第9話
『カニマンです。火事の現場にカニマンが現れました』
リポーターの上擦った声が響いた。
カニマンは、あろうことか走ってきた勢いそのままにマンションのエントランスに突っ込んでいく。
あまりにもごく自然に走り去っていったため、周りの消防士たちは彼を制止するのが遅れそのまま素通りさせてしまった。
『カニマンが燃えているマンションの中に入っていってしまったのですが……』
リポーターも困惑を隠せず、言葉は尻切れになっていた。
建物の中は延焼がひどくて入ったらまずいんじゃ……
そう思った直後に、服に付いた火の粉を払いながら慌てた様子でカニマンがマンションから飛び出してきた。
声が聞こえなくても、拓郎が「あちぃ! あちぃよ!」と叫んでいるのがわかる。
「何やってんだよ、あいつ」
だがそこでカニマンは諦めなかった。
今度はマンションの外側から側面へと回り込み、確信を持ったかのように頷くと、外壁に付いた排水管に手をかける。
『カニマンがマンションの外壁を登りはじめました。取り残された子供の救出に向かうつもりなのでしょうか』
カニマンは木登りの要領で、外壁の排水管にしがみつき、上の階を目指して登り始めた。しかしだ。
『突如として現れたカニマンですが、登るペースは速くないですね』
カニマンは必死に管をよじ登ろうとしている。
ただ、その動きは軽快さとは無縁で、ひどく鈍い。登り棒の遊具で遊ぶ小学生の方がまだ速いくらいだ。
『一般人が危ないですよ。コスプレなんかしてヒーローにでもなってるつもりかもしれませんが、早く立ち退かせたほうがいいんじゃないですか』
スタジオのキャスターの言い草に少しむっとする。だが、言い分としては正しい。
彼らからすれば、自分勝手な蛮勇で災害現場に乗り込んできた迷惑な一般市民に過ぎない。ただ、俺はあいつが普通の人間じゃないことを知っている。
「拓郎、言われてるぞ」と心の中で檄を飛ばす。
「猿じゃなくて蟹だからね。木登りは領分じゃないんだよ」
店長がフォローになっているかわからないことを言う。
だが確かに、彼の腕は鋏なのだ。排水管を掴むのに適している訳がない。
何でそんな不便な造りになってるんだよと思うが、それはもうカニマンだからというほかない。
それでもカニマンは必死に上に向けてよじ登っていた。
「頑張れ、頑張れよ拓郎」
思わず口からこぼれる。うっかり実名を言ってしまい焦ったが、店長はテレビに釘付けでそのことを気にした様子はない。
カニマンは頑張っていた。
何度も手を滑らせ落ちそうになりながらも必死に管に食らいつき、一歩ずつ、いや一鋏ずつと言うべきか、とにかく少しずつだが着実に登っていく。
気付けば3階あたりまで到達していた。
『あと少しでカニマンが子供のいる階まで到達します』
リポーターもいつの間にか、カニマンの一挙手一投足をひたすら実況していた。
もうすぐ、もうすぐだ。
俺だけでなく、他の誰もがそう思っていたに違いない。途絶えかけた希望が一縷の光として消えずにかろうじて残っている。
カニマンが登っていた排水管が根元から折れたのはそんな時だ。
ぼき、と管が破損する音がはっきりと聞こえた気がした。あるいは観衆の心の支えが折れた音だったかもしれない。
折れた配水管が、根元を支点にマンションから離れていく。いやにそれがゆっくりと感じられた。
拓郎が管から手を離したのが見えた。バランスを崩し、掴んでいられなくなったのだと思った。
しかし次の瞬間、拓郎は右腕を4階のベランダの壁に向けて、拳を繰り出すように強く放った。先端の鋏が、勢いよくガラス面を突き破る。
直後、折れた管は敷地内の駐車場にばたりと倒れこんだ。
しかし、そこにもう拓郎はしがみついていなかった。彼は、腕をベランダに突き刺したままぶら下がっていた。
『カニマンは無事です。必死に食らいついています』
テレビの中から歓声が上がる。
3階から出ている白煙と火の粉をその身に受けながら、拓郎はなんとか体を引っ張り上げる。そして、遂に子供のいる部屋のベランダに立った。
その身に纏う黒のジャージは火に焼かれボロボロだ。アシックスのロゴはきっと見る影もないのだろう。
「すごいね、カニマン。本当にすごい」
店長が感嘆の声を漏らした。
全くその通りだ。
カニマンの奮闘ぶりを見て、何も思わない人間などいるはずがない。
何がラッキーだ。何がヒーロー気取りだよ。あいつは命懸けじゃないか。
そこから先は、スムーズに救助活動が展開された。クライマックスを終えて、エンドロールに向けて話を畳んでいくかのように時間が流れる。
カニマンは子供を救出し部屋から戻ってきた。ちょうどその頃梯子がようやく架けられたため、子供はカニマンから消防士に渡され搬出されたのだった。
カニマンの腕の中で抱きかかえられていた子供は、ヒーローを見るような目でカニマンを見つめていた。
テレビの画面の中では、カニマンが梯子を降りていく。消防士に誘導されながら、ゆっくりと一歩一歩、足場をしっかり踏みしめるように降りている。スタジオではキャスターやコメンテーターが彼の所業を口々に賞賛していた。
それをただ見ている俺の足元は、ひどく不安定で覚束ないように感じられた。
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