一.ふゆごもり

 今は昔。


「茜子、ちょっと寝殿にいらっしゃい」


 梓子が茜子を呼びに来たのは、姉妹の父である従四位下尚方王ひさかたおうが茜子を東北対に押し籠めた半月後、山笑う頃だった。


 それまでの、数少ないながら乳母めのと乳姉妹ちきょうだいなどの女房たちに常時傅かれてきた暮らしは、その日を境に一変した。以降、蔀や膳の上げ下げ、髪洗いなど最低限の用事でしか人の姿を見ることはなく、茜子は一人侘しく新年を迎え十四の歳を数えた。


 父の気が変わり幽閉を解かれるのかと一瞬期待した茜子だったが、東対のすぐ裏とは言え直々に東北対を訪れた梓子の表情に、現実はそう甘くはないことを思い知る。


 ひとつ歳上の、つい先日裳着を終えてひときわ匂い立つように華やいだ姉は、相変わらず、茜子を見下す愉悦の色を漆黒の双眸に宿していた。


「いいものを見せてあげるわ」


 扇の陰でそう嘯くと、黄の単衣ひとえと青の袿を着こなした梓子は妹の返事を待たず踵を返し、渡殿をしずしずと戻っていく。茜子に拒否権はなかった。小袖袴に辛うじて袙を上衣うえぎぬとして重ね、先触れもないまま姉の衣擦れを追う。


 足運びはいかにも気が重かった。この七年、梓子の微笑みが茜子にとって吉事をもたらしたことなど一度もない。


 それでも、梓子に遅れて訪れた寝殿の様子を目の当たりにして、茜子は思わず瞳を輝かせた。


 南庭に開けた廂の間いっぱいに堆く積まれていたのは、この八条千種第で見たこともないような高価な品々。螺鈿細工の筥や香炉、色鮮やかな反物に神々しいほど白い紙の束といった日用品から、米や魚や菓子や酒やらの食料品まで、これまた漆塗りの懸盤などに恭しく乗せられ、所狭しと並べられている。


 親王を父に持ちながら未だ蔭位で授かった従四位下の神祇権伯、かつて八千草の蔓延る庭と称された邸には、家計が持ち直した今なお目に毒なほどまばゆい光景だ。品目を検めている家司や女房たちも頬が紅潮している。


「どうしたんですか、こんな立派な」


 思わず口を滑らせた茜子だったが、父母も姉も咎めはしなかった。むしろ殊更に見せつけるように、尚方が嬉々としていらえる。


「おまえも言祝げ、梓子への熱烈な求婚だ」

「恥ずかしいですわ、お父様」


 梓子が扇に隠れて頬を染めるが、その口調もまた誇らしげだ。


 確かに裳着は、婿取りの準備が整ったことを示す儀礼。けれど出自が貴いだけの八千種邸に、裳着を終えてすぐ、しかもこれほど財のある相手から求婚されるとは、尚方も梓子も嬉しい誤算だったに違いない。


「……おめでとうございます、姉……大姫様」


 弟姫おとひめの茜子も、まずは型どおり祝いの口上を述べる。彼女を「姉様」と呼ぶことは半月前に禁じられた。同様に、父母も「大殿様」「北の方様」と呼ぶように命じられている。


 まだ自慢したくてうずうずしている梓子の様子を見て、茜子は彼女の望む言葉を続けた。


「それで、お相手はどのような公達なのですか」


 半ば義務のように問うた茜子に、梓子は待っていましたと言わんばかりに嫣然と笑う。蕾から花開いたそのかんばせは、女御更衣も斯くや、天女の如く美しい。けれど茜子にとっては毒花だ。甘い姿で心を蝕む。


「聞いて驚きなさい、埴山大社はにやまのおおやしろの若君よ」


 歳若き公卿の火遊びか、はたまた貴人あてびとに憧れる裕福な刺史くにのかみか、と考えていた茜子は、予想外の相手に大きく瞬いた。


 みやこの乾を護る霊山に鎮座する埴山大社は、皇室の祖神おやがみでもある男神と女神が最初に産んだ八柱の長子を祀る火防ひぶせの社。艮、巽、坤の三山と共に京鎮護の社として朝廷みかどより従一位の神階を賜り、市井の崇敬をも集め、参詣の人波が絶えることはない。そこの宮司家であれば、位階はそれほど高くはないが、それを補って余りある財力と威光がある。


 何より、求婚の第一手からこれほど豪勢な贈り物を寄越してくるのだ。麗しい噂を聞いたかかぐわしい姿を垣間見たか、若君はよほど梓子に惚れ抜いているのだろう。


「こんな歌も贈ってくださったのよ」


 恥ずかしい、の台詞はどこへやら、喜色満面で梓子は茜子に文を見せびらかす。梅の花枝に結ばれた紅重の薄様をほどくと、薫物の香りと共に流れるような仮名文字がしたためられていた。


  ちはやぶる かみのもたせる わがいのち こころもすべて きみがためこそ


 神より授かったこの命も心もあなたのためのもの……あなたを愛するために私は生まれてきた――――


「まあ……」


 茜子は素直に感嘆する。


 辛うじて枕詞は用いられているものの、洒落た技巧もない凡作だ。けれどその分、まっすぐ心を射る勢いがある。それは送られた梓子も同じだったのだろう、まんざらでもない顔をしている。そしてそこには、求婚で満たされた自尊心と妹への当てつけ、ふたつの喜びが浮かんでいた。


「羨ましいでしょう? 茜子にはきっと一生、どんな駄作でも恋歌を贈ってくださる殿方なんて現れないものね。そんな を持っていては」


 茜子から文を取り返し、梓子は袖の陰でいつものようにうふふと笑う。それが幕引き、もう口を開くなという合図だ。幽閉の原因である左目を白布で覆い隠した茜子は、残る右目で俯く。


「しかしさすがは我が娘、神に仕える斎き者の心をこうもたやすく奪うとは」


 項垂れたもう一人の娘など既に眼中にない様子で、尚方は梓子を褒め称えた。母の小百合さゆりも浮き足立った面持ちで同調する。


「使者の方がすぐにお帰りになられたということは、きっと明くる日にでも、返歌をいただきにいらっしゃるに違いないわ。梓子、すぐに文を書きなさい」

「もちろんですわ。ああでも、なんてお返事いたしましょう」

「すぐに求愛に応じては駄目よ、こういうのは駆け引きを楽しむものでもあるのですから」

「そうだぞ、思わせぶりな態度で、せいぜい相手を煽り貢がせるのだ。いかに大社の宮司家とはいえ、我が父が帝位についておればそなたは女王、もしかしたら内親王でさえあったのかもしれないのだからな」


 なんとも浅ましく、見栄ばかりが先行する尚方の言に、しかし梓子も小百合もなおもはしゃぎ立てる。


「昨日の夜は鳳凰が庭に降り立つ夢を見ましたの、きっとこのことを暗示していたんだわ」

「そうね、神祇官の娘、陰陽師のように森羅万象を読み解く通力を授かったあなただもの。半端な公達より、神の下僕しもべのほうが相応しいかもしれないわね」


 三人とも、もう茜子に用はないらしい。むしろぐずぐず踏みとどまっていると、「いつまでいるつもりだ」と叱責されそうだ。茜子はただ無言で一礼すると、くるりと衣を捌き、幸運と興奮に沸き立つ寝殿を辞した。

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