七.あらたへの

 それから一年、二年と夢の通い路は続き、千迅も烏帽子姿となったが、二人は未だ清い関係のままだった。


 二年もの間肌を許さない女など、普通の男は見限るだろう。しかしそこは夢、どこまでも茜子に都合のいいようにできているため、千迅の足が遠のくことも、無体を働かれることもなかった。


 千迅は辛抱強く、児戯ままごとに等しい逢瀬に付き合ってくれた。よしなしごとの問わず語り、彼は話し上手聞き上手だったが、茜子は自身の境遇については決して口を滑らせなかった。せめて夢の中では、神妻に相応しい気高い女王でいたかった。


 詩歌を詠み交わしたり、差し入れてくれた菓子や果物を楽しんだり。元が納戸だから、双六や碁で競ったり笛と箏の腕を披露し合ったこともあった。そんな他愛ないことで、茜子の心は充分満たされた。


 年が改まり、月日を重ね、そろそろ初夏も見えようかという風薫る夜。いつものように母屋に招こうとする茜子に、千迅は御簾の外から言った。


「たまには庭に出てみないか。満月の下、松にかかる藤が満開だ」

「でも……」


 屈託のない調子の誘いに茜子は逡巡する。築山の庭には、藤だけでなく花細はなぐわし桜やさつらうもみじなど四季を彩る花木が植えられているが、東北対で暮らし始めてから、茜子は邸の外は勿論、南庭にさえ出たことがない。


「大丈夫だ、邸の中なら問題ない。これから長雨の季節になると、俺はあまり通って来られなくなるから」

「……そうね」


 夢も雨障あまつつみするものなのか、言われてみると、雨や雪の夜に彼の夢を見たことはない。食い下がる千迅に、茜子も吹っ切れたように頷いた。どうせ夢なのだ、見咎められることもないだろう。


「ああでも、少し待って」


 立ち上がってなお裳裾と共に床に広がるほど長い髪を、腰の辺りで輪に括る。右手で袿と単衣の裾を絡げ(初花前に仕立てた袙衣はこの頃さすがに寸足らずになり、梓子のお下がりの袿を着ていたが、袴は切袴ほどの丈が却って動き易くそのまま穿いている)、左手に扇の盾を翳し、茜子はそっと妻戸より外に出た。その抜かりない姿に、千迅は軽く苦笑いする。


「……相変わらず、守りが堅い」

「あら、淑女たるもの、そう簡単に顔は晒せないわ」


 花見の誘いが半分は口実であることを見越して、茜子は扇の陰よりくすりと笑い返した。とは言え、ここまで来れば晒したも同然だ。抜かりなく準備された草履を履くときやさりげなく差し伸べられた手を取る際など、どうしても扇を下ろす瞬間が生まれる。


 八千種第の南庭は、枝葉や小石に至るまで計算し尽くされたような風雅な庭ではないが、あまり人の手が入らないことで、却って野趣に富んだ景観を生み出していた。梅こぼれて桜散り、今は藤、間もなく紫陽花が続くことだろう。


 釣灯籠の火も遠く、天満あまみつ月の下、ら咲きの花弁が仄白く浮かび上がり、あるかなしかの夜風にさやぐ様子は、まさに優美の一言に尽きた。


 中島にかかる橋から望む、月と星と風と花と。この夜のすべてがかぐわしい。


「……ねえ。番いって、いったい何」


 隣に立つ千迅を仰ぎ、茜子は今更のように訊ねた。


 不思議なもので、最初は茜子と同じ歳くらいだと思っていた千迅は、茜子が十六を数えた今、二十歳ほどに見える。それも以前訊ねてみたことがあるが、「鳥は雛の時期は短いが、成鳥すると、人の目には齢など知れないだろう? それと似たようなものだ」と、解るような解らないような回答が返って来た。


 加えて、普段は狩衣烏帽子という貴族の略装を完璧に着こなしているものの、実はあまり着慣れていない(という設定な)のか、たまに今夜のように髪を括っただけの姿で訪れることがある。茜子は彼を加冠前から知っているため目くじらを立てることもないが、本来とんでもなく非常識な格好だ。


 なのに不思議と気品は少しも損なわれず、花の香を運ぶ風に濡羽色の髪を遊ばせながら千迅が答える。


「要は妹背いもせ夫婦めおとのことだが……、俺たちの場合はまた少し違う。俺たちは、比翼だから」

「比翼?」


 聞き覚えはあるが耳馴染みのない単語に、茜子は眉をひそめた。大陸の伝説に語られる鳥。互いに片目、片羽しか持たないため、常に二羽並んで飛ぶのだと言う。……確かに、茜子も千迅も隻眼だ。しかし両腕は健在である。


「番いを見つけた比翼こそ我らの頂点に立つ者……そういう伝説が、各地の天狗たちの間で昔から語り継がれてきた。単なる言い伝えだと思われていたけれど、俺たちが産まれた」


 冠のない――――人ではない姿だからこそ、花誘う風に揺れる大振りの藤を背に立つ千迅は、さながら夜の精のようであった。


「俺と姫は、山と京で共に産まれた。そしてこれからは共に生き、共に死ぬ。俺は君なしでは翔べない、生きられない」

「…………」


 今まででいちばん熱の籠もった告白に、茜子は陶酔を通り越して若干たじろぐ。


(ちょっとこれは……設定が重すぎじゃない?)


 だが、垣間見の顔かたちや手蹟の人となりも知らないうちからとりことなる理由として、番いというのはなかなか巧い説明だと思った。……やや空虚な設定でもあるが。


 ひたむきな金の瞳に気後れし、茜子はつい目を逸らしてしまう。しかしそれすら好機とばかりに、千迅は肩越しに包み込むように腕を回して来た。


「だから姫も――――俺なしでは生きられないんだよ?」

「!」


 夜に映える声の密語ささめごとに、茜子は思わず抱擁を拒むような形で振り返ってしまった。それ以上無理強いはせず身を離した千迅は、耳まで赤くした茜子の反応に満足したように、長い長い髪を梳く。月の光の下で見るせいか、その指遣いはどこか艶めかしい。


 腕から逃れても、心は囚われたままだ。


「いずれは、姫の口からそう聞きたいものだ」

「……では、その日を楽しみにお待ちくださいませ」


 茜子もどうにか一矢報いようと、扇を口許に構え直し敢えてさらりと受け流した。だが千迅の口許に浮かぶ余裕の笑みは崩れない。


 しかし、右目からほろりとひとすじ頬を伝った茜子の涙には、さすがに動揺を見せた。


「どうした、急に」

「……大丈夫、なんでもないの」


 緩くかぶりを振りながら、茜子は扇を広げたまま蝉羽重の狩衣の袖に額を預ける。瑞々しい薫物の香は、山滴るこれからの季節にも彼自身にもよく似合っていた。


 千迅に求められるほど、茜子の胸に姉の言葉が甦る。


『茜子には一生、恋歌を贈ってくれる殿方なんて現れないもの』


 梓子の言うとおりだ。家族にも見放された化けものの茜子を過剰なほど一途に溺愛してくれる相手は、羨望と孤独と憧憬が生んだ夢の中にしかいない。


 現実であればよかったのに、などと贅沢は言わない。夢でもいい。夢で構わないから――――せめて覚めない夢であってほしい。この夜が明けなければいい。


 叶わない祈りと知りつつ、茜子はそう願わずにいられなかった。

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