満月の夜に烏 ～山神様の番（つがい）は、姉ではなく私だったようです

四．つるぎたち

　しかし夢見が良ければ良いほど、夜明けの現実は虚しいもの。

　今日は一宮両社の北祭が行われる日で、尚方と小百合、梓子は揃って見物に出かけていった。主だった女房や家人たちもそれに付き従い、一町四方の八千種第に、茜子は一人ぽつんと取り残される。

　別に毎年のことなのだが、昨夜は幸せな夢を見られた分、落差が大きく孤独が身に沁みた。泔（ゆする）で髪を梳る女房たちが、化けものの世話から気を紛らわせるように語り合う、祭の賑わいや居並ぶ牛車の雅びやかさなども、ひときわ心をささくれ立たせる。

　だから夕餉を済ませた茜子は、陽が沈むと寝待ちの月も待たず早々と敷妙の床に就いた。こんなときは、あれこれ思い悩むより寝てしまうに限る。……叶うなら、昨日の夢の続きが見られると嬉しい。

　そして深夜の夢の中、コツコツと蔀格子を叩く音がした。

　茜子はむくりと褥より身を起こす。灯台に幽（かそ）けき火が入ったものの室内に人の気配はなく、半蔀の上を僅かに押し上げると、簀子縁に烏帽子のない人影が俯いて座っているのが見えた。

「……天狗の若様？」

「……昨夜は、すまなかった」

　左目の疼きを覚えながら問いかける語尾でそう呼ぶと、昨日と同じ清冽な余韻を残す声は、やや萎れた様子で開口一番に謝罪を述べた。

「気が急いて、いきなり室内に押し入って顔を見て、あわよくば契りを交わそうとまでして……本当に、申し訳ない」

「な……」

　そんなあわよくばまで考えていたのかと、あまりに明け透けな告白に、茜子は上蔀から手を離し昨夜の比ではないくらい赤面した。茜子とて、昨年までは淑女としての嗜みを女房に懇々と教え込まれていたのだ、男女の営みについての知識は多少なりとある。

　だが、項垂れた千迅を詰るのはお門違いだろう。すべては茜子の夢、我ながらどれだけ飢（かつ）えているのか。

　茜子の自己嫌悪を余所に、再び閉じた蔀格子の向こう、千迅は憔悴気味の口調で続ける。

「昨日、山に帰って、乳母子にしこたま叱られた。御左様（おひだりさま）は未だ人間（じんかん）にあるのだから、人の世の慣わしに則って求婚すべきと自制されたのは若様でしょう、四苦八苦して詠んだ慣れない歌も、贈り物をお届けしているあたしたちの苦労も水の泡じゃないですか、と」

　郷に入れば郷に従えと言うことか。御左様という呼称の由来は不明だが、蔀越しの詫び言を聞きながら、夢なのに結構設定が細かいな、と茜子は妙に感心していた。先人たちのように筆の遊（すさ）びに物語を記してみるのもいいかもしれないが、そのための紙など誰も用意してくれまい。

　ここは三世女王らしく器の広さを見せようと、茜子は鷹揚に返す。

「まだ娶る前から、主君の妻（め）がねをそれほど慮れるなんて、若様は好い乳母子をお持ちね」

　この設定も、乳母共々離れていった自分の乳姉妹への意趣返しだろうか。

　茜子の淑やかな声を受け、千迅は蔀の外で居住まいを正したようだった。

「昨夜のことは、謝る。だけど一度会ってしまった以上、今までのように文を待つだけでは耐えられない。これからはこうして、格子越しに訪ねることにする」

　詫びている裏で、訪いを許せと、なかなか強引に距離を詰めてきている。案外、悪い気はしなかった。

「だからせめて、通称（あざな）だけでも教えてくれないか。吾が妻や吾妹子（わぎもこ）だけでは味気ない」

　遠慮しているようで押してくる。昨夜の印象どおり、彼のほうが茜子より手練れかもしれない。

「そうね……、では、若様がちはや様ですから、枕詞繋がりで、あかねと呼んでくださいな」

　殆ど本名に等しい通称を提案したのは遊び心だ。既に名を、心を許す準備ができていることを、彼だけが知らない。……何より、この七年、蔑む声で名を呼ばれ続けた記憶を、少しでも塗り替えたかった。本来は、愛情を込めて贈られた名のはずだ。嫌いになりたくはない。

「あかねさす君か。佳（よ）い通称だ」

　ちはやぶる神はそう笑い、衣擦れの音と共に立ち上がる。

「今夜はここまでにしておこう。直（じか）に通称を聞けただけで大収穫だ」

　押して押して、最後にあっさりと引く。名残惜しさを感じたのは、むしろ茜子のほうだった。

「ではまた、次の芳（よ）き夜に」

　その声が合図のように、灯台の火が尽き、蔀戸の外の気配が去る。

　しばし二度目の逢瀬の余韻に浸り、茜子は髪を箱に整えて褥に戻る。後宮とまでは言わずとも、名のある家の女房にでもなれれば、この妄想力こと物語の才を生かせたのかもしれないなと思いながら、未練がましく瞼を閉じた。