月島の水鳥と鬼

 科学、乃至、実証主義と謂うのは、本来、日本になかった概念である。

 随分と大仰な言葉を持ち出して来たものだと、鼻に付く者が在るかも知れないが、何の事は無い、本著はとある飲み屋での、私の体験談に依拠するものである。それでは如何にして、若年寄の飲み屋での一件から、こんな殊勝な単語が出現して来たのかの経緯を此処に記そうと思う。

 あの日、私は仕事が早い時間に終わり、定時前から月島界隈をうろついて居た。如月の、随分寒い日だったもので、商店街に隣接する銭湯で湯に浸かった後、折角だからと、久々に行き付けの酒場へと繰り出そうとした次第である。

 華の金曜日、私は鷹揚に店の硝子戸を引くと、中を覗き込んだ。どうやら、少し早過ぎたのか、店主は仕込みの最中であった。

「入って良いですか?」

控えめな調子で、私は尋ねる。

「いらっしゃい。大丈夫ですよ。おや、お久しぶりです」

 店主に私は顔を覚えられて居た。私は愛想笑いを浮かべて、店の中程まで入ると、外套を脱いだ。

「すいません。今日は予約が一杯で…。隅の席しか、空いて居ないんですよ」

 恰幅の良い主人は身形に似合わず、申し訳無さそうに体を小さくした。

「盛況ですね。皆、何処が美味いか、よく知って居る」

 カウンターの端の席に、私が感心して腰を下ろすと、主はへぇ、と言って照れ臭そうに笑った。

「あん肝か白子は、未だありますか?」

「生憎、あん肝はもうやってませんが、白子なら未だありますよ」

「では、それと、ばくれんを一合」

 時期的に、それら冬の旬物は、もうやっていないかも知れんと思って居たので、一つでも在り付ける僥倖に、私は思わずほくそ笑んだ。

 その後、店を入って、一時間程経った頃であったろうか?表では、夜の帳が下り始め、薄暗くなり始めた頃合いである。私は徳利を一つ空け、少々酔いが回って居た。先程、湯浴みをした所為かも知れない。平素より、酔い易くなっていた。

 一服しようと、ジャケットのポケットの中を弄る。左側には無く、右側に手を入れた時、其方側に、いつの間にやら男が座って居るのに気が付いた。

 男は紅毛の南蛮人で、その外見に似合わず、濃い口髭の口元へ、小さなお猪口を近付けている。その風采は鼻が低く、目の小さい、いかにも、人の好さそうな西洋人と謂った印象だったが、私は自分の隣に人など居ないものと思い込んでいたので、思わずぎょっとしてしまった。しかしながら、それを相手に感付かれると、何処と無く気まずくなるように思われたので、何でも無いと謂った体裁を装って、そのまま煙草を吹かし始めた。

 暫く、そうして、煙草を銜えながら、壁にぶら下がっている店の品書きや、賑わい始めた店内をそれと無く眺めていたが、私の意識には、脂の様にその男の事がこびり付いてしまって居た。多少酩酊していたとはいえ、音も無く、忽如として現れた様に感ぜられたので、やはり妙な感慨を覚えたのである。

 私はちらりと男を盗み見る。すると、此処で、更に奇妙な事に気が付く。男は修道士の着る様な黒衣を纏い、店の中だというのに、もじゃもじゃとした頭の上に、帽子など乗せて居る。私は意図せず目を見張り、男を凝視する。その時、不覚にも、彼と目が合ってしまった。

「何か?」

 男は慣れた口調の日本語で、私に尋ねた。私は思わず、赤面してしまった。

「いえ、何でも。これは失礼」

 取り繕う様に、捲し立てる。その後、男は何事も無かった様に、慣れた手付きで箸を持ったが、私は何と無しに、居心地が悪く感ぜられた。

 気を紛らわす為、彼と反対側の天井の隅に向けて、私は煙を吹き付けた。暫くの間、そうして煙草を燻らせていると、何やら右肩を突く者がある。見ると、男が何故だか嬉しそうに目を細め、私の手元にある煙草の箱を指した。

「一本、頂けませんか?」

 やはり流暢な語調で、男は私に尋ねた。

「良いですよ」

 気まずい雰囲気を感じて居た私は、それが助け船の様に思われ、透かさず一本差し出す。

「ありがとう」

 彼は軽く会釈をすると、ライターなど渡して居ないのに、いつの間にか火を付けていた。

 火の元の類など、持って居ない様に見えたので、如何にして火を付けたのだろうかと、つい気になってしまう。しかし、男を観察するのには、些か懲りて居たので、何食わぬ顔で、私は再び煙草に口を付けた。

 短くなってゆく煙草を眺め、灰を軽く落とすと、今度は正面の天井に煙を吹き付ける。見ると、男も同様の仕草をして居て、それが西洋の魔人の如き出で立ちに覚え、中々様になって居た。

「何方から、来られたのですか?」

 私は徐に、男に話し掛けた。普段、一人で酒場を訪れる際は、他人に声を掛ける事など滅多に無いのだが、何処までも、不可思議に思われたその男に、殊更興味が湧いたのである。

「ポルトガルです。名前はジャボと言います」

 人懐こい声で、此方が尋ねて居ない事柄までも彼は答えたが、何故だか、その表情には何処か悪戯っぽいものが浮かんで居る様に感ぜられた。慣れない酒に、少々酔いが回っているのか、此方も顔が赤い。

「へぇ、聞きなれないお名前ですね。ポルトガルでは、割と多いんですか?」

 西洋の事情にとんと疎い私は、何食わぬ顔で尋ねる。すると、男は然も可笑しそうに笑った。

「いえ。先ず、居ないでしょうね。しかしながら、聞きなれた言葉であるのは確かでしょう」

 愚な問いをしてしまったかと、私は再び気恥ずかしくなった。一方で、存外、男は私の発言を気に入った様子で、上機嫌に鼻歌など歌いながら、私に徳利を差し出した。

 その後、恐らく二時間ほど、彼とそうして言葉を交えながら、飲み交わして居た。自らを貿易商と名乗るその男は、以前、日本に長く住んで居た時期があって、それでこうも上手に日本語が話せるのだと言う。また、どうやら見た目以上に多くの歳を重ねて居る様で、世界中で経験した様々な話を、面白可笑しく、私に聞かせてくれた。

 そうして、お互い呂律が回らない位になって居た頃、何処から出て来たのか定かではないが、彼の日本に対する後悔という談柄になった。お互い、完全に酔いが回って居たし、夢の様な事ばかり言う様になって居たので、その話の真偽は定かでは無いが、それは次の如き内容であった。

「私は以前、煙草をこの国に広める切っ掛けを作りました。しかし、煙草以外に、私が切っ掛けになって、広げておきたかったものが在ります。私はこう見えて、功名心が強いのです」

 空の煙草の箱を指しながら、彼は含みのある台詞を述べた。彼の舌は回って居なかったが、その日本語は相も変わらず卓越している。

「へぇ、煙草を、そりゃあ凄いですね。して、それは何ですか?」

 私も舌は回って居らず、また、日本語の方も蕪雑である。この時既に、私の意識には、彼の言葉の内容が、半分程しか入って来て居なかった。

「そいつは、実証主義と謂うものです」

 男は私の胡乱な受け答えを気に留める様子も無く、話柄を先へと進めて行く。

「はぁ、何ですか、それは?」

 聞きなれぬ言葉に、私は朦朧とする頭を傾げる。

「貴方達が今現在、信奉しているものですよ。分かり易く譬えるなら、科学とか、そう謂ったものです」

「成程」

 科学か、其れなら聞き馴染みがあると、私は訳も分からずその話を腹に落とし、二、三度頷く。

「同業者に先を越されてしまいましてね。それの輸出を思い付いたのは、確かに私の方が早かった筈なのですが…」

 そう言って、彼は本当に悔しそうに歯を食いしばった。

「確かに、それは惜しい事をした。そんなものを日本に伝えられて居たら、さぞかし鼻が高かったでしょうに」

 イマイチ、話の趣旨が掴めなかったが、取り敢えず、感心した振りをしようと、私は呆けた頭を何度も振った。

「ええ、神に槍を突き立て、この国の人間を一つの焦点の下、盲目に仕向ける大役を担えなかったのは、非常に遺憾です」

 大分と酔っているのか、男は水鳥をぐいと遣りながら、訳の分からぬ事を述べた。

 槍だ、盲だのと、それは心なしか、物騒な言明にも聞こえる。しかしながら、私は天主教などに関しても、微塵の知識も有しては居ないので、南蛮式の考え方だと、文明の開花はそんな解釈になるのかと、変に神妙な面持ちを見せた。

「いえ、全くです。科学の渡来無くしては、今の日本人の在り方はなかったでしょう」

 私が当てずっぽうにそう応えると、男は深く頷いた。

「ええ。定量化されたものだけが、意味を与えられ、人間と謂う対象は、客観主義の前で薄れて行く。人は人である事の問いに対しても、意味を失って行くのです」

 彼は上気した相貌を見せ、その赤ら顔は西洋の赤鬼宛らである。此処に於いて、私は天邪鬼な応対をしていた事に漸く気付き、腑に落ちない感慨を覚えつつも、己の立場を百八十度変える事にした。

「何だか、恐ろしい話ですね」

 そう言って、話を合わせる様に、私は口をへの字に曲げる。そして、飲み過ぎた所為か、薄ら寒く感ぜられ、ぶるりと体を震わせた。すると、その発言が更に男の気を良くしたのか、彼はにんまりとその口元を歪ませた。

「馬鹿を言っちゃあいけません」

 酔いの所為で、私は俯いてしまって居たが、彼はお構い無しに、悪戯っぽく指を振って見せる。

「そんなのは、何て悍ましく、愚かで、素敵な事でしょう」

 今までと打って変わり、男は鴉の様な、鋭い笑い声をした。

 私はハッとして、思わずその相好を見る。すると、彼は得も言われぬ、ゾッとした笑みを見せたのだった。

 その後、どうやって帰ったのか、はたまた、いつの間に彼が姿を消していたのか、定かではない。冴えた頭で考えれば、現実にはそんな出来事は本当でありそうにないので、もしかしたら、酔いから見た夢や幻覚の如きものであったのやも知れぬ。

 しかしながら、どうしてもあの時の笑い声が忘れられず、こうして筆を取らずにいられなかった次第である。

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