Mensura Moltalem

 私は、白い待合室の真ん中に、テーブルをへだてて、妙な男と向かい合っている。

 待合室?そうだ、此処は待合室の筈である。ただ、本当に此処をそう呼ぶに相応しい場所であるかどうか、その判断の正誤が、実の所、確かでは無い。というのも、私は今迄、待合室というものに入った試しが無いのだ。そもそも、部屋、それどころか、空間というものに対面するのも初めてである。

 いや、やはり、待合室かな。多少、一般とは異なるが、私は此処で出発の時を待っているのだし、ならば、そう称するのが妥当な筈である。妙なことに、こうして、私は此処が待合室であるのを確信しており、また、目の前の四本の足を持つ、真っ白な木製の台を机というのも理解していた。

 私はきょろきょろと辺りを見渡す。そして、ふと、視線を落とすと、其処には生白い私の手が、机の上に置かれていた。私は初めて視界に入れた、その体の一部についても、何故だか、やはり、正確な認識をしているようであった。

 如何にして、私は斯様な知識を得るに至ったのであろう?私は此処で、当然の如く、在る筈のその過程を思い起こそうとしてみる。しかし、それは幾ら頭を捻ってみても、一向に形を表そうとはしなかった。それどころか、自分が其処にいつから居たのか、また、何者かといった類の事柄は、見当も付かなかった。

 私は自らの掌に向けて居た視線を、目の前の男に転じた。黒い背広を整然と来た男は、その身形に似合わず、口髭が濃く、髪の毛をもじゃもじゃと長く生やしていて、やはり、服装との違和感を覚える。男に対し、私はどこで身に付けたのか、どうしても、奇妙であるという感慨を覚えるのだった。

「気分はどうですかな?」

 隠す素振りも無く、男をはっきりと観察していた私に、彼が不意に尋ねる。私は言葉を発したことなど無かったので、返答に窮した。しかしながら、彼がゆっくりと私の発声を促すような手振りを示すと、自然に声が出て来た。

「あの、私は?」

 私の口をついて、初めて出て来たのはこの言葉だった。質問に質問で返す形になったので、不機嫌な顔でもするかと思ったが、男は穏やかな性格の持ち主のようで、私の問い掛けに、にっこり微笑を見せる。

「それは、これからの貴方が決めることです」

 思っていたものとは異なっていたが、彼は的を得た回答をくれた。

 それはそうだ。私はこれから、その為に出発するのだから。

 大事なことを思い出せた気がして、私は急に安堵し、思わずほっと息を吐く。そして、再び、この部屋を見回し、男の後ろに、大きな白い扉があるのを見つけた。

「あと、どの位で出発なのですか?」

 何だか、急に待ち切れない心持がして、私は男に尋ねる。

「おっと、もうそんな時間ですね」

 男は態とらしく、驚いたような、おどけたような仕草を見せた。しかしながら、この室内に、時計の類は一切無い。

「最後に、貴方に選んで貰わねばならないものがあります」

 そう言って、彼は慌ただしく、懐からペンと小さな手帳を取り出した。

「今度は、何を選ぶんです?」

 自らの選択によって、此の姿と精神を存しているのを思い出し、私は憮然として彼に尋ねる。正直、選ぶ事には、既に退屈してしまっていた。

「あとちょっとで終わりますから、これだけ辛抱して下さい」

 私の胸中を知ってか、彼は私にへつらうような表情を見せた。そして、忙しそうに先程取り出した手帳に、何やら書き加える。

「不要な方もいらっしゃいますが、一応、規則ですので…。最後に選んで貰うのは、才能というものです」

 視線を書き物から移さず、彼は口走る。

「才能?何です、それは?」

 聞きなれぬ言葉に、私は眉を寄せた。此処で漸く、何かを書き終えた男は視線を上げ、私の方を眺める。

「おや、ご存じありませんでしたか。それがあれば、生まれつき、必要以上に色々なことが出来るようになります」

 物を売り込むセールスマンの如き口調で、彼はそう説明した。しかし、彼の饒舌に反して、私は腑に落ちない感慨を覚える。そして、自らの右手を握り、ついでにぷらぷらと両足を動かして見せた。

「でも、今でも十分、色々なことは出来ますよね?手と足が動かせて、音を聞けて、口が利ける」

 これ以上に何か必要かと、暗に私は問い掛ける。一方で、素直に私がそう尋ねて見せると、思いの外、彼は嬉しそうに、にんまりとした。

「ええ。その通りです。なので、それは余分なものにも思えますが、人はこれを殊更、重視します。ちなみに、人以外になられる方には、これをあまり勧めません」

「それは何故です?」

 私の質問に、彼は少し考える素振りを見せた。此方の相貌を伺っている様子から、大凡、私の問いの意図を考えたのだろう。

「人間は、それに依って、価値というものを測ろうとするからです」

 徐に口を開いた彼は、流石というべきか、私の意趣を正しく理解していた。

「価値?それは何です」

「存在の意味とか、それが必要か、そうでないかといった概念です。なお、それは貴方が先程選んだ、その容姿にも関わるものです」

 彼がそう述べて、私の相好を指すので、私はひたとその左手を頬に当てた。

「それは随分と妙なものですね。ただ、測れるものであるなら、何か、それ専用の秤だとか、メジャーだとか、そういったものが、何処か往来にでも売っているのでしょう」

「いえ、そうではありません。しかし、それは個々の人間が、各々で持っています」

「へぇ、生まれつき持っているのですか。因みに、それはどの部分のことです?」

 彼にそう尋ねながら、私は自分の体をまじまじと見回してみる。しかし、それらしきものは、どうにも見当たらなかった。

「それは貴方の中にあるものです」

「臓器のいずれかにあるのですか?」

 私は腹を擦ってみる。

「いえ、そうではありません。それは貴方の意識の内にあります」

 腹に手を当てたままの私を他所に、彼は明瞭にそう答えた。一方、私は不安という感情からか、訝し気な表情を見せる。

「”意識”だなんて。何だか、存外、あやふやなものですね。でも、その秤の正しさを証明するものは、当然、あるのでしょう」

 そう、問いを発する私の声色は、思いの外、くぐもって聞こえた。他方、男は清閑としている。

「いいえ。ありません」

 相も変わらず、男は私の頭の奥に響くような、良く通った声で答えた。しかしながら、その内容は、私には到底納得出来ないものであった。その為か、私は思わず立ち上がってしまう。その拍子に、ガタリと椅子が後ろに倒れた。

「ちょっと待って下さい。でしたら、どうやって本当に価値があるのかどうか、分かるというのですか?」

 此れが焦燥というものだろう。私は上気し、口調が強い。しかしながら、彼はそんな私の様子に、別段戸惑う気配も無く、安閑としている。

「表面上の意では、人の共通意識に依るものでありましょう。真の意味では、それを決めるのは、自分の秤であると言うのが正しいでしょうか」

 穏やかな語調で、彼は何だか分るような、分からないような言明を述べた。私は彼の振る舞いに、何処と無く拍子抜けしてしまい、虚を突かれた風采を見せる。そして、そのまま黙然して、彼の発言の意図を読み取ろうと、その言葉を頭の中で反芻した。

「それは、貴方が作ったのですか?」

「Vox populi, vox Dei.(民の声は、神の声なり)いいえ。それは、人が作ったものです。私の作ったものではありません」

 そう言うと、彼は手を差し伸べて、私の背後を指した。其方を見ると、不思議なことに、椅子が元の通り立っている。私は示されるがまま、再び腰を落ち着けた。

「度々、人はその秤で、他人の重さを量ります」

「肉や骨の重さで量れないのは、やはり不便ですね」

「それ以前に、私は、値踏み出来るものでは無いと思っているのですが」

 私は愁眉を表していたが、彼はそれ以上に物憂げな表情を見せた。

「他人の重さを量るまでなら未だ可愛いものですが、人はそれを用いて、自分の重さをも量ります。そして、それがあんまりにも少ないと、場合に依っては死んでしまうこともあります」

「何だか、滑稽ですね」

 彼の寂然とした雰囲気に中てられてか、私は失念して、思わず肩を落とした。そんなつまらないものに、自分がこれからなろうとは。扉の先に対する憧憬が、急に薄らぐ。

 すると、彼はそんな私の心中を察してか、急にその憂いに満ちた容貌を綻ばせた。

「いけませんね。なに、気を落とす事ではありません。裏を返せば、貴方次第で価値のあるものを沢山見つけられるということです。秤に細工したって、私は咎めませんよ。私が作ったものでも無いですしね」

 彼は私を元気付けるかの如く、そう説いた。しかしながら、そう簡単に気分を変えられる筈も無く、私は悄然としている。

「私に特別な才能は要りません。ただ、教えて下さい。人の価値とは、何ですか?」

 ぶっきらぼうに、私は彼に問い掛ける。

「そうですね。強いて言うなれば、それは人間らしさが決めるものでしょうか」

 ニコリと彼は答えた。

「人らしさとは、何ですか?」

 矢継ぎ早に、私は問う。

「さて、私には答えられませんね。何故なら、それは貴方が決めるものですから」

「貴方が答えられないのに、私に分かりますかね?」

「きっと、難しいでしょう」

 辛辣な言葉を、温和な表情で彼は告げる。私はその真実に、再度肩を落とした。険しい道則に対し、先の見えない不安が、私の心の中で燻ったのである。

 しかしながら、意外にも、其処に絶望は無かった。それは恐らく、彼の言葉の裏に、希望が込められていたからのように思う。

「でも、それでいいのです。ただ、答えを諦めなければ」

 励ますように、彼は私に笑い掛ける。そして、静かに立ち上がると、その後ろに在る扉の前へと移り、白磁の取手に手を掛けた。

「そう謂うものとして、貴方達を定めたのですから」

 最後に彼はそう言って、私にその扉を開いて見せた。

 此れが、私の二十数年前の話である。

 そして、私は未だにその扉の先で、それを模索し続けている。

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