第二章 河童とカニマン
第12話
目が覚めると、俺は椅子に座っていた。
いや、座らされていたという方が正しいだろうか?
腕と胴体は背もたれにロープで、足は前脚にガムテープでそれぞれ括りつけられていた。身動きが全く取れない。
「さあ、早く教えてくれませんか」
目の前の男が言った。
仮面を被っているわけでもないのに、何故かその素顔は見えない。
「何の話ですか?」
そう言った瞬間に、頬に強烈な痛みが走った。
口の中が裂け、血の味がする。殴られたのだ。
「とぼけないでください」
男の声は人のものと思えないほど冷たかった。
「貴方は知っているはずです」
「知っている?」
何を? とは聞かなかった。
自分でもそれを隠している自覚があったし、隠し通さなければならないということを理解していた。
ばん、という音と共に激しい衝撃があった後、視界が直角に横転する。
床に倒れてから、椅子ごと蹴られたのだということに気付く。
「私だって本当はこんな事したくないんですけどね。貴方がいけないんですよ」
男はどこからか、チェーンソーほどの大きさの巨大な鋏を取り出す。
刃をぱっくり開くと、刃元を俺の首に宛てがった。
「もう一度聞きます。カニマンの正体を教えてください」
カニマンのマネージャーを鋏で殺そうだなんて、皮肉もいい所だなと思う。
「俺ですよ。俺がカニマンの正体です」
俺が答えると、男がグリップに力を籠めるのが見えた。
刃がゆっくりと首の皮膚に食い込んでくるのがわかる。
そこで視界が暗転した。
目が覚めると、俺はベッドの上にいた。
酷い夢を見ていたような気がするが、内容は思い出せない。
どうせ拓郎の厄介事に巻き込まれたとか、そういう夢だったのだろう。
厄介事と言えば、結局昨晩は高架下の空き地に戻った後、およそ1時間にわたる大捜索を行ったが拓郎のリュックが見つかることはなかった。
拓郎とはそこで別れ、俺は帰ってくるなり眠りに落ちてしまったらしい。
スマホを見ると、朝の九時だった。
一コマ目の講義は完全にアウトだが、十時過ぎからの二コマ目には間に合うだろうといった時間だ。
ベッドからむくりと起き上がると、体は鉛で出来ているかのように重い。昨日に起きた出来事の数々を考えれば、さもありなんといったところだ。
いつもであれば、面倒くさくて午前中は丸々休んでいたかもしれない。
それでも結局、二コマ目の比較政治学からは学校に行くことにした。そう決めたのは、昨日があまりにも非現実的な体験ばかりで、日常的な空気が恋しくなったというのもあるし、何より西山先生のありがたいお話を二度も聞き漏らしてはなるまいと思ったからだ。
教室に着くと、涌井を見つけた。
大半の学生が後方の席を陣取っている中で、一人教壇の目の前にぽつんと座る姿は目につきやすい。
同じ三人掛け席に着席し、挨拶をする。
「今日はちゃんと来たんですね」
「まあな」
「一コマ目いなかったから、午前中は休むものだと思ってましたよ」
涌井はそう言って笑った。
黒縁メガネをかけ天然パーマの髪が激しくうねっている彼は、博士号を取るような秀才にも、偏屈な芸術家にも見える。
実際、成績はいつも「秀」か「優」らしく、単位を取ることに精一杯の俺や拓郎からしてみれば雲の上のような存在だが、何故か馬は合うようで校内では行動を共にすることが多かった。
「あれ? そういえば拓郎は?」
いつも講義は真面目に出席している彼の姿が見えない。昨日の働きぶりを考えれば今日学校を休むことくらい許される気はするが、それにしても珍しい。
「今日はまだ来てませんよ」
「一コマ目も?」
「いませんでしたよ」
てっきり一緒にいるものだと思ってたんですが、と涌井は首を傾げた。
「珍しいですね。島村君ならともかく、餅井君が講義を休むというのは」
「そうだな」
前科が多すぎる俺は反論も出来ず、ただ肯定するだけだ。
「ところで島村君」
涌井が思い出したように言う。心なしか声が弾んで聞こえた。
「島村君は知ってますよね? カニマンのこと」
「え?」
自分の中に緊張が走るのがわかる。
何故そのことを俺に聞く? と焦らずにはいられない。
「いや、知らない」
俺は即答した。
まさか、今俺たちが話題にしていた男がそうだよ、などと言えるはずもない。
「そうですか。最近、この辺によく現れるっていう謎のヒーローなんですけどね。よく夕方のニュースに出てるので、知ってるかと思ったんですが」
「ああ、そういうことか」
安堵のため息を吐く。
「それなら俺も知ってるよ」
「それならって、どういうことですか」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
カニマンの正体について聞かれたわけではなかったらしい。
そりゃそうだろう。我ながら恥ずかしい早とちりだ。
「じゃあやっぱり島村君も、昨日のあれ見ました?」
「あれって言うと?」
言いながら、マンションの火事の事だろうと、大方予想は出来た。
「島村君、ニュース見てないんですか?」
涌井が信じられないという顔をする。
「昨日バイトがめちゃくちゃ忙しくてな。今朝もさっき起きてすぐ家出たから」
「なるほど、それはお疲れさまでした」
「なあ涌井、昨日何かあったのか?」
我ながら白々しいなと思いながらも、あえてとぼけてみる。他人の目から見て、あれがどう映ったのか気になったからだ。
「私たちのカニマンが大活躍だったんですよ」
涌井は目を輝かせながら言う。私たちの、とは随分な心酔ぶりだ。
「昨日の夜、S市内で火事がありましてね。マンションがそれはもう地獄の業火の如く燃え盛り……」
涌井は昨日の火事について、いかに危機的状況で、いかにカニマンが活躍したかを滔々と語った。話によると今朝の全国ニュースでも昨日の火事、そしてカニマンの活躍が報道されていたらしい。
「S市民の星であるカニマンが、遂に全国デビューですよ」と嬉しそうに騒ぐ。
「なんだよ。涌井はカニマンのファンなのか?」
「それはもちろんですよ、島村君。彼はまさしく真の正義の人なんですよ」
「いや、そんな大した奴じゃないと思うけどな」
「何を言ってるんですか。島村君は昨日の彼の活躍を見てないからそんなことが言えるんですよ」
確かに、昨日の拓郎の活躍には目頭を熱くさせられたところはある。正体を知らなかったら、もっと感動できたのになとも思う。
「カニマンはね、きっと良心と相互扶助の精神を失った現代社会に一石を投じるべく、ああやって人助けをしていると思うんです」
「いやぁ、そこまで大層な目的を持ってるわけじゃないと思うんだけどなぁ」
「きっとその素顔は誠実で高潔で、モラルと人間愛に満ち溢れた人物に違いありません」
涌井の恍惚とした表情で語った。
正体を知ったら、さぞがっかりするに違いないと思う。
と、そこで「西山先生まだ来てない? ギリギリセーフか?」と声がした。
噂をすれば影、とはまさにこのことだなと思う。
「おはようございます、餅井君」
「よう、涌井」
拓郎は現れるなり、「島村ちょっと詰めて」と言って無理矢理同じ三人掛けの席に座ってくる。「他にも空いてる席沢山あるだろ」とあしらうが、まるで聞く耳を持たない。
「あれ?」
拓郎が着席したタイミングで、俺はあることに気づく。
「お前、そのリュックは」
拓郎が持っていたのは、彼がいつも所持しているリュックサックだ。
チャックが嚙んでいたり布地が破けていたり、傍から見れば十分買い替えに値する代物であるが、拓郎は「愛着」の一言で入学当初から使い続けていた。これ以外の鞄を拓郎が持っているのなんて見たことがない。
要するに何が言いたいかというと、昨日失くしたはずのリュックサックではないか、という事だ。
「見つかったのか?」
「ああ、交番行ったら届いてたよ。やっぱり日本もまだまだ捨てたもんじゃないな」
拓郎は嬉しそうにリュックに頬擦りする。なんなら、そのままキスまでしかねない勢いだ。
「だから言っただろ島村。心配するほどのことじゃないって」
「まあ、そうだな」
俺も胸をなでおろす。昨日の大捜索は何だったんだと言いたくなるが、無事に返ってきたなら、それに越したことはない。
「何の話です?」
事情を全く知らない涌井は疑問の声を上げる。
「いや、実はな。昨日の夜このリュックを失くしちゃってさ」
拓郎はそう言って、失くした場所の説明をする。そこまで言う必要ないんじゃないか、と思ったところで涌井が案の定反応する。
「それって、昨日火事があった場所のすぐ近くじゃないですか」
「おお、そうなんだよ」
「もしかして、カニマンの活躍を現地で見ていたんですか?」
涌井の目に好奇の光が宿る。
何やら話が面倒なことになりそうだという予感があり、拓郎に目配せする。
黙っていたら、こいつは余計なことをべらべらと喋りかねない。なんなら、自分からカニマンの正体であることを言いかねない。そう思ったからだ。
「ああ、いや、たまたま通りがかっただけだよ」
俺の言いたいことが伝わったのか、拓郎は落ち着いた声でそう答えた。
「カニマンだっけ? なんかすごかったらしいな」
その上、そんな白を切るような真似までしてみせた。いつも脳より脊髄で言葉を出しているような拓郎が、と思わず感心してしまう。
「そうなんですよ、カニマンは本当にすごかったんですよ」
涌井はまた昨日の出来事について語りだす。
一度俺に説明しているにもかかわらず、涌井の口ぶりはさっきと同じかそれ以上の熱量を伴っている。
やはり、カニマンのマネージャーは彼にやってもらった方がよかったのでは? と思ってしまう。
「ほら、今朝、ツイッターのトレンドにも入ってたんですよ」
スクショしたんです、と言って涌井は画像を見せようとスマホを差し出す。
「おお、マジか」
拓郎が感嘆の声を上げる。
これはまた拓郎がますます調子に乗りかねないぞ、そう思っていたのだが、予想に反して画像を見た彼の顔は曇っていく。
その表情が不可解で、思わず俺も涌井のスマホを覗き込んでしまう。
だが、確かに画面には『日本のトレンド』、『カニマン』とある。何が不満なのかわからない、そう思ったところで拓郎がぽつりと呟いた。
「ちくしょう。3位か……」
なるほど。こういうものは順位付けされているのか。
よく見てみれば『カニマン』より上に氷見可憐の名前と、彼女が主演を務める映画のタイトルがあった。
さすがのカニマンも、人気アイドルには勝てないらしい。
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