第5話
結論から言って、拓郎は本当にカニマンであった。
目の前で変身されては、もう否定のしようがない。
そう、彼は変身したのだ。
「島村、麦茶飲む?」
「お前はそれを言う立場にないからな? 飲むけど」
拓郎が麦茶をお盆に載せて持ってくると、俺たちはテーブルをはさみ向かい合う。
この訳のわからない状況を一つ一つ整理していかなければならない。
さっきまでシャワーを浴びていた拓郎は、カニマンから人間の姿に戻っている。
どうやら、カニマンに変身する時だけでなく、人に戻るときも変身汁は排出されるらしく、全裸で変身しなければ着ている服がびしょびしょになるのだという。
変身汁と言えば、一応掃除はしたものの、カーペットにこびりついた強烈な蟹の臭いはあまり取れてはいなかった。洗濯機にかければ幾分かマシになるのかもしれないが、今洗濯どころじゃないのは明らかだ。
目の前で友人が異形の怪物に変貌して、それでもなおカーペットに沁みついた臭いの方が気になるという奴がいるのならば、ぜひ見てみたい。
「聞きたいことは色々あるんだけど」
「何でも聞いてちょうだい。年齢と体重以外なら答えてあげるわよ」
拓郎は気色悪く体をくねらせながら言う。
「ええと、まずさ、お前の体は大丈夫なのかよ」
拓郎のあまりにも能天気な態度に逆に不安を感じたのか、最初に口から出たのはその質問だった。
「どっかおかしくなってたりするんじゃないのか?」
「いや、ないな」
一瞬考えた様子を見せたが、ほぼ即答だった。
「ないってことはないだろ、だってお前、全身蟹人間になってんだぞ」
「蟹人間じゃなくてカニマンって呼んでくれ」
「頭が痛いとか、息が苦しくなるとか、なんかあるだろ」
「ないんだな、これが」
「肌はどうなってんだよ。さっき触ってみたけど、硬かったしイガイガだったし、マジで蟹みたいだったぞ」
「そりゃカニマンだからな。普段はつやつやのもちもちよ」
「カニマンになってるときって、どんな感じなんだ?」
「ああ、俺カニマンになってるなぁって、そんな感じだな」
俺はため息を吐く。
化け物のような姿になって不安がるどころか、むしろ面白がっているのではと思うくらいあっさり答えるものだから唖然としてしまう。
「あ、でもこれ、健康診断には引っ掛かっちまうのかな?」
そんなどうでもいい事を気にしている始末だ。
納得がいったとは言い難いが、もう本人がそれでいいなら、と思う事にした。
「それで、何でお前はカニマンになったんだよ。ザムザよろしく、朝目覚めたらいきなりカニマンになってたってわけじゃないだろ?」
「ああ、カニマンに変身できるようになったのは『かにじる』を飲んだからだな』
拓郎は平然とそんなことを言う。
「蟹汁?」
真面目に答えろと言いそうになったが、先ほどの『変身汁』の事を思い出した。
あれが何なのかはまるで見当もつかないが、変身する際に排出される、尋常ならざる液体なのは明らかだ。
もしかすると、『かにじる』というのも特殊な液体、例えば人体を突然変異させる薬品や化学物質かなにかの事なのかもしれない。
ありえないと自分でも思うが、ありえない事はすでに目の前で起きている。
「島村はうちの大学の、薬学部棟に行ったことがあるか?」
拓郎はいつになく真剣な面持ちで言う。話の雲行きが怪しくなりはじめたのを感じる。
「いや、ないけど。それがなにか関係あるのかよ」
「大いにある」
拓郎はきっぱり断言した。
もしかすると、俺の推測はあながち間違っているわけではないのかもしれない。
踏み込めば元には戻れない領域に足を入れようとしている、そんな予感がありながらも、聞かずにはいられなかった。
「もしかして、その薬学部で研究してる薬品かなんかを飲んでカニマンになったのか? そうだろ? そういう事なんだな?」
俺は恐る恐る尋ねた。
「いや、違うけど」
「違うんかい」
「飲んだのは『かにじる』だってば」
「だから『かにじる』ってなんなんだよ」
「島村知らないのかよ」
拓郎は鼻で笑う。
「オーイシ飲料の『かにじる』。まるで高級料亭で拵えたかのような、コクと深みと蟹の風味を楽しめるともっぱら噂の」
「知らねえよ。というか、薬学部関係ないじゃないか」
「いや、薬学部は関係ないんだよ。薬学部棟の一階にオーイシの自販機があってさ」
「お前まさか、そこで売ってた『かにじる』の缶を飲んだからカニマンになったって言うんじゃないだろうな?」
拓郎は、「正解」と言う代わりに指を鳴らす。
「真面目に聞いた俺が馬鹿だった」
「でも俺がカニマンになったのは事実だろ?」
「缶ジュースが原因であんな化け物になるわけないだろ」
「ただのジュースじゃないんだよ。かにじるだったからだよ」
「それなら、えびせん食ったらエビマンにでもなるのかよ」
「なるかもなぁ」
「なるわけねえだろ」
呆れて深いため息が出る。網戸越しに聞こえる、外で喚いているアブラゼミの鳴き声がうるさくて、余計に癇に障る。
「他になんか聞きたいことは?」
拓郎は相も変わらず生き生きとしている。
対して俺は、嚙み合わない問答を続け徒労感のようなものを感じていた。フランス人相手に必死にドイツ語で話しかけていた気分だ。
「いや、まあ。色々あった気がするんだけど、なんかもういいや」
「ああ、そう。じゃあさ、そろそろ本題に入るんだけど」
「嘘だろ、今までのは本題じゃないのかよ」
「島村に頼みがあるんだ」
「頼み?」
あんな蟹の化け物に変身するのを見せられた後で、一体何を俺に頼むというのか。
全く見当はつかないが、どうせ碌な話ではないのだろうという確信があった。
「ああ、島村にしか頼めないことだ」
「断る」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「だって絶対碌な話じゃないだろ」
「めちゃくちゃ碌な話だって。社会的にもすごく意義のあることなんだよ」
「もうその触れ込みからして変な話なんだって」
「島村、前にアイドルのマネージャーやりたいって言ってたろ?」
「急に何のことだ」
「ほら、ナシゴレンちゃんみたいな」
「
「そうそう。この前そんな事言ってたじゃないか」
氷見可憐というのは、『楽観的ペシミスト』という、最近テレビで頭角を現してきた女性アイドルグループのメンバーだ。
先日映画の撮影で、俺たちの大学に訪れていたことがあり、一度だけその撮影現場を見かけた。拓郎が言っているのはその時の事だろう。
遠巻きではあったが、生で見るアイドルの立ち姿にはやはり芸能人の持つ特有の華やかさがあり、確かに「仕事がきつくても、ああいう子の傍で働けるならやりがいあるよね」といったニュアンスの事は言った気がする。
しかし、アイドルのマネージャーをやりたいとは一言も言った覚えはない。
「言ってないし、それが一体何の関係があるんだよ」
「なあ、島村」
拓郎は一度、わざとらしく咳ばらいをする。
視線を逃がすまいとするように、まっすぐに俺の目を見て言った。
「カニマンのマネージャー、やってくれないか?」
ほらな、やっぱり碌な話じゃなかったじゃないか。
少なくとも、氷見可憐のマネージャーよりモチベーションの上がる仕事じゃないのは間違いないだろう。
麦茶の氷が溶け崩れて、からん、と乾いた音を出す。
アブラゼミは、依然として俺を嘲笑うかのようにけたたましく鳴いていた。
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