第8話

 外から戻ると、いつも厨房にいる店長はカウンターの前でぼんやりと立って、テレビをじっと見つめていた。


「店長、ビール持ってきました。何本か冷やしときますね」

「おお、ありがとね」

 快活な返事を返してくれたものの、店長はこちらを見ることもなく視線をテレビに向けたままだった。

 ビールを数本取って冷蔵庫の中にしまうと、俺もテレビの見える位置に向かう。


「火事ですか?」

「そう、市内だって。結構近いよ、ここ」

 画面には、揺らめく橙の炎とそこから立ち上る白煙が映し出されている。左上の隅には、「LIVE」の文字と、S市の地名があった。

 建物は、アパートと呼ぶべきかマンションと呼ぶべきか悩むくらいの中背の建物で、築年数もそれなりといったところだろうか。

 特に火が激しいのは3階あたりで、中の様子が全く窺えないほどの煙を吐き出している。


『現場はS市の住宅街です。周りには多くの住民が集まり騒然としています』

 現場のリポーターが鬼気迫る面持ちで現場の状況を伝えていた。


「これはひどいね」

 店長が眉を顰めながら言う。俺も「ですね」と相打ちを打つ。


 こういった火事や、事故、災害などのニュースを見るのが俺は苦手だった。「世の中には今こんなに苦しんでいる人がいるのに、あなたはのうのうと暮らしてていいですね」なんて言われてる気がしてならないからだ。


『S市S区にある住宅地の5階建てのマンションが燃えているという事です。私、今現場から50メートルほどの所にいるのですが、すごい熱気が漂ってきています』


「中に人はいるのかな?」

 店長が不安げに言う。

 スタジオのメインキャスターが、現場のリポーターに住民の安否を尋ねたのは、それとほぼ同時だった。


『ほとんどの住民は元々不在かすでに避難して安全が確認されたようですが、4階に住んでいる家族の十歳の子供が中に残っている可能性があるという事です』


 リポーターが告げた事実に、俺と店長、そしてテレビの中のスタジオの空気が重く沈むのがはっきり感じられた。

 タイミングがいいのか悪いのか、そこで、4階の一室の中で呆然としている子供の姿が画面上に映し出された。


 思わず、「ああ」と声に出しそうになる。

 その子供に見覚えがあったからだ。さっき拓郎と河原を歩いていた時に、ボールを拾ってあげた男の子だ。まさかこんな形でまた目にするとは。


 先ほど十歳と言っていたが、怯えたその姿はそれより幼く見える。 

 俺が算数の授業でどうしても分数ができず泣き喚いていたくらいの年齢で、あの子供は死の恐怖と対峙していた。


『やはり子供がまだ部屋に取り残されているようですね』

『幸いまだそちらの部屋にまでは延焼していないようですが、いつ燃え移るかわからない状況です』

『すでに中から救出に向かっているのでしょうか』

『いえ、出火場所は3階と思われ、建物内部には既に激しく火がまわり、立ち入りは困難なものと思われます』

『ベランダに梯子をかけて救出できないんでしょうか』

 リポーターとキャスターのやりとりの応酬が続く。


 画面の中では、子供のいる一室がずっと映されていた。「そんなところで見てないで早く助けて」と叫んでいるように見え、胸が痛む。


 はしご車が現れたのは数分後の事だった。マンション前に停められた赤い巨躯が頼もしく見える。

「店長」

「うん」

 これで子供は無事に救出される。そう確信した。というより、そうでなければ嘘であるといった気持ちだった。


 リポーターが叫んだのはその時だ。

『ああ、今、子供のいる部屋から煙が』


 3階から延焼したのか、これまで無事に見えていた4階の部屋からも白煙が立ち込めている。かろうじて見えていた子供の姿も見えなくなってしまった。

『梯子はまだ出せないんですか』

 キャスターの声には焦燥が滲む。

『周囲の安全確認に時間がかかっているようです』

 梯子はいまだ動く気配を見せていない。

 煙の勢いは秒を追うごとに増していく。建物の中で雲の乱気流が蠢いているかのようだ。


 大丈夫だよな? 助かるよな? と、誰に対してでもなく問いかける。

 だってあの子は株と不動産で悠々自適に暮らすんだろ? こんなところで人生が終わるなんて駄目じゃないか。そう叫びたくなる。


 ああ、だから不幸なニュースは嫌いなのだ。

 人の悲鳴を聞き、人の泣き顔を見て、それでも最終的に「結局のところ無関係の他人事じゃないか」と割り切る自分が嫌になる。


「頼むよ。早く助けてやってくれよ、誰か」

 気付けば、そんなことを口にしていた。


『ちょっと、君』

 突如、テレビから声が聞こえたのはその後だった。


 ずっと子供のいる部屋を映していたカメラが、視点をマンションの足元に切り替えると、その中に颯爽と動く一つの黒い影があった。

 規制線をハードルのようにひょいと飛び越えて、何の躊躇いも見せずまっすぐマンションへと近づいていく。

 燃えているマンションに、だ。


『近づかないでください。危険です』

 拡声器を通した甲高い声が聞こえた。ハウリングがうるさく響く。

 呼びかけは明らかにその人影に向けてのものだったが、まるで聞いている様子はない。


 その姿を見て、俺は息を吞んだ。

「なあ、島村ちゃん。あれって」

 店長が目をぱちぱちさせて俺の方を見る。

 思わずあいつの名前を口に出してしまいそうになるのを堪え、代わりに言った。


「ええ、カニマンです」

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