八.あづさゆみ
照る月が中天に差し掛かる頃、御簾の下りた母屋の中、梓子は目を覚ました。胸元を軽く押さえながら身を起こすが、女房たちは皆熟睡しているのか、御前に馳せ参じる気配はない。
唐突な目覚めは、夢見のせいだ。
熱病から奇跡の快復を遂げたのち、梓子は時折、月夜に揺れる枝垂れ桜の下に佇む人物の夢を見るようになった。
最初は、梓子と同じか、少し年少の少年だった。それが季節の巡りと共に成長し、今では梓子よりも年長に思える、長躯の青年である。
何かを語りかけているようだが、声は切れ切れにしか届かない。聞き取れたのは、「吾が妻」「護り」「訪ねる」などと断片的な言葉ばかり。
そして彼の夢を見ると、決まって、胸元の羽根の形の痣が仄かに熱を帯びるのだった。
夢解きするまでもなく、夢の訪ね人は、自分を恋い慕う者。裳着の直後に埴山大社から
この縁は山神にも認められたもの。それどころか、山神こそが審神者を通じて梓子を望んでいるのかもしれなかった。古来より、神と人との婚姻譚は枚挙に暇がない。
……そうでなければ、二年も訪いのない相手など、とうに切り捨てている。
相変わらず文は頻繁に寄越すし、正月の
けれど、こちらがどれほど思わせぶりな文を返しても、当人は一度も訪ねて来なかった。
気に障るのはそれだけではない。暗闇の中、梓子は
どういうわけか、若君の歌は、「あかねさす」という枕詞を詠み込んでいるものが多かった。確かに「日」「昼」「月」「君」など、かかる単語は多いが、数多ある中から、何故よりにもよってそれを選ぶのか。
たとえば。
あかねさす きみをみそめし かのよるの はなのかをこひ いまもかぐはし
初めてあなたを見た夜を忘れられない――――もう一度会いたい
それに対し梓子は、敢えて己にゆかりある枕詞を用いた歌を返した。
あづさゆみ はるにたまひし はなふみは いまもかぐはし たどりきたらむ
春に初めて梅の枝と共に贈られた文を今も大切にしています、その残り香を辿り、訪ねてきてください――――
勿論名を記してはいないが、薄様の色は葉の青、梓の枝に結んで送った。しかしそれ以降も「あかねさす」ばかり散見し、「あづさゆみ」を詠んだ歌は一首もない。そもそも文を記す薄様も紅や紫がかった紙が多く、反物なども同様の傾向にあった。
(早く結婚して、この家を継ぐ子を成さなければならないのに)
幼い頃より「鬼祓う姫」として多少名が知れていたこともあって、若君のほかにも懸想文はいくつか届いた。けれどそれは、既に妻妾も子女もある公達のつまみ食いであったり、任地で私腹を肥やしただけの
東北対で侘しく暮らす化けものの妹は、梓子ばかりが父母に愛され幸せだと思っているだろう。
けれど梓子は知っている。両親の、特に父尚方の親心は、そんな無償の愛ではない。
幼い姉妹が立て続けに熱病に倒れ、顔と胸に痕が残ってしまったとき、彼は嘆いた。揃ってこれでは婿取りも望めない、我が家はお終いだ、と。
それでも父は父。だから梓子は、己の価値が失われることを怖れ、無能な妹を過剰に貶めもした。そうすれば自分は、自分だけが、父の自慢の娘でいられる。
男にとって、所詮女は家のための駒。己の
それでも、京に生きる以上、その呪縛からは逃れられない。
目が冴えてしまい、梓子は褥を出た。衾としていた袿をしどけなく羽織り、黒髪の乱れもそのままに、御簾をくぐって枢戸から簀子縁に降り立つ。
振り
深まった夜の底で蛍なす藤の花群れに目を遣り、その手前に架かる反り橋で身じろぐ影に視線を向ける。
月明かりの中、闇に隠れたるものどもを見通す梓子の目に、それは金色に光る目を持つ一羽の大柄な烏のように見えた。
……違う。二羽の烏が、一羽に見えるほど睦まじく寄り添い合っているのだ。
傍ら寂しき一人寝の夜を幾つ数えたか知れない梓子は、互いを恋い番う烏に忌々しげに背を向け、枢戸の内へと戻っていった。
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