第26話


「おい、マジかよ」

 川崎は自分でも信じられない様子だった。

「一体どうなっちまったってんだよ、俺の身体は」

 悪い夢でも見ているかのように呟いている。


 俺だってあの全身真緑だった河童が、頬にニキビを浮かべた普通の青年になっただなんて自分の目の方を疑いたくなる。

 カニマンの変身を一度見ていなければ、あるいはカーペットに撒き散らされた大量の透明な粘液を目の当たりにしていなければ、「トリックだ!」と一笑に付していたに違いない。


「な? 言っただろ」

 拓郎は自慢げな顔を隠そうともしない。


「絶対こいつ適当なこと言ってると思ってたんだけどな」

 川崎は水かきのなくなった自分の掌を見ながら、目を丸くしている。

「なあ、本当にこれが河童から人に戻る一般的なやり方として知られてるのか?」

「まあ、そうですね」

 俺は適当に返事をした。


 拓郎が家に帰った後、川崎にはシャワーを浴びてもらい、俺はその間に床の掃除をしていた。

 昨日に引き続き、今日も掃除が必要なほど汚されているのだからカーペットとしては溜まったものではないだろう。

 なぜ床にビニールを敷いておくなり、風呂場で変身してもらうなりしておかなかったのだろう。自分の学習能力のなさに呆れるばかりだ。


 ただ、これによって拓郎と川崎の変身が同じ原理によって為されているのではないか、という自分の推理にますます確信を持ちつつあった。


 どういう理屈かはわからないが、彼らは変身する時に全身から大量の液体が分泌されるのだ。

 カニマンの時は泡状で、河童はシロップのような透明な粘液だという微妙な差異はあるが、これは大きな共通項と言っていいはずだ。


「おい、島村。シャンプーもう全然ねえじゃねえか」

 川崎がシャワーから上がってくる。


 人間の彼は体格がよかった。俺が貸したTシャツも腕や胸が窮屈そうで、肌は自然に日焼けして浅黒く、元野球少年というのも頷けた。

 側面が綺麗に刈り上げられた短髪と薄い眉が柄の悪さを演出していたが、目元はつぶらで柔らかく、口調の粗さから予想していたほど悪どい顔つきではなかった。

 あと、本人には言えないけれど、確かに少し魚面に見えなくもなかった。


「おい、あいつは一体何なんだよ」

 床に就いて電気を消すと、川崎はぼんやりと呟いた。

「あいつって言うと?」

「餅井に決まってんだろ。あいつはちょっと変わってる」

「ちょっとじゃないですよ。かなり変わってます」

「お前が買い物に行ってる間、奴と色々話したんだけどよ」

 その色々の中に、カニマンの事は含まれていないだろうなと不安になる。


「パトロール中に俺を見つけただなんてなんかの冗談かと思ってたけど、お前ら本当に街を見回りしてたらしいな。大学生ってのは暇なのか?」

「全国の大学生の名誉のために言っときますけど、そんなことはないです。日本中探しても、拓郎くらいですよ」

「お前もだろうが」

「俺はまあ、あいつのマネージャーにさせられてしまったので」

「はぁ?」

 川崎は意味が分からないという声を出しながらも、それ以上は掘り下げてこなかった。


「でもまあ、お前たちに拾ってもらって助かったわ」

 川崎は安堵の息を漏らしながら言った。お礼じみた事を言われるのは、これが初めてだったと思う。

 人間に戻ることができて、よくやく気持ちが落ち着いてきたというところだろうか。

 命拾いした、とも言った。


「俺たちも見つけた時はびっくりしましたよ。まるで動かなかったから、生きてるのかわからなかったですしね」

「九死に一生ってのは、まさにああいう事だな」


 そこで川崎は、思いついたように言う。

「なあ、頼みがあんだけどさ」

「はあ、なんですか?」

「今晩だけじゃなくて、しばらくの間俺をここに泊めてくれないか?」

「え?」


 俺は少なからず驚いた。一度は意地でも家に帰ろうとしていたにもかかわらず、今になってそんなことを言い出すのはなぜなのか。

 まさか六畳一間のこの部屋と来客用の安物布団が、離れがたいほど心地よかったという訳でもあるまい。

 

「いや、それはちょっと」

「頼むよ、俺とお前の仲じゃねえか」

「今日会ったばかりですよ」

「生活費分くらいの金は払うからさ」

「お金はあるんですか?」

 聞いたのは別に宿泊料の交渉をしたかったからではない。

 俺と拓郎が川から救出した時点で、川崎は見るからに手ぶらで荷物という荷物をまるで持っているように見えなかったからだ。


「悪いが、今はねえんだ」

 川崎は「今は」の部分を強調して言う。

「多分、川に飛び込むときに財布をどっかに落としちまったんだろうな」

 拾われてないといいんだが、と口惜しそうに言う。

 そこで俺は、違和感を覚える。


「川に飛び込んだ、ですか?」

 聞き返したのは、さっき川で流されていた理由は覚えていないと、彼が言っていたからだ。飛び込むという言い方は、能動的な行為を表しているように聞こえる。

「それは……」

 川崎の声が泳いでいるのがわかる。


「うるせえな。言葉の綾だ。一々そんなことで揚げ足取るんじゃねえよ」

 面倒くさくなったのか、「もういい。今の話は忘れてくれ」と突き放すように言った。


「それより、明日俺に会う奴ってのは、本当に優香と仲が良かったんだろうな?」

「さっきも言いましたけど、あくまで知り合いかもしれないというだけです。ただ、顔の広い奴なんで、最悪そいつが直接知り合いじゃなくても、妹さんの友達くらいは紹介してくれると思いますよ」

 今日会った山田や里中のように、渡海は他学部の人間とも付き合いがあったりする。だから同じ学部内で全く伝手がない、というのは考えづらいと思っていた。


「頼むぜ、俺はもう他に縋る当てもねえんだからよ」

 探偵も雇っているというのに大げさな言い方だと思うが、それだけ妹の身を案じる気持ちが強いということなのだろう。川崎の出す声はかすかに震えていた。


「妹さんとは仲良かったんですか?」

「まあ、それなりだな。ガキの頃はよく一緒に遊んだもんだけど」


 おおそうだ、と川崎は忘れかけていた失くし物を見つけたかのような声を出す。

「そういえば、俺が小坊のときにあいつと河童を探しに行ったことがあったな」

「河童を、ですか」

「変わった奴だったんだよ、優香は」

 川崎はこれまでになく愉快気に話す。


「あれはなんだっけかな、ガキ向けのヒーロー番組かなんかで河童の怪人が出てきた話があってよ。怪人って言ってもそんなに悪い奴じゃなくてな。ただはぐれた息子を探していただけの親河童だったんだが、子供が人間に捕まっちまって」

「もしかして、仮面カイザーですか?」

 その話は俺の頭の中にも薄ぼんやりと記憶に残っていた。それで、確か子河童の方が人間に酷い迫害を受けて、とかそんなあらすじだったはずだ。


「そうそう、それそれ。そうか、お前も見てたのか」

「でもその回って、あんまり気持ちのいい終わり方じゃなかったですよね」

「そうなんだよ。頭の皿が剥ぎ取られた子供の姿を見て、結局親の方はキレちまうんだよな。それで人間に手をかけて、泣く泣く仮面カイザーが倒したって話だ」

「そこまで救いのない話でしたっけ」

 俺は川崎ほど詳細には覚えていなかったため、その結末を聞きなんだかやるせない気分になる。


「それで、その仮面カイザーの話と妹さんにどういう関係が?」

「話の最後に一人残された子河童がな、親の死を知らないまま『お母さんどこ?』って言いながら川に帰っていくんだよ。優香はそれを見て、泣きながらこう言ったんだ。『さっき死んじゃったのはお母さんだけだから、きっとどこかにお父さんがいるはず』だってな」

「それはまあ、なんとも合理的ですね」

「あいつは俺と違って頭がよかったからな。言われてみればその通りだなと、その時は感心したもんだ」

「まさか、だからその子のお父さんを見つけてあげるために探しに行ったってことですか?」

「な? 変わってるだろ?」

「それに黙ってついていく川崎さんも川崎さんですよ」

 シスコンですねと言うと、川崎は「馬鹿言うな」と笑った。


「あの頃は妹と河童を探しに行ってたっていうのに、今はまさか自分が河童になって妹を探すようになるとはな」

「ちょうどいいじゃないですか。河童の姿で妹さんと会えれば、どっちの目的も達成できますしね」

「それは絶対にお断りだ」

 川崎は苦々しく言う。


「妹さん、見つかるといいですね」

 川崎は、ふんと鼻を鳴らすだけで返事はしなかった。

 その代わりに、「世話かけてすまなかった」と聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぼそっと呟くのが聞こえた。


 ほだされた、という言い方が正しいかわからないが、根が悪い人ではないのだろうなんてこのとき思い始めていたことは確かだった。


 突如川から流れてきて不可解な言動を繰り返す河童人間を家に招き入れ、同じ部屋で布団を並べて語り合っていることに、俺はもっと疑念を持つべきだったのだ。


 この時の俺がもう少し用心深かったなら、あるいはもっと共感性に欠ける人間であったのなら、この事件があのような顛末を迎えることもなかったのかもしれない。


 



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