三.かたいとの
埴山大社からの文や贈り物は、その後も引きも切らずに続いた。
そのたびに梓子も、やれ金銀砂子の絵巻物だの舶来の硯だの萌黄の
ただ、尚方の言うとおり今は焦らしている最中なのか、文は交わしても訪いを許してはいないらしい。そんな惚気と、ついでに厭味を昨日も延々と聞かされ、茜子は今日も不貞腐れた心地で眠りに就いた。
それが、
夜更け、茜子は不意に目を覚ました。常の眠りと異なる夜半の寝覚めに、己の勘の鋭さと正しさを知る。
蔀格子を閉ざし、茜子一人しかいないはずの室内に、人の気配を感じた。
「だれ……っ」
声を出すのは悪手かもと思い直しても後の祭り、茜子が気づいたことに気づいた闖入者は、すかさず茜子の小夜衣の袖を掴んで囁いた。
「騒がないで」
歳若い男、いや少年の声だった。それが夜、断りもなく寝所に忍んで来て、騒ぐなと言うほうが無理というもの。化けものの左目が奇妙に疼いた。
「いやだ、離してっ」
「嫌だ」
身を起こした茜子の拒絶を、闖入者は一言で却下する。
「……やっと会えた」
まるで、この暗闇でも茜子の姿が見えているかのように、彼は安堵の息を漏らした。更に、不躾な問いを投げかけてくる。
「名は?」
「……『たそかれと とふくれよりも うばたまの やみはあやなし かげさへしれず』」
茜子も、変なところで三世女王の矜持が顔を覗かせ、質問に歌で返した。墨染めの
とは言え、神経を逆撫でしては危ういかも、と、またも茜子は口を開いてから後悔したが、むしろ感心したような苦笑混じりの涼やかな声が
「……これは手ごわい」
油の尽きたはずの高灯台に、不意に火が灯った。闇が淡く払拭され、扇で隠す
闖入者は、声の印象どおり、茜子と歳の変わらない少年だった。元服前なのか、水干の頭上に烏帽子はない。ひたすら怯えるばかりの茜子を間近で見つめ、少年は相好を崩す。その顔は、幼さを残しながらもほぼ完璧に整っていたが、ひとつだけ欠けたものがあった。
「お揃いだな」
そう言って、少年は黒い布で眼帯を施した自身の左目を指差した。寝るときも左目に白布を巻いたままの茜子は、改めて問いかける。
「……あなた、誰」
「突然すまない。だが、何度文を送っても直接返事がもらえないから、堪らず会いに来てしまった」
「は……?」
身に覚えのないことを言われ、茜子は呆然とした。少年は、残る右目をやわらかく細め、上の句を口ずさむ。
「――――『ちはやぶる かみのもたせる わがいのち』」
「こ……『こころもすべて きみがためこそ』」
硬い声で下の句を返しながら、茜子は、これは夢だと思った。恋歌を贈られる姉を羨む心が見せた、玉響の慰め。
そうでなければ、少年の右目が月を映したような金色であることの説明がつかない。
それにしても、自分は思っていたより面食いで、図々しいようだ。いくら夢とは言え、これほどの美形に、姉宛ての恋歌で口説かれようとは。
「俺は
更に安直で、何より不敬だった。名前は歌そのまま、素性は姉の許婚が祀る存在という設定と来た。
単衣の袖を離さないまま、千迅は熱心に言い寄る。
「俺は名乗ったぞ。名を聞かせてくれ」
こうなったらとことんお高く振る舞ってやろう、と茜子は決めた。所詮は夢、現実では叶わない男女の駆け引きを楽しんでみたい。
「まだ夫でもない殿方に、そう簡単に女の名は教えられませんわ」
これは女に限らず男もだが、この貴族社会で
茜子のつれない返しに、千迅も負けじと言い募る。
「君は俺の
大層な自信である。いや、彼は茜子の夢の産物なのだから、正確には茜子の自己愛が尊大に過ぎるということだろう。現実で軽んじられ続けた反動かもしれない。
「ではあなたは、初対面で易々と名を明かすような軽薄な女が
「……そう来るか、面白い」
高飛車な茜子の物言いに、千迅は挑むように笑みを刷いた。今は直接言葉を交わしているが、本来は文で押して引いて互いを翻弄することこそ、恋の醍醐味だ。夢でくらい、
「わたしがほしいのでしょう? だったら、口説き落としてみせてよ」
昼日中には絶対に言えないことも、夜の夢の中なら言える。
「
今宵の敗北を認め、千迅は惜しみつつ茜子の袖を放した。しかし茜子が勝利を確信した隙を衝き、衣越しではなく直接、手に掌を重ねて耳許で囁く。
「俺は君を諦めないよ。絶対に、手に入れる」
「……っ」
不意打ちの体温、睦言に、茜子の心の臓が大きく跳ねた。瞬時に顔が火照り、白布の下が熱くなる。
「また来るよ」
また来てもいいかという懇願ではなく、また来るとの宣言を残し、千迅は掛け金をかけていたはずの妻戸から退出した。茜子も、三世女王としてせいぜい気位高く応じたつもりだったが、彼のほうが一枚上手だ。
しばらくは腰が砕けたように動けなかったが、頬の熱冷ましに茜子も妻戸から外に出た。既に水干姿はなく、月下に姿を見せた茜子を咎める目もない。夜の
簀子縁をのろのろ巡っていると、頭上の空を、
山へと帰る光りを見送り、今夜はいい夢が見れたと、茜子は上機嫌で屋内に戻った。
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