六.うばたまの

 いくら夢に逃げても、現実が虚しいだけ。


 けれど現実は淋しすぎて、夢に縋りたくもなる。


 茜子はいつしか、三日と置かずに訪れる千迅の夢を心待ちにするようになっていた。


「本当は、毎晩でも来たいんだけどな。また乳母子に怒られた、御左様はまだ昼の世に暮らしていらっしゃるんですよ、って」


 確かに、彼の夢を見た翌日は興奮冷めやらぬのか、日中に転寝うたたねしてしまうことも珍しくなかった。このときばかりは、女房たちのいない暮らしでよかったと思ったものである。


「それで、あと何夜通えば、吾が妻は俺を夫として受け入れてくれる?」

「ただ通えばいいというものでもないわ。九十九夜の果て、百夜ももよに命を落とした公達もいるのですから」

「手厳しいな」

「だってわたしは神妻となるのでしょう? 婿がね相手とは言え、安売りはいたしません」

「だったら百夜でも千夜ちよでも通うまでだ」

「まあ、女一人口説くのに千夜もかかるの? 待ちくたびれてしまうわ」

「待ちきれないとは、可愛いことを言ってくれる」


 母屋へ招くことは拒みつつ、そう間を置かず対面は蔀越しではなく妻戸の御簾を挟んでのものとなり、更に茜子は時折、端近まで膝をいざったり御簾の下より袙衣の裾を覗かせたりと、焦らすような振る舞いを見せた。こんな強気な行動に出られるのも夢なればこそ。時に躱し時に誘い、諦めていた恋のときめきに、茜子は有頂天になっていた。孤独な幽閉の身でも、この目眩めくるめく夢があるから生きていられる。


 そして、山よそおう露霜の秋の夜長。


「ねえ。そろそろ外は寒いでしょう。……入って来てもいいわよ」


 くだる弓張の月を眺めながらの会話の切れ間に、茜子は日中の軒先に迷い込んで来た紅葉もみじばを扇に載せて御簾の下から差し出す。意表を衝けたのか、千迅の反応は数拍遅れた。


「……いいのか?」

「風邪などひかれては申し訳ないもの。……天狗様もお風邪って召されるのかしら?」


 几帳の陰に下がった茜子は首を傾げたが、千迅は構わず、紅葉を挿頭かざし御簾を揺らして母屋に入ってきた。几帳の裏に回り込もうとするのを、茜子はぴしゃりと押し留める。


「だめよ。それは、まだ駄目」


 茜子の制止に、ぴたりと千迅の動きが止まった。面白そうに問うてくる。


「まだ駄目、とは?」

「御簾の内に入ることは認めたけれど、まだ顔も肌も許す気はありません、ということ。しばらくは、几帳越しにお会いいたしましょう」

「なるほど……」


 短く唸り、千迅は几帳の向こうに座り込む。これで主導権は握れたかと茜子は忍び笑ったが、千迅もまた、不敵な笑みを浮かべた。


「……でも、そろそろかと思ってた」

「え?」

「さすがに京の冬、特に夜の寒さは厳しいから」


 立地の関係か、京の夏は暑く冬は寒い。茜子が招かなくとも、山眠る頃、千迅はそれを理由に入室を希ったに違いない。手玉に取ったつもりが、読まれている。


「だけどあかね姫は甘いな」

「え? ……っ」


 芸がなく同じ声を発した茜子は、不意に袖の中の指先に触れられて声を詰まらせた。几帳の隙間から千迅が腕を差し入れ、無防備だった茜子の指に己のそれを絡めてきたのだ。


「俺がその気になれば、こんな几帳もの、すぐに払いのけてしまえるのに」

「やっ……」


 袖の中で蠢く指に、茜子の首筋がぞくりと粟立つ。だが茜子が本気で怯える様子に、指先はパッと離れた。


「冗談だよ、冗談。姫が俺をからかうから、ちょっとからかい返しただけだ」

「あ…………、っもう、ちはや様!」


 今更腹を立てても遅い。茜子の怒りを笑い流し、千迅は茜子の指を辿った指で、几帳の脇、出衣いだしぎぬの上に流れる黒髪を愛しげに浚う。


「まあいずれ、冗談ではなくなるけど」

「…………っっっ」


 感情の起伏が追いつかない。今夜は茜子の完全敗北を認めざるを得なかった。


 しかし続く千迅の言葉に、その考えすら甘かったと思い知る。


「だって、あかね姫はもう初花を迎えたんだろう? 俺の子を身籠る準備はできてるんじゃないか」

「!」


 一気に顔に血が上った。


 初花とは、その年に初めて咲く花、或いは若く美しい女性の意だが――――初潮の隠語でもある。


 実は、茜子のほうが梓子よりも一足先に初花が来た。だがそれと同時に左目が化けものになったため、裳着も行われず、茜子は未だに裾が短めの袙衣と濃袴を着ているのだ。


(なんだって、名前も知らないのに、そんなことは知ってる設定なのよ!)


 夢に整合性を求めるのも無理な話だが、自分で自分を殴りたい。


 茜子は大きく息を吸い、吐き、努めて平静に、几帳の向こうにいる千迅に語りかける。


「……ちはや様、ちょっとそこに座り直してください。いやもう本当、真剣に」

「?」


 千迅は茜子の意図が掴めない様子ながらも、素直に指示に従った。茜子も改めて端座し、重々しく口を開く。


「ちはや様。本当にわたしがほしいと仰るなら、女心の機微と言うか人間じんかんの常識と言うか、もっとこう、婉曲の美徳というものを学んでください。いいですか」

「は?」

「いいですね」

「……はい」


 畳み掛ける茜子の静かな迫力に、千迅は妙に畏まった面持ちで頷いた。


「わかったよ、取り敢えずこの話は棚上げだ。……しかし姫はどうして、こんな古くて殺風景な部屋に住んでるんだ?」


 ぐるりと首を巡らせた千迅は、また早速遠慮のない感想を述べる。いくら夢でも急な矯正は無理かと、茜子は溜め息と共に答えた。


「仕方がないの。寝殿は邸の主人あるじ、北対は妻君めのきみ、東対は、太子を東宮と言うように後継あとつぎ……この邸だと大姫様のご在所なの。ここには西対がないから、必然的にわたしの部屋はこの東北対になるの。姉妹でも、後継が優遇されるのは仕方のないことよ」


 勿論、最大の理由は化けものの左目なのだが、その事情は省略して説明する。「ふうん」と千迅は短く相槌を打った。


「だったら、今度は何か調度品を贈ろうか」

「ありがとう。楽しみだわ」


 虚しさを押し隠して茜子は笑う。夢でいくら素晴らしい品を贈られても、現実の部屋には飾れない。


 一夜明けて格子を上げた室内は、当然変わらないみすぼらしさで、解ってはいるが茜子は落胆した。その心を映したように、白い有明の片割れ月もどこか淋しげに見える。紅葉も、朝餉の膳と共に片付けられてしまったようだ。


 しかし一月後。


「喜びなさい。この屏風、差し上げるわ」


 そう言って梓子が東対より家人たちに運ばせてきたのは、一隻六扇の屏風。地色はごく淡い朱色と藤色で、桔梗や撫子、女郎花など秋の七草が描かれている。


「大社から贈られたのですけど、わたくしの趣味ではありませんの。だいたい、もう冬になろうというのに秋の七草だなんて」


 よくよく見ると、七草に紛れ、小さく茜の花が描かれている。なるほどこれは、たとえ仲秋の頃であっても梓子のお気に召すものではないだろう。許婚からの贈り物を即座に処分するのも気が引けるが、女房たちに季節外れの調度を下賜するのは女主人の沽券に関わるということで、化けものの妹への施しという妥協点に落ち着いたらしい。


 このところ、梓子はあまり機嫌がよろしくない。大社の若君と文の遣り取りを始めて半年以上経つのに、未だ当人の訪いがないからだ。


(わたしのところには足繁く通ってくださる方がいるわよ。……夢でだけど)


 茜子は心の中で張り合ってみたが、虚しさが増しただけだった。


「それでも、化けもののおまえには過分な品よ。ありがたく受け取りなさい」


 そう言い捨て、礼さえ待たず、梓子と家人たちは去っていった。有無を言わさず押し付けられた逸品を、茜子はしげしげと眺める。


 茜子は秋の生まれだと聞いている。その季節を代表する草花に、こっそり紛れた茜の花。若君の意図は不明だが、確かにこれは、梓子よりも茜子に誂えたような品である。


 そうして思い出されるのは、一月前の夢の言葉。


『だったら、今度は何か調度品を贈ろうか』


(……わたしにも、姉様のように、未来を夢に見る通力が顕れた?)


 だとしても、突然の覚醒の理由が判らない。


 だが二日後、三日月の沈んだ夜に夢を渡ってきた千迅が、飾った屏風を見て嬉しそうに右目を細めていたから、とりあえずよしとしようと茜子は思った。

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