オマージュ ジャンクボックス

目取真 文鳥

北方水準原点

 みなもとにあって 水は

 まさにそのかたちに集約する

 確か、出だしはそんな句であった。

 しかしながら、今の私の意識にその先の内容は残されておらず、夢の中、その石碑を眺めているにも拘らず、どの様な内容が其処に刻まれているか、知ることが叶わない。その事実はまるで、私の現状を体現しているかの様である。

 実の所、『水準原点』と呼ばれるその調べを私の心に取戻したくなったのも、動機の一端を担っていた。

 私が振り返ると、断片的な思い出と共に、其処には過ぎ去った人々の姿が在る。そして、暫時の後、彼らを見て、幸いにも、夢の中の私は素直に涙を零せるのであった。彼らは今や、私の感情の源流を宿しており、剥き出しの私はそれに触れられるのである。ただ、だからこそ、涙を流す私のその姿態は、本当の私を表している訳では無かった。

 夢の中で、心が裸になっている私。その私と同時に、その後ろにも私の視点がある。

 それは醒めた視点で、その私は感傷から素直に涙を流す動物的な己の姿を、能面顔で眺めて居る。そして、それが偽りの感情に過ぎない事も、少なくも、多い経験から悟っており、虚しい感慨を覚えるのだった。

 夢中の私は、此処でふと、思い出す。だからこそ、私はこの小さな旅路についたのだと。私は感情と謂うものが、分からなくなっていた。

 山頂から吹き下りる風でも吹いたのか、休息所の小さな窓がガタガタと鳴り、私は目を開いた。どれ位、眠っていたのかは分からないが、随分と長い間、瞼を閉じていたように感ぜられる。しかしながら、山小屋と呼ぶにも相応しくない、あまりにお粗末なその掘立小屋の窓から見える外の景色は、相も変わらず真っ白であった。厚手のジャケットを着ていたけれども、寝覚めの私はぶるりと体を震わせた。

 水無月にも関わらず、高所の気温はやはり低く、それと霧の景色が相まって、現実とは隔絶された雰囲気が此処には満ちて居た。その所為で、私は未だ夢の中に居る様な心地さえするのであった。しかしながら、其処が現実であるのを知らせるものとして、私の隣には若い女の姿が在った。

 次第に霧が濃くなり、私が小屋に避難する前からその女は其処に座って居た。歳は私と同じか、少し下位で、薄暗がりの中、ちらりと見えただけだっただが、端正な顔立ちであるという印象を受けた。その時、私は平日に人の訪れの少ないその山を、若い女が一人で登って居るのは些か奇妙だと思ったが、挨拶程度に二言、三言、言葉を交わした後、私は寝入ってしまったので、その女について殆ど何も知らなかった。

 その風貌からして、物取りをする人では無いと思ったが、私はそれと無く自分の持ち物が無くなっていないか、抱えていたリュックサックの中を覗く。すると、女は私が起きたのに気付き、此方を見たが、人見知りなのか、何か言いたそうにして、結局目を伏せてしまった。

「どの位、寝て居ましたか?」

 恐らく、霧の中、不安を感じているのだろうと、私は社交辞令として、はにかんだ顔を添えて、女に話し掛けた。

「一時間くらいかと」

 女も不器用な作り笑いをして見せた。ただ、その後に言葉は続かず、再び、彼女は黙然としてしまった。寝惚けた頭の私も無理に言葉を発しようとはせず、自然な成り行きとして、寂然とした時が流れる。私はする事も無いので、ただ、当てもなく、窓の外の茫漠たる白に鈍い視線を留めた。そうして、ひっそりと、何もしないで居ると、静寂を溶かし込んだ様な霧の海の中では、余りの静けさに、お互いの僅かな動きに生じる衣擦れの音や外界から訪れる出所の分からぬ小さな音が、自然と私の空っぽの意識に上って来るのであった。

 私は再び何か話柄を持ち出そうと、体を起こし、彼女の方を見た。しかしながら、幾らか頭の冴えて来た私は、言葉を発するのを寸での所で止めた。先程の彼女の相貌が、霧の中に閉じ込められてしまった不安を表していたのみならず、隔絶された状況で見知らぬ男と一緒に居る事に対する危機感も表していたのでは無いかと謂う考えに至ったのである。それは至極当然の危機意識で、すると、女に対し、やたらと接触を試みるのは、寧ろ、愚策に思われた。何事も無かった様に、私は俯いて、視線を白茶けた古びた床に落とす。

「霧、晴れませんね」

 私の思考は的外れだったのか、少しして、話を切り出したのは女の方だった。

「ええ。ただ、濃い割に、意外と直ぐに晴れたりもするので、余り心配する必要はないかと思いますよ」

 不安げな彼女の相好に、私はこの霧の中で心細く感じた少年時代を思い出した。

「此処には何度か来られた事が?」

「地元が近くなのです。尤も、今は出てしまいましたが」

 私がそう話すと、女は少し安心したのか、表情を緩めた。

「地元の方でもやはり、此処に来られるのですか?」

「ええ、まぁ。でも、普通、あの水を飲んだりはしませんが」

 女の話し方から、私は粗方彼女の目的を察し、それを顧慮して答える。すると、『水』という言葉を聞いて、やはり女は上気した反応を見せるのだった。

「実際の所、効き目は有るのでしょうか?」

「どうですかね。貴方もそれ目当てで来られたのですか?」

「ええ。ただ、私は涙を流す為では無くて、抑える為に」

 そう言って、彼女は泣きぼくろの映えるその顔を、照れ臭そうにした。

 此の山には、俗に水準原点と呼ばれる霊所が存在する。国会前庭の一角にあるものと別であるのは、言うまでもない。一見すると、何の変哲もない泉なのだが、その水を飲むと涙の枯れてしまった人間が再び泣ける様になるという言い伝えがあった。その土地の人間には、古くから知られていたそうだが、近年になって、何処から流れたのか、その噂が広まり、凡そ三十年程前に石碑まで建てられるに至った経緯がある。

「最近だと、涙を抑える為にも効果があると言われているそうですね」

 私が何の気なしにそう言うと、含みのあるその台詞に、彼女が再び表情を曇らせた。

「抑えるのには効かないのですか?」

「私はその為にあそこを訪れた人を知らないので、何とも言えませんが、確かに、水準原点なんて言われる位だから、涙の量を正常に出来るのかも知れませんね」

 正直、私自身はその水の効能を殆どプラシーボ効果、思い込みに依るもの位にしか思っていなかったので、気の抜けた返事をした。しかしながら、彼女にはこれで十分だったようで、また直ぐに元気を取り戻した。

「貴方は泣く為に来られたのですか?」

 今度は女の方から、私の顔を少し覗き込む様に尋ねて来た。しかし、彼女のその問いに、私は正直に答えるべきか躊躇う。その理由を深刻なものとして捉えられるのが、厄介に思われたのである。

「父の葬式があったのですが、其処で一滴も涙が出なかったのです。ただ、無感情では無くて、感慨深くはあったのですが、流石にそれは如何なものかなと」

「本当ですか?私だったら、号泣すると思います」

 涙脆いというのは本当なようで、自分の父親の死でも想像したのか、一呼吸置いて、女は俄かに瞳を潤ませた。ただ、その言葉の内容自体は思いの外、軽い受け答えであり、殆ど無思慮で、薄情とも思える程であった。しかし、他者の憐憫の情など、寧ろ、煩わしく感ぜられる今の私には、そのくらいの方が有り難く感ぜられた。そして、それと同時に、こうした女の涙が見せかけの涙、安い涙と感ぜられて、どうしても白けた気持ちになるのを禁じ得ないのであった。

「泣きたいのでしたら、最近話題のあの小説を読めば、きっと泣けますよ。名前は確か…」

 そう言って女は、額に指先を当てて、そのタイトルを思い出そうとした。しかしながら、幾ら待ってもその名は出て来ぬようで、気の毒に感ぜられた私は話柄を転じる事にした。

「良いですよ。無理に思い出さなくても。そもそも、私には現代のものは気を衒い過ぎるものばかりで、肌に合わないのです。尤も、その発想なり、技巧なりには目を見張りますが、近頃はそれにも何も感じなくなってしまいました。それに、只泣きたいのならば、薬でも飲めば良いと思っています。だから、一応あの水は飲むつもりですが、それが本来の目的ではありません」

「では、何の為に?」

 当然のその問い掛けに、私は思わず苦笑いをする。その回答があまりにも辛気臭くて、気恥ずかしさを抑えられなかったのである。

「自分の感情、若しくは、その在り方と向き合いたかったのです。この場所はその為には御誂え向きだったので」

 私が登山の目的を伝えると、案の定、彼女は名状しがたい表情を見せたのだった。

 過去の私は涙を伴う強い感情とは、人間の深い所に触れた時のみ、現れるものだと思って居た。故に、それは美しく、掛け替えの無いものであると、そう思っていた頃の私は敬虔なキリスト教徒の様であったと思う。其処には、人間の奇跡が溢れて居て、人間とは幸福な生き物であると謂う感慨が私を満たして居た。しかし、きっとそれは子供の心を持った者のみが掛けられている、魔法の如きものだったのだろう。

 あれがネバーランドの祝福であったのなら、その魔法が解けるのに、取り分け何かの切っ掛けがあった訳では無いのも合点が行く。只、私は生きて、そして、様々な経験を積み重ね、物事の分別が付くようになって行った。人はそれを当たり前の成長と呼ぶだろう。無論、それは本来、喜ぶべき発達の筈である。しかしながら、無垢な心には霊的なものを宿して居た涙の価値は、歳を取るにつれ、自己や他者を観察するにつれ、疑わしく感ぜられて来るのであった。

 人が泣くのは、あまりに動物的では無かろうか?

 いつ湧いたのかも分からないその問いは、生活の中での実感を以て、私の感傷的な側面、その花畑を、葉ダニの如く次第に侵食して行く事となる。以前、何処か神聖な雰囲気を纏っていた私の内に存する感情の流れが、唯の無機質な水流に過ぎない事実に気付かされたのである。即ち、突き詰めると、感情とは、欲求、若しくは、排泄行為などとも同様、生理現象に過ぎないのであった。そして、何処か薄暗い雰囲気を纏ったその悟りに至って、私は甘い幻想から解き放たれたのである。

 啓蒙という言葉を用いれば、それは進歩と言えよう。それは正しく、神話からの解放であった。そして、いつまでも夢の中に居ては、この合理主義の社会で戦い抜くのが難しいのも事実である。実際、感情に左右されず、理性に存して決定を下し続けられるのは大きな武器であると実感している。ただ、私はいつからか夢から醒め、冷静である為の力を得たのかも知れないが、それはそうした、社会で生き抜く力と引き換えるにしても、切り捨てるには惜しい程、幸せな夢であった。

 尤も、私が意図してそうなった訳では無かったが、夢から醒めた私には涙が枯れてしまっていた。それは感情と謂うものに対する、白けた感慨からそうなったかは分からない。感情とは生理現象であるから、そうした私の心理に関係無い所、即ち、単純に年齢や環境の所為というのも十分にあり得る。ただ、そうした要素を考慮しても、やはり私には、自分が「人間と謂う動物に備わる、感情という機能」、余りにその物質的なセンテンスを直視過ぎたように思えるのであった。

 そして、感情から一切の神秘を失われた人間の在り方が、如何に荒涼としたことか。それを思わせたのが、私の人生に於いて非常に大きな存在感を持っていた父の死と、それに対する自らの余りに静か過ぎる反応であった。私は此処に於いて、己の幸福な人生の為に、自己の感情の在り方を見つめ直す機会に迫られたのである。

 私の予期していた通り、程なくすると霧は嘘の様に晴れて行った。休息所を出ると、それは遠くの方で僅かに霞掛かって此方を眺めているだけで、私はこの山での経験から、再び歩を進める事にした。女は再び霧が濃くなるのを恐れて下山するかとも思われたが、どうやらそのつもりは無いようで、私と共に表へ出ると、水準原点への行先を尋ねて来た。

 粒の大きな砂利の山道は然して急では無かったものの、遠方から此方の動向を窺っているような霧の姿に、私は足を速め、その道則は苦しかった。小屋からの道中を共にする事となった女も、初めは私のペースについて来れていたが、段々とその息は荒くなり、口数が少なくなって行き、終いには私の少し後ろを歩くようになってしまった。ただ、そうして、女が辛そうな風体を表し始めると、冷えた体温を宿す筈の霧が、恰も彼女を慮るかの如く、私の視界から徐々に消えて行き、到頭、見えなくなってしまった。目的地まで程なく着く事もあり、私は漸く速度を落とすと、女の方に振り向いた。

「もう直ぐですよ。それに、霧もすっかり晴れてしまいましたから、もう急がずとも良さそうです」

 私がそう言うと、女はあからさまにほっとした顔付きを見せた。そして、それに釣られてか、幾らか気を張っていた私の表情も俄かに緩む。

「さっきまで濃かった霧が、急にこんなに晴れてしまうなんて。まるで、霧が貴方を気遣ったかのようです」

 その所為か、私は柄にもない台詞を口にする。すると、女は噴き出しそうな表情を見せた。きっと、陰気臭い言葉ばかり吐いていた私から、急に詩的な発言が飛び出して来たので、可笑しく感ぜられたのだろう。

「だとしたら、きっとあれは、本当は優しい心の霧だったのかも知れませんね」

 私の調子に合わせてそう言うと、女は童心に返ったように朗らかな表情を見せるのだった。そして、其処でふと、照れ臭さと共に、ある小説の名前が私の脳裏に浮かんだ。

「泣けるものではありませんでしたが、私にも感情について印象深いものはありました。『抒情歌』という題の小説です」

 それは随分前に読んだ、川端 康成の短編小説であった。


 冥土や来世であなたの恋人となりますより、あなたも私もが紅梅か夾竹桃の花となりまして、花粉をはこぶ胡蝶に結婚させてもら うことが、遥かに美しいと思われます。


 尤も、其処には霧や岩と謂った無生物に人が転生する内容は記されて居ない。しかしながら、私にはその、心の奥に沁み入る旋律が、この場で意味を持つかのようにして、不意に思い出されたのである。それは涙を伴う強い感情を引き出すものでは無かったが、本当に岩の割れ目に湧水が浸み込む様な、静かで居て、しかし、深い感傷を私に齎したのだった。

 それは涙を引き出すには、余りにも静かに私の心を流れる潺であったのかも知れない。しかし、今の私にもそれが言いようも無く尊く感ぜられるのは、その根底に本物が宿っているからなのだと思う。

 ともすると、私、いや、私達人間にとって必要なのは、感情それ自体で無く、寧ろ、それを引き起こす「何か」に在るのであって、その「何か」を見付ける事が人間の生に豊かな実りを齎すのでは無かろうか?

 強い感情を引き起こすからと言って、其処に我々にとって掛け替えのない何かが無ければ、それは人にとって、どれ程の価値と意味があると言えるだろう?

 そして、その掛け替えの無いものを見付けられた時、其処に必ずしも強い感情が必要だろうか?

 そうした問い達が泡沫の如く浮かんできて、最後に私の意識に一つの命題が残された。

 涙など、本当は必要ないものなのかも知れない。

 女と言葉を交えながら、私は道端の穏やかな顔付きの岩の間に咲く、菖蒲か何かの小さな白い花を眺め、そんな考えを抱くのであった。

 程なくすると、平たい開けた場所に出て、その先に澄んだ水源が現れた。その畔に人が座り込んで居るかの如き、黒い影が見えたので先客がいるかと思ったが、よく見ると、それは例の石碑であった。私の隣で何かを話していた女は、その光景を見て、思わず感嘆の声を上げる。そして、然程険しい旅路では無かったように私には思われたが、彼女としては思う所があった様で、その瞳から涙を数滴零し、旅の目的へと走り寄って行った。

 私も一呼吸遅れて其処に辿り着くと、動きの感ぜられないその水の集まりを覗き込む。水底の砂礫の動きで、其処らから水が湧いているのは覗えるのだけれども、その水が溢れる事無く、何処へ行くのかが判然としない。尤も、それでは水源と呼べないから、確か、その淵に存する何れかの岩の下の隙間を流れて、細い川を成しているという話であったが、それも随分前に聞いた内容だったので、何処から流れ出ているかなんて事は忘れてしまっていた。

 私はその、何処か現実離れした水の集合から目を離すと、直ぐ傍に、あの石碑があるのに気が付いた。それはまるで、随分長い間、高所の水気を含んだ冷えた風に晒されながら、私を待ち続けて居たかのような、そんな佇まいをしていた。此方を見上げる、もう一つの旅の目的であったその正面に立つと、私はじっとそれを眺めた。それは確かに石で出来ていたが、その表面はまるで鋼の様でいて、また、青鈍色の光を放っており、その所為か、ありありとした実感を以て其処に在った。


 みなもとにあって 水は

 まさにそのかたちに集約する

 そのかたちにあって

 まさに物質をただすために

 水であるすべてを

 その位置へ集約するまぎれもない

 高さで そこが

 あるならば

 みなもとはふたたび

 北へ求めねばならぬ

 北方水準原点


 深く其処に刻まれた、その響きに私は立ち竦む。そして、私の心象に目の前のものと同様の水源と、いつか、この世がそれまでの無垢な色を失い始めた頃に見上げた、重い曇り空が現れた。そして、確かにそれは私の心の原風景に違いないのであった。

 そうこうする内に、女が水を容器に入れて持って来た。この場にそぐわぬ可愛らしい暖色の入れ物に汲み取られたその透明に、私は気が引けるような心地がしてしまった。そして、手渡されたその液体が揺れ動くのを具に見つめながら、そうした用意をしようとすら思っていなかった自分に気が付くと、此処で漸く、本当はその水を飲もうなどと思っていなかった事を悟った。あのあどけない、春の香りのするような夢が蘇ることなど、もう二度と無いのを私は知っていたらしかった。

「もう、飲まれたのですか?」

「ええ。でも、何も起きた感じがしませんね」

 そう言って、彼女は肩を落としたが、躊躇する私に手元の霊水を飲むように視線で促す。本心ではその効能を試そうなどとは思っていなかった所為か、私は苦水でも眺めるかの如き戸惑った表情をしてしまった。しかしながら、折角だからと決心をすると、一思いにそれを飲み干した。

 冷たい水の温度が私の口内から喉元、そして、臓腑へと落ちて行った。霊水と呼ばれていても、所詮は唯の湧水であり、取り分け不思議な味がする筈も無かった。私は暫く様子を窺ってみたが、どうにも自分の身に何も起きないように感ぜられて、何だかがっかりしたような、安堵したような判然としない心境を覚え、女に作り笑いをして見せた。

「私にも、何とも無い様です」

 恰も落胆したかの如き口調を装い、私は空になった容器を彼女に渡す。すると、何故だか女の手は伸びては来ず、代わりに、私の相好に何か張り付いているのか、その両手で口を抑え、私を凝視した。私は自分の頬に何か、生ぬるいものが伝うのを感じ、其処に指先を宛がった。それは紛れも無く、最後にどれ程前に流したかももう分らぬ、私の涙であった。

 すると、奇妙な現象が起きた。自分が泣いているのに気が付いたその瞬間、私の意識の奥に、遠い昔に別れた誰かが見えた気がしたのである。そして、その姿を見るや否や、私の内に様々な感情が表出して来た。それは幼い頃の無邪気な喜びであると共に、随分忘れていた悲しみであり、久しく感じて居ない怒りや憎しみであった。涙腺の堰が切れたかの様に、私の瞳からは涙がぼろぼろ零れ、どうにも止められそうにも無かった。その姿態は紛れも無く、夢の中の私そのものであった。そして、此処でもやはり醒めた感覚の私が居て、其処で泣くのは決して今の私では無く、どうしようもなく過去の私であるのをそんな状態からも察していたが、その私は目の前で呆気に取られる感情豊かな女の相好を見て、いつから自分はただ、生きるだけの存在になったのだろうか、と愁然とした思いにされるのを免れられないのだった。

 きっと、私の感情の源は少しずつ、この世界と人とに分配され、そして、私のシベリヤはやはり、あの何も無い空虚な灰色の空にあるのだろう。あの空こそが、私に醒めた眼を与え、それを以てこの世界と人とを真に見詰める事を私に強いるのである。ならば、その集約される所は、やはり過去に在るのだと思う。涙で滲んで、ぼやけた世界を瞳に映しながら、ひっそりと私はそんな事を思った。

 その後、一度止まった私の涙の流れが再び沸き起こる事は無く、私は平素の状態へと戻ってしまった。女は、私には一応効き目があったので、また、服用する事を勧めたが、寧ろ、私には今回の体験から、それが如何に無意味であるかを悟ってしまったので、適当な理由を付けてその提案を受け流した。

 山の麓に辿り着くと、私達は道を別にした。女にはあの水の効果はやはり無かった様で、別れの際になるとその瞳を潤ませ、涙を零した。しかし、直ぐにそれを指で拭うと少し照れ臭そうな表情を見せ、今度は笑顔で私に手を振って見せた。そうした感情の動きを無機質なものとしか見れなくなっていた私の瞳からは、涙が溢れる気配は露程も感ぜられなかったが、それでも、此処での彼女との縁は私の心に温かいものとして沁み込んで行った。

 女と別れ、一人になった私は未だ幾らか明るい空の下、高い杉の柱廊を、駅に向かって歩を進める。柿渋色の剥がれかかった皮を覗かせる杉の幹も、緑の匂いの濃い森の空気も、私の日常には好ましい変調で、私は確かに清々しい感慨を覚えるのだけれども、それも飽く迄、意識の表層を撫でるに過ぎぬものであった。そして、そんな己の状態を飽きた平常心で認識すると、私は何を求めるでも無く、暮れかかった紅い陽に照らされた紺色の天を見上げた。

 いつか、後になって、今日の出来事を何故だかどうしようも無く、慕わしく思う時が来るだろう。そして、ある時ぷつんと糸が切れたように、いや、それすらも気付かずに、此の時の記憶も、その思いも消えてしまうだろう。そうして、私は人間と謂う己の習性を全うして行くのである。しかしながら、その事に涙する必要は無いのだろうと思う。

 北方水準原点。

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