第4話

「いやあ、えびせん美味かったよ」

 拓郎は屈託のない笑顔でそう言った。一発ぶん殴りたくなる。


「人のものを食い尽くしておいて、その言い方は何だ」

「いやはや、大変美味しゅうございました」

「謝れって言ってんだ」

 虚しくも空となってしまったえびせんの箱を丁寧に分解し、ごみ箱へと捨てる。


「まあいい。えびせんの事は一旦置いておく」

「一旦?」

「一旦だ」

 もちろん後で落とし前はつけてもらわなくてはならない。


「それより今聞きたいのは、お前が本当にカニマンなのかってことだ」

「本当にカニマンなんだって。あのつるつる集団から助けてやっただろ」

「お前は真っ先に逃げたじゃないか」

「ヒーローは遅れてやってくるもんなんだよ」

「遅れるためにわざと逃げるヒーローがいるかよ」


「証拠もあるって言ってるだろ、ほら」

 拓郎が得意げに差し出してきたバス定期を受け取る。

 まじまじと眺めてみるが、やはりそこには俺が通学している区間、そして俺の名前が記載されている。


 確かに俺の物であることは間違いなさそうだ。

 という事は、本当にこいつがカニマンなのか?

 そう思った時、指先に何かが触れた。


「何かこれ、ぬめっとしてないか?」

 定期券には、油のようなが付着していた。


「おい、えびせん食った手で触んじゃねえよ。きたねえな」

 なぜ菓子を食べた素手で人の物に触れるのか、理解に苦しむ。


「いや、これ変身汁だから」

「けんちん汁?」

「変身汁」

「なんだよそれ」

 拓郎がまた意味の分からないことを言い出したと呆れる。


「いいから、手拭け」

 俺はティッシュの箱を拓郎に渡す。「サンキュー」と言って伸びてきた拓郎の手は、指先どころか手の平全体が油まみれだ。


「べとべとじゃないかよ。どういう食べ方したらこんなんなるんだよ」

「変身中は全身から汁が出てくるからな、仕方ないんだよ」

「変身って、何に」

「そりゃカニマンに決まってるだろ」

「着替えを変身とは言わんだろ」


「着替え?」

 何言ってんだこいつ? という風に拓郎は首を傾げる。

 だが、そう言いたいのは俺の方だ。


「せっかくだから、変身するとこ、島村にも見せてやろうと思ってさ」

「カニマンってのはそんな妖怪人間みたいに変わるもんなのか?」

「まあな。今まさにやってるところだ」

「いや、絶対嘘だろ」


 こいつが今やっている事と言えば、せんべい食った汚い手で俺の定期券を汚したことくらいだ。


 変身汁だか何だか知らないが、体から液体が出てきて変身する?

 そんなことが起きるなら俺の家なんか来てないで、早く病院に行った方がいい。


 そうか、俺はただ拓郎にからかわれているんだ。

 俺はようやくその事に思い至る。なぜもっと早く気付かなかったのか。


 バス定期はただ、あの後拾っただけに過ぎないのだろう。

 大体、格闘技経験もない拓郎が、あの屈強なスキンヘッドたちを伸せるわけがなかったのだ。

 一瞬でもこんな馬鹿な話を信じた自分を呪いたくなる。


「お、そろそろだ」

 自分の鈍感さに心を痛めていたところ、声がして、はっとする。


 そろそろ帰るってことか? 

 うんざりして皮肉言いそうになったが、それを声に出すことはなかった。


 拓郎の手が、ひどく濡れていることに、そこでようやく気付いたからだ。


「なあ拓郎。俺、さっきティッシュ渡したよな?」

「おう、島村は高いティッシュ使ってるな。うちのとは肌触りが違う」

 使用済みのティッシュは、えび煎餅のゴミと共に確かに捨てられている。


「じゃあ、何でそんな手びしょびしょなんだよ」

 拓郎の手は、ティッシュで拭く前より、明らかに濡れていた。


 いや、手だけではない。

 よく見れば、彼の顔からは無数の気泡が染み出ていた。アレルギーで発疹でも起こしたのかのように、小さい泡が彼の皮膚から生じている。


「おい、お前、顔やばいことになってるぞ」

 その泡はみるみるうちに増殖し、瞬く間に拓郎の顔面を覆いつくすように広がっていった。

「何が起きてんだよ。それ、洗顔してるみたいになってんぞ」

「そうなんだよ。カニマンになってからシェービングフォーム要らずでさ」

「そんなこと言ってる場合かよ」


 どう考えても、目の前で起きていることは異常だ。人の皮膚から泡が出てくるなんて聞いたこともない。

 間違いなく慌てて然るべき状況のはずで、少なくとも、髭剃りが楽になったなんて言って笑っている場合ではない。


「あ、島村。ごめん」

 拓郎は思い出したように言う。

「なんだよ」

「言い忘れてたけど、床にビニールかなんか敷いといたほうがいいかも」

「は?」

「いや、さっき言っただろ。変身汁が全身から出るからさ。カーペットが……」

「びちょびちょじゃねえかよ」


 拓郎が言い終わるより前に、床の異常に気付いた。

 カーペットが水浸しならぬ泡浸しになっている。

 拓郎の全身からメレンゲのような泡がとめどなく溢れ出て、それが床にぼたぼたと流れ落ちているのだ。


 慌ててティッシュで拭くと、ねっとりしたその泡からは強烈な臭いがした。

 少し塩辛いような生臭い空気が鼻を衝く。

「おい、なんか蟹臭いぞこの泡」


 これはどういう事なんだよ拓郎。そう言おうとして顔を上げると、すでに拓郎の全身は頭から爪先に至るまで、白い泡で覆いつくされている。

 

「ミシュランマン?」

「違うって、カニマンだってば。あと、あいつビバンダムとも言うらしいぞ」

 顔面を覆う泡の中で、口のあたりがもごもごと動く。泡が口の中に入り込んでしまうのか、溺れそうな声を出している。

「絶対今言う事じゃないだろそれ」


 やがて全身を蠢いていた泡は膨張を止め、少しずつ流れ落ちていく。

 徐々に肌があらわになっていき、中からが姿を現した。

 見るのは、先週の金曜以来だったが、本人だとすぐにわかった。

「あい、マジか」

 あの夜見た時と同じく、その皮膚は鮮やかな紅色で、顔から飛び出た黒い眼球は得体の知れなさを感じさせる。


「ぐええええ」

 その鳴き声は相変わらず言葉の体を成していなかったが、「な?」と自慢げに言ったであろうことは理解できた。


「あのさ」

 何を言うべきか迷って、床に視線を落とす。そこには拓郎から流れ出た泡だらけのカーペットがあった。

「言うのが遅えよ」

 

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