第3話
何がいたのかと問われれば、多分、人と答えるのが正解なのだろう。
二足歩行で背丈は俺と同じくらい。フードのついた黒いジャージを着ている。左腕についているのはG―SHOCK、スニーカーはよほど履きつぶしているのか、所々穴が空いている。
シルエットだけ見れば、お洒落することを諦めた垢ぬけない男子大学生、といったところだ。
ならば、なぜ俺たちはそいつを見て、口を揃えて「蟹」と言ったのか。
それは、彼の皮膚が気味が悪い程鮮やかな紅色で、無数の棘があったからだ。
彼の眼がつぶらで黒く、顔面から浮き出ていたからだ。
彼の首から上が、甲羅の形をしていたからだ。
彼の腕が人の掌とはかけ離れた鋏のような形状になっていたからだ。
総じて、全身蟹男というべき様相をしていたからだ。
「ぐええええ」
蟹男が奇声を発した。
やはり先ほどの音は、この蟹男から出されたものだったらしい。
俺もスキンヘッドたちも口をぽかんと開けたまま固まっていた。
目の前にいるこの生物は一体何なのか。これは日本の一地方都市で簡単に見かけていいような生き物なのか。
小学校の遠足で泳ぐ牛を見て腰を抜かした思い出があるが、あれを上回る驚きがあったのだから人生というものはわからない。
蟹男は突然、右腕を振り上げた。そのまま腕を振り下ろすと、俺を羽交い絞めにしていた中背スキンヘッドの肩を鋏で叩く。
べちん、と鈍い音がする。
中背スキンヘッドは「え?」と「いてっ」が混じったような声を上げる。
間髪入れず、蟹男はそのまま何度も鋏で叩いた。表情が無く、機械的に腕を動かし続ける蟹男は不気味そのものであった。
痛みからか、恐怖からか、俺を羽交い絞めにしていた中背スキンヘッドの腕が振りほどかれる。
そこでようやく、蟹男が俺を助けようとしていたのだ、という事に気付く。
「あ、ありがとうございます……」
言葉が通じるのかわからないが、礼儀として一応お礼を言う。
蟹男からは「ぐええええ」と返事がある。「どういたしまして」なのか、「お前を助けたわけじゃない」なのか、意味はまるで分からない。
あるいは、本当にただ「ぐええええ」と言っただけなのかもしれない。
「こいつ、カニマンじゃね?」
思い出したように言ったのは、先ほどからぼうっとしていた小柄スキンヘッドだ。
「カニマン?」
「カニマンって……あのカニマンか」
中背と大柄のスキンヘッドが、まさかといった表情を浮かべる。
「ぐええええ」
蟹男は、正解だと言わんばかりに鳴き声を上げた。
『カニマン』。俺もその名前は聞いたことがあった。
ここ一か月くらいの間で街に度々現れ何らかの人助けを行っている、蟹のような姿をした不審者がいるという噂だった。
しかし、いざ実際に本物を目の前にしてみると、不審者なんて可愛げのあるものには感じられない。
光のない黒々とした眼や、棘が敷き詰められたような赤い皮膚は妙に生々しく、まさしく怪人と言った方がしっくりくる。
「蟹の格好して街中うろついてる変態がいるって聞いたが、それがてめえか」
大柄のスキンヘッドの声がした。
ゆっくりと品定めするようにカニマンに近づいていく。
「見れば見るほど気味が悪いな。コスプレか? 一体どういう趣味してんだよ」
唖然としていた先ほどまでとは違い、落ち着きを取り戻した様子だった。口元には笑みすら浮かべていた。
得体の知れない蟹人間から、「カニマン」というただの不審者へと認識が変わり、安心したからなのだろう。
「バラバラにして豊洲に出荷してやるよ」
大柄のスキンヘッドはそう叫んだかと思うと、カニマンの腹部に拳を入れていた。日頃から喧嘩慣れしていそうな素早い挙動だった。カニマンが避ける間もなく完全にみぞおちのあたりに入った。
しかし、その後に苦悶の声を挙げたのは、大柄スキンヘッドの方であった。表情を歪め、拳からは血を流している。
それに対して、カニマンはまるで平気といった様子でぼんやり立ったままだ。
「かてぇ、蟹の甲羅かてえよ」
大柄スキンヘッドが悲鳴を上げたのと同時に、今度は中背スキンヘッドが動いた。
すかさず、どこからか取り出したナイフを持って、カニマンに切りかかる。
ナイフの刃は、かぁん、という甲高い音を立てて、確かにカニマンの胸に突き刺さった。ように見えた。
しかし、だ。
「ぐええええ?」
やはり彼はまるでなんてことないように、ぼうっと突っ立っている。
中背スキンヘッドが「あれ?」と声を上げた後、ナイフは根元からぽっきりと折れ、欠けた刃がアスファルトに落ちた。
直後、スキンヘッドたち三人は一斉に顔を白くすると、一目散に駆け出した。
彼らが乗り込んだヴェルファイアは怯えるようにエンジン音を轟かせ、テールランプはみるみるうちに闇夜の中に消えていった。
俺は目の前の出来事に理解が追い付かず、ただぼうっとその様を眺めていた。
そして、はっと我に返った時には、カニマンも忽然と姿を消していたのだった。
と、まあそういうわけで、俺はカニマンに危ないところを救われた。
カニマンに対する世間の声はそれぞれだ。純粋に応援する人もいれば、ただの不審者だと非難する人もいる。
しかし、この一件以来、俺はカニマンが真に人助けを愛する者であるという確信を持っていた。
きっとその素顔は誠実で高潔で、モラルと人間愛に満ち溢れた人物に違いない。
俺はそう信じていた。
それなのに。
それなのに、だ。
「あ、えびせん無くなっちまった。なあ島村、これで全部?」
拓郎は空になったえび煎餅の箱を名残惜しそうに、ひらひらと仰ぐ。
こんな男がカニマンだなんて、認められるはずがなかった。
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