反抒情歌

 女の美しさが花のそれに敵い得るのは、私には不可能に思われてなりません。何故なら、女は動物でありまして、花と違い、意思を持ち、行動をするものだからです。それは女が男と同じ人間である証明であり、その本質は見てくれにあるのではないという、私の考えが此処に表れております。

 成程、花の美しさはその外面に止まり、そこから発展することはありませんが、だからこそ、花は完全な美しさを宿していると言えましょう。そうした美しさを人間である女に求めるには、女が蝋人形か何かにならねば不可能でしょうし、故に、例えば、清純な白い百合の花に女の美しさが敵うなど、到底、難しいのであります。

 しかしながら、人間の男という生き物は兎角、女に花の美しさを求めます。勿論、それは女の内面にも言及するものでしょうが、いずれにせよ、彼等の内の定型の美であるのに変わりはなく、その意味で、花に求める美しさと同様であります。それは、所謂、理想と謂うものでもあります。理想と現実に乖離があり、多くの場合、それは実際に当てはまるもので無いのは、態々、言及するまでも無いでしょう。

 ともすると、女の美しさとは、芸術的なものであるよりも、寧ろ、食虫植物が持つ様な獲物を惹きつける為の性質と似たものではないでしょうか。それは肉感的で生々しく、本来、其処に理想や神秘は無いと思われます。

 ただ、だからといって、私は女の美しさに俗悪を感じたりはしませんが、女にありもしない類の美を求め、ある種、神格化して捉える姿勢には俗悪を感じてならないのです。

 私がこんな風に、女神を信じなくなったのは、貴方の掛けた幻から醒めたからなのでしょうか。

 それとも、ただ、私の本来の寂寞とした本質にあるのでしょうか。

 しかしながら、こうして私が、そうした女の抒情的なものに反旗を翻したのに、何故、貴方は死して、尚、私の前に現れるのでしょうか。

 加えて言うなれば、貴方を最も美しいと感じた、あの、初めて貴方を見た時の姿のままで。

 私には、それが不思議に思えてならないのです。


 貴方にとっての私を初めて見た時がいつであったかを、私は遂に聞きそびれてしまいましたが、私が貴方を初めて見たのは、学部の歓迎会、花見の席であったのを明瞭に記憶しております。

 斯くいう私も、以前は俗悪な男共の一人に過ぎない者でありました。私は、はっきりと意識こそしておりませんでしたが、やはり心の奥底に女というものに対する如何せん変態じみた理想を抱いておりました。だからこそ、白い百合の映えるような貴方の相貌とその凛とした佇まいに一目惚れしたのでしょう。あれは、雪のように花片の舞う、千本桜の狭間でありました。

 貴方と過ごした短くも、長い日々、その一齣一齣を振り返っても、その時の貴方が一番美しかったと私には思われます。それは裏を返せば貴方の見目形以外は何も知らなかったということで、事実、その席で貴方と初めて話をした時から、貴方の美しさは徐々に萎れて行ったのでありました。

 しかしながら、当時の私はそんな真実など殆ど意識の裏にしか表れて来ない程に、貴方に夢中になっておりました。私はそれほどまでに無知で、愚かで、無鉄砲で、即ち、今では懐かしくなって仕舞う程に青かったのです。

 こうした青い時期は人間だれしもあり、それを青春などと呼ぶのでしょうが、私には何と無しにその青に薄っすらと緑を足したい気がしてなりません。

 だって、その時の出来事は、爽やかであったと同時に、何処か苦みを帯びていたでしょう?結局、私の情熱に折れて、いつの間にか私に惚れなどしてしまった貴方も、その頃、緑青色の季節の中にいたのではないでしょうか。


 先日、所用で水道橋の辺りを歩いていると、女坂に差し掛かりました。古びた教会の先にある其処は、言わずもがな、貴方と学校帰りによく通った道なのですが、其処での景色が妙に感ぜられたのです。

 季節は梅雨時、初夏でありますから、その界隈は何処か生命の新たな息遣いのようなものが感ぜられて、ビードロの如き透き通った輝きを、当時の同じ頃、私は貴方の隣で感じておりました。しかしながら、私が一人、其処で目にしたものの印象は、敷き詰められ、前日の雨で湿気を帯びた、積み上がった石段と、その途中の踊り場で咲く薄い紫や赤の紫陽花の静けさでした。

 私の感傷に寂然としたものは既に無く、寧ろ、それは静謐と言って差し支えないものでありましたが、きっと、あの頃の私は貴方の全てを手に入れられた気がしていて、有頂天になっていたのだろうと、ふと気付かされたのでした。

 ただ、そうした興奮がいつまでも続くのかと問われれば、如何に熱されて煌々と紅い光を放つ鉄も、その内に自然と冷えて行くのと同じで、青臭い熱情は冷めて行き、それに代わって鋼のように確かなものが残されてゆくものです。また、そうして、後に残されたものは往々にして、自らの内に於ける定型とは少なからず異なったものでは無いでしょうか。

 私の中での貴方も、理想という名の鋳型に当て込まれる筈も無く、私の青く、迸る熱情の中でその形は歪に曲がってゆきました。貴方は見た目よりも奔放でしたが、何よりも、その柔い胸の内にある種、残酷な一面を持っていて、それは私のその頃の理想とは、かけ離れたものでありました。

 貴方は依然、現世に取り残されている様でありますが、しかし、この世に天国と地獄というものが実際に存在するならば、私の愛した貴方はきっと地獄に行くだろうと、そんな気がしてなりません。

 無論、貴方は法に触れるような真似は決してしませんでしたが、それは飽く迄も人間が定めた玩具の法でありました。東洋、西洋でも共に、人々の信仰する所の物語に於いては、人間の罪業を裁く者が死後の入り口で待ち構えていると伝えられますが、彼等の法典にはきっと、人間の本質を裁く条目が記されていることでありましょう。


 どうしたの?

 或る昼下がりに、私は校舎の近くの路上で、貴方のクスリと笑ったその理由を尋ねました。少しして、貴方は、柔い微笑を口元に湛え、

 だって、ああ、やられたなんて顔をして平たくなっているんですもの、可笑しくって。

 私たちの前でその体を平たくしておりましたのは、体が悪くて飛べなかったのか、車に轢かれて潰れた、真っ赤な雀でありました。

 それは些細な事件でしたが、貴方はそうして生き物の死を嗤うような、何処か道徳的な箍が外れた性質を持っておりました。そして、私は少なからず、貴方のそうした部分を軽蔑しておりました。

 こうして、貴方に求めていた花の美しさに対する愛着は萎れてゆき、しかしながら、その代わりに起こったのは、そうした私にとっての負の側面を含めた、貴方の存在に対する愛情なのでした。

 

彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。彼女の顔はこう云う昼にも月の光りの中にいるようだった。彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだった)今まで知らなかった寂しさを感じた。

 

 これは芥川が晩年に記したものでございます。ご存知の通り、私は彼の小説を好んで読んでおりましたが、貴方を知ってしまった今、この一節に関しましては、私には陳腐で胡散臭く思えてなりません。

 貴方の肉体の滅びてしまった今、通りすがりの女に一滴の期待さえせぬ私は、一人で居りますこの状況に充足しております。

 詰まる所、貴方によって私の青緑色の時代の、女に対する幻想は破壊され、それは同時に女に癒しを求める考えも打ち砕きましたから、今の私には貴方以外の女というものを求める必要が無くなってしまったように感ぜられます。それどころか、恋人を求める人間の習慣に人間の弱さや脆さ、孤独に対する逃げといった種々の恥ずべき感慨を覚えてしまい、貴方と私を結び付けたものを忌避してしまう有様なのでした。

 こんな私は動物として、即ち、人間として失格していると思われます。ともすると、これは貴方が私に掛けた、呪いなのでありましょうか。


 尤も、貴方が死して尚、私に視認されながらも、私は呪いや霊と言った事象を信じてはおりません。

 少年時代、私は存在のあやふやな者達を日常的に見て生活をしておりました。しかしながら、私にとってそれらは世間一般で騒がれる所の、超常的な霊と呼ばれる存在では無く、小学校で教科書を眺めながらぼんやりと耽る、他愛も無い空想の一種に過ぎぬものでありました。

 仮令、自らが認識するものであっても、己の生活に影響を及ぼさないものは取るに足りないものであります。それはつまり、この世に存在するものこそが、私にとって意味を持ち得るものであり、そうでは無い彼等は本質的に私の人生に関わりの無いものでありました。

 この世の様々の宗教では、死後の世界が在ると伝えられております。尤も、種々の宗派によってその内容に隔たりはございますが、仏教では解脱を経てもその魂が消えてなくなるとは伝えられておりません。また、キリスト教でも、最後の審判を待った後は、永遠に消えること無く、地獄なり、天国なりにおりますようです。

 多くの人々は、そうした死後の在り方に平穏を感ずるのかも知れませんが、私には己の魂が肉体を離れて、直ちに消えてなくならないのが、何だか、ざわざわと不安に思えてなりません。

 これは狭小な私の心持ちに因るものかも知れませんが、そんな際限の無い、あやふやな魂の在り方をする位ならば、自らの肉体の消滅と共に、己の魂、その存在さえもが、ふっと消え去ってしまえば良いと思うのです。

 私はこの確かな肉体を以てして、私の魂、そして、この人生を握り締めている。心臓が止まり、息を引き取ったのならば、それでお終い、これ限り。

 それで良いではありませんでしょうか。そして、その方が美しくはありませんでしょうか。


 私がこうした、一定の宗教にとっては、不道徳な考えを抱くようになった為でしょうか。いつの間にか、私の不思議な特性は、消え去っていたのでありました。

 あの日、泣き方を忘れてしまってすらいた私が、貴方の棺の前で、あんなにも泣き続けてしまったのはきっと、こうした死生観に因るものであったのでありましょう。

 しかしながら、貴方は私の死者に対する冷徹とも取れる態度を知ってか知らずか、貴方の三回忌、真夏の或る、驚くほど冷えた夜の闇の中から、すうっと姿を現したのでした。貴方はあの日、不意にその相好を覗かせましたけれども、私がそれで肝を冷やす筈が無く、私の内に生じたのは郷愁の如き温かで、物寂しい感情でありました。

 死した貴方の姿は私の一目惚れをしたもので、また、白く透き通って見えましたから、生前より美しく、私の瞳には映りました。私は思わず、その姿をまるで憑かれたように見入ってしまいましたが、貴方がその唇を開けばやはり、その美しさは失われてしまうのでありましょう。

 貴方は私との愛の絆から、私の久しく眠っておりました性質を呼び起こしてまで、私に会いに来てくれたのでしょうか。

 それとも、私が三回忌を一つの区切りとして、貴方の魂と決別しようとしたのを悟った為でございましょうか。


 私は心より、貴方を愛しておりました。

 あの愛情を超えるものなど、いえ、それに近づく感情すら、この世にあり得るなどと私は思っておりません。

 貴方の為になら、私は本当に死んでも構わないと思っておりましたから、自分の体の一部を貴方に差し出そうと、首を括る縄を用意しておりました。

 あら、そうだったの?

 貴方はこの話を聞けば、何気無い顔つきで、きっとこんな風に言って笑ったことでしょう。そして、そんな貴方だからこそ、私が首を吊る前に、私に別れの言葉も残さず、静かにこの世を去って行ったのでしょうか。


 愛と呪いとは、何処か似通った部分があると、私には思えてなりません。強い愛情は、様々の方法で人の心を縛り付けるものです。

 それは場合によっては、人を狂わせ、死に至らしめすらする恐ろしいものであります。ともすると、「愛」という独特の響きを以て形容されるこの感情の方が、呪いなんてものよりも数段に力を持っていて、その遍く流布されている所からしても、余程、質の悪いものではないでしょうか。

 すると、これも貴方の呪いの一つ、言い換えるならば、愛の成り行きでしょう。私は貴方が私の下を去ってからというもの、他人と関係を持つに於いて、どうしても、その人との別れを想像してしまいます。そして、その、恐らくは遠くに、しかし、いつか必ず訪れる別れの寂寥さが、眼前で話すその人の背後にちらつき、私の心をしんとさせてしまうのです。

 私はいつしか、そうして、誰と居る時にも、張り付いて離れない影を背負って生きるようになりました。私は貴方の残していった愛に、未だに翻弄され、日々を消光しております。

 こうして見てみると、理知的には、愛などというものは、私にとって、害悪たる部分が余りに多い感じが致します。全ての愛と見切りをつけて、尚、悠々と生きる人がおりましたら、その姿は如何に雄偉でありましょう。

 しかしながら、いち人間として、我ながら哀れなもので、我々人の子は、愛無くして幸福な生を生きるのは難しいようです。


 最近、奇矯な愛の物語を読みました。鳥の妖ものと人間の少女の物語です。

 妖と謂っても、彼は平素では人の姿をしておりますから、初め、少女には彼が人で無いとは気付きませんでした。その内に、彼女は彼が人外のものであるのに気付くのですが、いずれにせよ、そうして、共に幼い時から彼等は巡り合い、年を経るにつれて次第に二人の間には恋心が芽生え、惹かれ合ってゆきます。

 しかしながら、妖の方は自らの宿す時間と人間である少女の宿す時間の違いを悟っており、その恋を元より諦めておりました。少女が高等学校に入学する頃、彼女は自らの恋心を彼に晒すのですが、彼の方はそれを区切りに彼女の下を離れてしまいます。その恋を諦めきれない彼女は何とか彼を探し出し、そして、あろうことか、その恋を成就させてしまいます。

 私達の間にも、或いは、こうした恋の形もあり得るのでしょうか。


 貴方が再び姿を現してからというもの、私は貴方の声を聞いておりません。

 それはもしかすると、貴方がその花の美しさを、いつまでも私の目に焼き付けておきたいと思うからなのでしょうか。

 きっと、私に忘れられたくないと思うからでしょう。

 私が貴方を忘れたくないと思っているからでしょう。

 ただ、私が貴方に求めたのは、結局、花の美しさなどではありませんでした。私が愛したのは、貴方という存在そのものでした。

 我々の精一杯の生において、存在せぬものを追い求めて、何になりましょうか。存在せぬ貴方を求めて、何になりましょう。

 ましてや、それが夢や希望といった類のものならまだしも、過去や絶望に捕らえるものであるならば、それは人生の敵であります。

 『抒情歌』という、川端康成の小説があります。

 

冥土や来世であなたの恋人となりますより、あなたも私もが紅梅か夾竹桃の花となりまして、花粉をはこぶ胡蝶に結婚させてもらうことが、遥かに美しいと思われます。

 

 これは私が生まれてこの方読んだ、幾つもの小説の中で、最も美しいと感じた文章で構成されているのを、貴方はご存知でしょうか。

 この世のあらゆる物語の原初を神話に求むるならば、神話は科学同様に、元々はこの世界の事象を説明する為に編まれたものでありました。私が貴方への想いから、何気無く筆を執ったのも、物語というものの遺伝子に組み込まれたこうした本質を意識の深い所で知っていて、私の生というもの、延いては、人の在り方というものを認識するのに有効と感ぜられたからであると思われます。


 私はこうして、彼と同様の方法で、貴方に語り掛けるのを一つの儀式として、その詩歌にさえ槍を向け、貴方に別れを告げようと思っているのです。

 しかしながら、その為に、半透明の硝子を通して差し込んだ、柔い陽の光のようであった筈の貴方との日々を回顧しようと思うのですが、驚く程に、思い出が浮かんで来ません。これは、貴方を忘れたがっている為の現象なのでしょうか。

 いえ、きっと、そうではありません。思い出が現実に勝ることは往々にしてございますが、私にはどうやら逆の現象が起きているようであります。

 生身の貴方を私は全身全霊で愛し、心より慕っておりました。それは私の人生と本当に向き合うのと、同義でありました。

 貴方と出会っていなかった私は、日々を安穏と暮らし、それに疑いを覚える機会もきっと無く、そうして今も他の女性と幸せに過ごしていたかもしれません。私は、そうあり得た私の生を想像して、ぞっとする思いを抱かずにはいられないのです。それは貴方がいなくなり、この世界が灰のようになってしまった今でも尚、変わらず、強くそう思うのです。

 だからこそ、私は目の前の貴方を黙殺するのでしょう。半透明になってしまった、幻になってしまった貴方から目を逸らすのです。

 代わりに、私はもうこの目に触れられぬ、墓の下の、灼けた骨になってしまった貴方に向けて手を合わせ、そして、その内にそれさえも、止めようと思っているのです。


 親愛なる貴方。生きるとは、こうした蕭条としたものではないでしょうか?

 貴方という人のいたこの人生で、私は自らの生のそうした火傷のような、また、紺碧の側面をひっくるめて、私の生に真摯に向き合わねばならないと、そう思えてならないのです。

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