ことりのほね

 大沼の畔、青年が一人佇んで、ぼんやりとその先に広がる風景を眺めています。

 沼といっても、その水は濁っていません。むしろ、驚くほど透き通っていて、穏やかな日の光を反し、その水面はきらきらと硝子のように光っております。水の中では、銀色の公魚の群れがつうと泳ぎ、一斉に翻ったりするので眩しいとすら思える程です。

 清らかな水辺に連なる陸には、山桜や楓、石楠花と謂った木々が、青々と若々しい葉を茂らせます。低い所では、蔓紫陽花が淡い青紫色の花を咲かせております。

 時折、群青の空を流れる幾つかの白い雲の方から、涼やかな風が吹き、煌めく水面に小波を立てました。そして、その風は、青年の細い髪もそっと靡かせるのでした。

 まるで、絵に描いたような、清々しい場面です。

 しかし、青年を包み込む世界は、こんなにも生き生きと輝いているのに、彼の心は深い底なし沼に囚われたように、暗澹としていました。

 彼は今日、死のうと思っているのです。

 ふと、まだ星の見えない空を仰いで、小さな溜息を吐くと、彼は再び歩を進めました。本当はもう、そんなことはどうでも良かったのですが、二十年と少しばかし紡いできた物語の最後を飾る場所は、少しでも良い所にしたいと思ったのです。

 弓形になった、古びたコンクリートの橋を渡って行くと、その中腹から、真下の方に、水連が群生しているのが青年の目に入りました。花萌葱の丸い葉が沢山浮かんでいて、その間には、純白の花が所々覗いています。そして、その白い花弁の真ん中に見える可愛らしい黄色を見て、女の人の横顔が彼の脳裏に過りました。欄干についていた彼の手に、思わず力が入って仕舞います。

 寂然として、青年はその水連の群れを眺めました。ただ、彼の心がそうして、黒い靄に包まれているのは、彼女の所為ではありません。確かにそれは、彼に死を決意させる一端を担っておりましたが、仮令、彼女が元より存在していなくても、彼はいつか、死のうと思ったことでしょう。

 緑と白、そして、黄色のコントラストから目を転じ、何気無く、彼は後ろを振り返りました。すると、其処には薄浅葱に光る水の平原と木々の新緑、そして、その先に、僅かに雲を冠った、星が映えそうな高い山が見えました。

 暫くの間、青年はその景色に目を奪われました。それは北欧の何処か、精霊が住まうような自然でしたが、彼の心を攫ったのは、むしろ、それらに縁どられて在る、吸い込まれてしまいそうな深い紺碧の空でした。

 青年は徐に目を瞑ると、其処に夜空を想像し、燐が燃える時のような青白い光を放つ星の姿を心に浮かべました。それは、とある醜い鳥の成れの果ての姿で、今の彼にとっての理想でした。よだか程、優しい心を持っていた訳ではありませんでしたが、彼ももう、叶うことならば、ああして、星になって仕舞いたいと思ったのです。

 星空を瞼の裏に浮かべた彼は、目を開くと、自分の最後のシーンを此処にすることに決めました。


 青年には幼い時から、何処から来るとも知れぬ、ぼんやりとした不安がありました。

 いつ頃からそんなことを思うようになったのか、彼自身、もうすっかり覚えてはいないのですが、最初、それはこんな問いとして現れました。

 もし、お父さんとお母さんのどちらか一方を選ばなければならないとしたら、どちらを選ぶべきなのだろう?

 不意に、それは例えば何気無く空を眺めている時など、本当唐突に、少年はそんな選択肢を心に浮かべ、その度に、はっと空恐ろしい思いをしました。そして、ぐちゃぐちゃに絡まった糸を解くみたいに、いつも頭がこんがらがりそうになる迄、どうしたものかと考えるのですが、その答えが出た試しは、遂に一度も、ありませんでした。

 それは、誰しも一度は幼心に浮かべる、遊びの如きものであり、しかしながら、その人の心の持ち方を方向づける習慣でもありました。そして、当時の彼にしてみれば、それは重大な問題だったのです。

 ただ、仮令、そんな難しい問いに対する回答が得られなくとも、その頃の彼の生活の実際には支障を来しませんでしたし、成長するにつれて、お伽の国の魔法が解けるように、そんなことを延々と考えるのは無意味だと思うようにすらなりました。しかし、やはりその問いは、彼の頭の中にずうっと居座っており、気を抜くと、度々、彼の意識の表に現れて来るのでした。


 少し前、と言っても、一年程前の話になりますが、青年の恋人だった人が死にました。

 いえ、正しくは、元恋人だった人と言った方が正しいと言えましょう。彼はその恋人が車に轢かれる直前に、別れ話を切り出していたのです。

 彼女は可愛らしく、陽気で、普段は穏やかな性格をしていました。青年は彼女のそうした面を好いていましたし、また、初めての恋人だったこともあり、その関係は長く続きました。

 しかし、彼女には欠点がありました。滅多にありませんでしたが、一度癇癪を起すと、火を噴いたように怒ったのです。

 誰にでも欠点はあります。それは、勿論、青年にだってあります。ただ、彼の母も癇癪持ちで、それが原因で彼の両親は離れて暮らしていました。一度は一緒になろうとすら考えておりましたが、悩み抜いた挙句、彼は彼女と別の道を辿ることにしました。

 その日、あたりはバケツをひっくり返したような、激しい雨が降っていました。まるで、青年と恋人の心を体現しているかのようでした。彼がその言葉を告げた後、彼女の瞳から零れた大粒の涙は、今でも彼の記憶に染み付いて離れません。彼女は傘も持たずに、飛び出して行きました。彼はそれを追いませんでした。追えなかったのではありません。追わなかったのです。

 その日、横断歩道を飛び出して来た彼女に、車がぶつかりました。信号は有りませんでした。

 彼女は死のうと思って飛び出したのかもしれませんが、視界も悪く、信号も無かったから、不慮の事故であったかもしれません。 しかし、青年はその事故の知らせを聞いた時、自分の幸福な人生と彼女の命、どちらを取るかの選択をしたような感慨を覚えました。

 そして、此処で漸く、何と無く、彼は気付かされたのです。あれは杞憂では無かったのだと。

 意思を持つ生き物は、須らく選択をして生きております。分かり易い話だと、命を奪い、食べて生きるか、それをせず、飢えて死ぬか。自己か他か、そんな選択をしています。食べることに限らず、人間だと、自分の幸福を取るのか、他人に譲るのかという所で、もっと、そんな選択で溢れております。そして、自分が生きて行く以上、その事実に気付いていようと、いまいと、そうした選択を死ぬまでしなければなりません。

 それは生物の根底に横たわる、不動の真理でした。言ってしまえば、口に出すまでも無く、誰もが知っている、つまり、当たり前の事実なのでした。ただ、多くの人々はそれまでの彼と同様に、その真理から生ずる沢山の悲しみや痛みに気付かないでいるか、もしくは、それを忘れてしまっています。それは心の平静を保って生きる為に必要な慣習であり、ただ、その為に、人は一つの優しさを捨てねばならないのでした。

 青年は自分でも驚く程に潔癖で、そして、それ故、あの事故を境に、これからも自分がそんな当たり前の、しかし、彼には耐え難いと思える選択をさせられ続けることに、実感を以て気付かされたのです。

 それはまるで、彼女の呪いのようでした。

 彼はそうして、人間であることが分からなくなりました。


 ランタンを片手に、青年は静まり返った夜の森を通り抜けていきます。あんなにも賑わいでいた木々や水面、生き物たちは、もうすっかり眠りこけてしまったようにひっそりとしていて、昼間の空気が、まるで嘘のようです。

 ゆらゆらと揺らめく灯火の光を足元に照らしながら、青年は闇に包まれた木や藪の間の道をなぞるようにゆっくりと辿ります。夜空の端っこの方から見下ろすまん丸い月は、鋭く冴えた銀色の光を、彼の虚ろな相好に投げ掛けるのでした。

 こうして記していると、何だかあまりにも、しんとしてしまっていて、恐ろしく思われるかもしれません。しかし、空には翡翠や金剛石、瑠璃や紅柘榴といった様々の宝石を散りばめたような星々が瞬いております。そうして、オリオンや大犬やカシオペアといったもの達が其処にはいて、その中に、あのよだかもいるのです。なので、此方は静まり返ってしまいましたが、むしろ、彼方は騒がしい位なのでした。

 そんな夢のような世界を掻き分けて進んでいた青年は、到頭、天上で輝く彼等の間に入ろうと、あの橋の上に辿り着きました。

 石橋の欄干から少し顔を出して見下ろすと、真っ黒な水面に星々の光が移り込んでいて、まるで、彼の真下にも星空が広がっているかのようです。

 底の部分が真鍮で作られた灯りをカタリと足元に置くと、青年はポケットから眠り薬を何錠か取り出しました。そして、それを一思いにごくりと飲み込み、欄干の上に登ります。

 目の前では、向こうの黒い陸地を境に、天上天下二つの星達の世界が向かい合っていて、もう既にこの世ではないようでした。彼は深呼吸をすると、それでも確かに未だ現実であるこの世界を、一つ睨み付けて遣りました。しかし、直ぐに意気地の無い顔になって、涙は零れませんでしたが、それでもその顔をくしゃくしゃにしました。

 青年の体がゆっくりと前に傾き、頭から水面へと落ちて行きます。大きなどぼんという音がして、まるで、真っ暗な沼が彼を呑み込んで、喉を鳴らしたかのようでした。

 青年の意識は初め、水の冷たさではっきりとしました。止まっても一向に構わないと思っていましたが、心臓が止まりそうになりました。

 青年の体は一度沼の底の方まで深く沈みましたが、直ぐに浮力で浮き上がりました。そのまま、彼はぷかりぷかりと浮かびながらじっと真上を眺めておりましたが、すると、その体温は水の温度に段々と慣れて来て、自分を浸しているそれらを温かいとすら感じられる程になりました。

 そうして、暫く浸かっていると、どくんどくんと自分の心臓が揺れる音と、取留めのない事柄が彼の意中に現れて来て、いつの間にか、彼は瞼を閉じておりました。そして、彼の精神は、その肉体から緩やかに遠退いて行ったのです。


 青年は夢を見ました。

 自分が古いアイヌの村のような集落の住人で、其処では変わった儀式が行われております。

 人々は度々、村の幼い娘を生贄に捧げます。もし、捧げなければ、生贄になる筈だった子が恐ろしい化け物になって、その村の人を沢山喰い殺してしまうからです。

 何の因果か、青年は生贄の子を殺める役割を与えられていました。彼は短剣を背中の後ろに隠して、女の子の前に立っております。目の前の野原で、花を摘んで遊んでいるその子のことを、彼はよく知りませんでした。会ったのもそれが初めてです。

 彼女が徐に立ち上がると、青年の柄を持つ手に力が入りました。しかし、何も知らないその子は彼に走り寄ると、白くて可愛らしい、一輪の花を差し出しました。その相貌は愛らしく、その花弁の白と同様、無邪気な笑みで満ちております。

 その時、青年はハッとして、この子を殺めるなんて、とても自分には出来ないと思いました。しかしながら、その子を殺さなければきっと、彼の大切な者達もその内に彼女に喰い殺されてしまいます。

 青年は両の掌に、苦悶に満ちたその顔を、その大きく見開いた眼が皮膚についてしまう位に、ぎゅっと埋めました。どうしたって、彼は選ばなくてはなりません。何かを守りたいのなら、何かを壊さなくてはならないのです。

 暫くの間、青年はそうして、己の取るべき選択と葛藤しておりましたが、いつの間にか、その少女がいなくなっているのに気が付きました。彼は一人で、小さくて可愛らしい花を付ける花々に囲まれて、呆然と立ちすくんでいるのでした。

 其処で自分が如何なる選択をしたのか、彼には分かりません。しかし、いずれにせよ、その両手に目を落とすと、それは誰かの鮮やかな紅い血で、生々しく、しっとりと濡れているのでした。

 それは精神の見せる幻であり、ぼんやりとしておりましたが、青年の心を突き刺すようなものでした。


 夜露のような涙に濡れた青年の両目が、ゆっくりと開きました。

 彼の体は何処かの陸地の上で仰向けに倒れていて、その朧気な瞳には相も変わらず色取り取りの星達の光が移り込みます。

 濡れた服が肌に張り付く感触を覚えながら、夢現に彼はその星達を眺めておりましたが、やがて、ちょっと頭を動かしました。すると、自分の寝転がっている、白詰草か何かの小さな白い花が咲き誇るその野原に、誰かが佇んでいるのに気が付きました。

 月や星の光を頼りに、目を凝らして其方を見ると、まるで天使のような、銀髪の可愛らしい女の子がじっと此方を見ております。

「僕は死んだのか?」

 彼女があまりにも夢のように美しく、この世の者でなく感じられたので、青年は思わずそう問うてしまいました。

「さぁ、どうかしら。わからないわ」

 その少女は小鳥の囀るような声で、そう答えました。

 青年の体はずぶ濡れで、水に浸かっていたのが窺えましたが、もしも未だ本当に息をしているのなら、どうやって此処まで上がって来れたのか分かりません。もし、少女が青年を沼から引き揚げたなら、きっとイエス様の羊の毛か何かで編まれた、彼女の淡い灰色のワンピースも、ペルシャ絨毯のように精緻な刺繡を施された、その細い肩に掛かるケープも、少しも水に濡れていないのはおかしなことです。それに、何よりも、彼女の華奢な体では、とても彼の体を持ち上げられそうにもありませんでした。

 なら、やはり此処は死後の世界なのかと思うと、その割には、青年の意識は驚くほどはっきりしています。また、周りの景色からも、其処は先程飛び込んだ場所から、そう遠くはない所のようでした。

「あなたは死にたかったの?」

 青年がそんなことを考えながら辺りを見回していると、女の子は少し不機嫌そうに尋ねました。彼はその質問にハッとして、彼女を真っ直ぐ見つめました。その大きな瞳は藍緑色の澄んだ色彩をしていて、やはり神様の使いのようです。

「生きるのが、嫌になってしまったんだ。生きてゆく限り、ずっと残酷な選択をし続けねばならないと思うと、遣り切れなくなってしまったんだよ」

 神様の台座の前に跪くように、青年は正直に答えました。

「醜いなりに、最善の選択を模索する。人間はそういう役割を与えられた生き物でしょう?」

 少女が不思議そうに首を傾げ、その白く、長い髪を束ねたおさげがちょっと揺れました。しかし、青年はその言葉を聞いて、やはり悲しくなるのでした。

「それでは、生きることが、まるで罰ゲームのようじゃないか」

 そう言って、青年は唇を噛みしめました。今にも泣きだしそうなその風采は、何だか迷子になって途方に暮れる少年のようです。

「そうかしら?だからこそ、人はいろいろなものを心から見詰められるのだし、尊いものとよべるのでしょう。あなたはきっと、そのすばらしさをまだ知らないんだわ」

 悪戯っぽく笑うと、少女は、横になったまま動こうとしない青年に、白磁のような手を差し出しました。

 未だあどけなさの残る少女の相好は、眩く感ぜられる程、自信に満ちております。ただ、青年には、とても困難なことに思われましたので、それに反論しようと、咄嗟に僅かに口を開きました。しかし、彼女の容貌はアンティーク人形の様に白く透き通っていて、彼女の纏うその神聖な雰囲気に、彼の喉元から言葉は湧いて来ません。そして、そうして黙然としている内に、何だかその言い分も、尤もな内容に感ぜられて来てしまうのでした。

「君はいろいろなものに盲目で、きっと楽観主義者なんだね」

 やっとのことでそう返すと、青年は憮然として、眉を顰めて見せました。しかし、躊躇した挙句、彼は少女の手をそっと取って、体を起こしました。

 彼女の手に触れた刹那、その氷のような冷たさが指先から伝わって来て、彼には、やはり彼女はこの世の者ではないと思われました。ただ、その感触は何故だか心地良く感ぜられて、不思議な感慨を覚えるのでした。

「それが、なにかご不満?」

 青年をからかうような口調の少女は、その清らかな相貌に殊勝な表情を浮かべております。

「どんな世界にも、光があれば、闇もあって、闇すらも愛せてしまったら、その人は仏様とか、そんなふうによばれるのでしょう?きっと、そんな人がいちばん悲しくて、いちばん幸せな人なんだわ」

「僕は仏様には、なれないよ」

 真面目な面持ちで、青年がそう言うと、少女はくすりと笑いました。

「それはそうね。いまのあなたはなれたとして、あのお星様が良いところかしら」

 少女は陶器のような指先を、天の川の前で青白く光る小さな星に向けました。青年は少しむっとしてその方角を見ましたが、さっきも眺めていたその夜空が、一面に、驚くほど綺麗に輝いて見え、思わず息を止めてしまいました。虚ろだったその空に、急に光が宿ったのです。

 その星々は余りにも美しくて、其の内の一つになれたら誇らしいと思われる程でした。しかし、青年がその満天の星空に心を奪われた時、さっきまでの星への憧憬は不思議となくなっているのでした。どうやら、やはり少女は、天からの使いだったようです。

「たとえ、お空に住むようになったとして、清廉潔白な世界なんて、どこにもないわ。空のお星様たちだって、けんかもするでしょうし、いやなこともいっぱいあるわよ」

 少女は青年の手を少し強く握って、慰めるように言いました。

「だから、わざわざ、あっちになんて行かないで、こっちでもっと人や世界を見て回りなさいな。それで、たくさん苦しんで、たくさん楽しめば良いわ」

 少々、横暴にも感ぜられる語調でそう言うと、少女は未だ座ったままでいる青年の腕をぐいと引っ張りました。彼は自分が、何だか、彼女に上手くやり込められているように感ぜられましたが、それでも、渋々ではありましたものの、徐に立ち上がりました。そうして、彼女と肩を並べて、目の前の大沼と木々と夜空を眺めて、やはりそれらが何故だかどうしようもなく、心に響いて見えるのでした。

「あなたがここで死んでしまったら、私はあなたにも、この世界にも出会えない。私にこの世界を見せて。約束よ」

 不思議な言葉を青年に託すると、少女はその細い小指を差し出しました。

 すると、何処からか、夜風が舞い込んで来て、二人を包み込み、そして、また何処かに流れて行きました。


 あの夜、死に損なってしまった彼は、何だか、死ぬ気が削がれてしまって、今も尚、修羅の世で営々と生活を送っております。

 彼の鬱々とした気持ちを消散させたのは、星が煌々と輝いていた、あの夜くらいなもので、それ以降、彼は相も変わらず、何処か心に暗い影を漂わせたまま、今までを生きて来ました。白髪の少女は、明くる朝、目を覚ますと夢のように消えておりました。

 あれから、どれ位の年月が流れたでしょうか?

 或る夜、彼は再び、あの大沼を訪れました。しかし、それはいつかのように、死ぬ為ではありません。少し背の高くなった彼の娘に、あの宝石を散りばめたような空を見せたいと思ったからです。

 二つの星空を臨むあの石橋の上、彼はカシオペア座の隣で光る青白い小さな星を見付けました。しかし、其処で彼は、自分があの時とは違う思いを抱いているのに気が付きました。それはすっと湧き起こるように自然に表れた感情でしたが、彼を少なからず驚かせる発見でありました。というのも、何故だか、その星を見て、彼は悔しいような感慨を覚えたのです。

 心優しいよだかは、星になりました。彼はそんなよだかの優しさを、今でも変わらず、愛おしく思っています。ただ、それが憧憬でなく、悔恨という形を現したのは、今の彼だからこそのことなのでしょう。そんな尊い心を持ったよだかに、生きて、生き抜いて、骨になって欲しかったと、彼は思わずにはいられないのです。

 肉も腐り果て、血も乾き切り、海辺に打ち上げられた白い珊瑚の死骸のような、小さな鳥の骨。無数に穴の開いた、かさかさの醜い骨になって欲しかったと、そんな風に思うからなのです。

 彼の娘が満天の星空を見上げ、嬉しそうに、きれい、と言いました。

 銀髪ではありませんでしたが、大きな瞳に青白い星の光を映しこんだその横顔が、あの夜の少女に驚く程似通って見えたのは、彼の気の所為なのかも知れません。

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