性バイアスが働きます。つまり自分は大丈夫だ、と思うようになり火の管理を怠るはずです」


 彼女が「正常性バイアス」という言葉を使った時、鷲山は笑みを浮かべた。


「正常性バイアスと言ったが、意味は合っているのか。正常性バイアスは災害など強いストレス下に脳が置かれた時に起きるものだ。ニュアンスが違うと思うが?」


 友菜はあからさまに怯えた表情をした。


(……やはり図星か)


 銀華は内心でほくそ笑んだ。すかさず——




 太刀経済学

   脇差心理学

     クナイ物理学

        マキビシ哲学

            カミソリ看護学




 自分が持ちうる武器知識を使って相手が二度と戦線復帰できないほど嬲ろうとする。


(この瞬間が一番楽しいんだ)


 銀華は男だ。


 舌なめずりをし、一気に畳み掛けようと口を開きかけた、

 そのとき——




「いいえ、置かれていますよ。現代人は」




 落ち着いた声が会議室を満たした。

 銀華はハッとして目の前の女性社員を見る。




 羽坂友菜は先ほどの怯えが嘘のように澄んだ瞳をしていた。

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