29話

 結局俺は、一人で涌井の家に戻ることにした。


 川崎が謎の男に追いかけられ、というか川崎自身が謎の多い男ではあるのだが、とにかくあのやくざ者のような風体の男から逃げて行方をくらませてしまったため、俺は一人で途方に暮れていた。


 しばらくして、一人でも涌井の家に行って話を聞くべきではないかと思ったのは単にそれしかやることがなかったからというのもあるし、それ以上に俺を逃がすために囮になってくれた彼に対し、このまま帰ることへの後ろめたさがあったからだ。

 まあ、元から標的は川崎だったみたいではあるが。


 再度涌井の家を訪問すると、当然というべきか、一度エントランスの鍵を開けたのに俺たちがなかなかやってこない事を涌井は疑問に思っていた。

「新手の苛めかと思いましたよ」

 と心配そうに言うものだから、俺は部屋に上げてもらうなり、まずは事の一部始終を説明しなければならなかった。


「なるほど、それは大変でしたね」

 ひとしきり話を聞くと、涌井は口を付けていたアイスティーをコースターに戻し、俺を労う。


「この階に住んでる奴なんじゃないかと思うんだけど、涌井は知ってるか?」

 先ほどの開襟シャツの男がこのマンションの住民なら、涌井は何か知っているんじゃないかと思い聞いてみたが、彼は首を横に振る。


「残念ながら見たことないですね。同じマンションでも、他の住民との付き合いなんてほとんどないですよ。お隣さんですら、たまに顔を合わせる程度ですから」

「まあそうだよな」

「ちなみに、どんな風貌の男だったんですか?」


 初対面ではあったが、追いかけまわされただけあって特徴は仔細までよく覚えていた。白い開襟シャツや綺麗に整えられた顎鬚、腕に刻まれた入れ墨など、事細かに涌井に説明する。

「わかりました。このマンションの住民かはわかりませんが、用心するようにしときます」


「それにしても、ほんと広くて綺麗な部屋だよな」

 涌井の部屋を見渡すと、感嘆のため息が出る。


 外観からして瀟洒しょうしゃだったマンションの内装は、やはりと言うべきか、気品と言うか高級感があった。板張りの床が伸びている部屋は、軽くキャッチボールが出来そうなくらいの広さだ。

 整理整頓も行き届いており、ミニマリストというわけでもないだろうが、ベッドやテーブル、クローゼットなど生活に必要な家具以外に物がなく、洗練されていると言えば洗練されているし、味気ないと言えば味気ない。

 掃除も丁寧で、意地悪く棚の上やテレビの裏など埃が溜まりやすそうな所に目を向けてみても、塵一つ見つけられない。

 ここに住んでいるのが、俺と同じ男子大学生という生物であることがにわかに信じがたい。


 お茶請けにどうぞと出されたヨックモックのシガールを一本取り齧る。舌触りのいい甘みと濃厚なバターの風味が口一杯に広がる。

 友人が訪ねてきただけでヨックモックとは、大して高くもないえび煎餅を出し渋っていた俺なんかと比べると、やはり駅族は器が違う。


「それで、今日は川崎優香さんについて話を聞くために来たんですよね?」

「ああ。さっき話した事情につき、聞きたがってた兄本人は不在なんだけど」

「そもそも、島村君は川崎さんとお知り合いなんでしたっけ?」

「いや、全然。川崎さんが涌井と同じ憲法ゼミだってのも、さっき渡海に聞いて初めて初めて知ったくらいだ」

「ああ、渡海くんですか」

 涌井はわずかに顔を曇らせた。


「それでだな、率直に言ってしまうと川崎さんの失踪にゼミ生の誰かが関わっているかどうか、それを確かめたい」

「つまり、川崎さんがゼミの誰かとトラブルを起こして、それが原因で拉致あるいは殺害されてしまっているんじゃないか。そう疑ってるわけですね?」

 流石は涌井というべきか、察しがいい。

「疑っているというほどでもないんだが、まあ可能性はなくはないと思ってる」


「容疑者には僕も入っているわけですか」

 冗談なのだろうが、涌井は少し寂しそうに言う。

「まさか」

 俺は両手を開き、否定の意を示した。

「信用しているからこそ、涌井に話を聞きに来たんだよ」

「そう言っていただけてありがたいですよ。やはり島村君はいい人ですね」

 涌井は心底安心したように微笑んだ。


「そう言っていただけたところでとても心苦しいのですが、やはり僕としても川崎さんが失踪した原因というのは、皆目見当がつかないですね。ゼミ内での彼女の様子も、特別おかしなことはありませんでした」

「ああ、やっぱりそうか」


 駄目で元々、というつもりではあったが、涌井が最後の砦と思っている節があったのは事実だったため落胆は思いのほか大きい。


「あのさ、涌井。この際だから、色々聞いちゃうけどさ」

 それでも俺は往生際悪く、話を続けた。


「涌井のゼミって、女子が川崎さん一人のオタサーの姫状態だったんだろ?」

「オタサーの姫……。まあ、そうですね」

 俺の陳腐な例えがウケたのか、涌井が噴き出す。


「男子は涌井以外みんな川崎さんに好意を寄せていたって聞いてるけど」

「そうですね。傍から見ていてもわかりやすかったですよ、あれは」

「何かトラブルの火種というか、川崎さんと、あるいは男子同士とかで揉め事はなかったのか?」

「それはなかったと思いますよ」

 無慈悲に思えるほど、涌井はあっさり断言する。


「本当か? 何でもいいんだ。アプローチがしつこかった奴とか、何かにつけて川崎さんに付きまとってる奴とか、そういう奴はいなかったのか?」

「それを言ったら全員がそんな感じでしたけど、だからって連れ去ったりとか殺してしまったりとか、そんな大それたことをするとはどうも」

「いや、でも些細な動機が大きな事件に発展するなんてこともなくはないだろう。むしろ、社会や人類のためにこいつは生かしておけなかった、なんて理由で殺人を犯す奴の方が稀だ」

「それを言ったら否定はできないですけど。そもそもの話、恋愛絡みのトラブルかどうかもわからないんでしょう?」


 そう言われてしまうと、正論すぎて言葉に詰まる。

「まあ、そりゃそうだ」


 確かに、言われてみれば俺は痴情のもつれ説にこだわりすぎていた節はある。

 というより、あまりにも他に情報がなさすぎたため、これしかないと決めつけてしまっていた。


「それにしても、島村君がそこまで前のめりになって人のプライベートな話に首を突っ込むのも珍しいですね」

「まあ、な」

 そんなことを言われるとなんだか急に自分が下世話な人間になって気がして恥ずかしくなる。


「いや、まあ人命がかかってるかもしれない事だしな。正直言って、今はこれしか手掛かりがないんだ」

 言い訳するように言うと、涌井は考え込むように黙る。

 しばらくして、こう切り出した。

「島村君、そもそもゼミ生が怪しいって言っていたのは誰なんですか?」


 はて誰だったかと記憶をたどってみると、一番ゼミ生が怪しいと騒いでいたのは川崎だ。一人ずつ呼び出して問いただせばいいなんて物騒なことも言っていた。

 ただ、それは渡海から話を聞いたからで、そういった意味では渡海ということになるのか? 


 そのあたりの経緯を、誤解が生じぬよう丁寧に涌井に説明した。彼は絶えず真剣な面持ちでそれを聞いていた。


「なにか、誘導めいたものを感じますね」

 話を一通り聞き終えた涌井の第一声が、それだった。

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