第8話 人生最悪の一日⑧
赤信号で車が停まった瞬間、夜行はあの時撮った写真を取り出した。写真には祭事を無事に終わらせ、満面の笑顔を浮かべているアリスと、その隣で微笑んでいる自分が映っている。
「……嬉しそうな顔しやがって。普段は全然笑わない癖に……」
夜行は柄にも無い笑顔を見せている自分に向かってそう言った。普段夜行が浮かべる笑みは、人を殺す時に見せる狂気的なものと、そうでなくとも皮肉っぽい笑いしかない。だが写真の中の夜行は純粋に楽しんで笑っているようだ。
つくづくアリスは不思議な子だと夜行は思った。祝與になるような少女は、皆普通の人間にはない『何か』を持っている。だがその中でもアリスは更に特別だった。具体的にそれがなんなのか? 言語化する事は夜行には出来なかったが……。
暫しの間思い出に耽っていると、背後からクラクションの音が聞こえた。我に返った夜行が信号を見ると、既に信号は青に変わっていた。
夜行はギアを操作し、車を発進させた。
夕陽も既に消えかかり、夜が始まろうとしている。夜行は都内にある高級ブティックが並んでいる町のパーキングに車を停め、『ラ・ヴィ・アン・ローズ』という名前のジャズバーに入っていった。
バーは開店したばかりで、まだ人もまばらだったが、既にステージではジャズのセッションが行われていた。夜行はカウンターに座った。
「……夜行、随分久しぶりだな」
バーテンの厳つい黒人が、低い声で夜行に話しかけてきた。
「ああ。最近忙しくてな」
「そうか。ところで何飲む?」
「オレンジジュース」
「冗談だろ? カクテルでいいから飲んでけ」
「オレンジジュース」
黒人は肩を竦め、オレンジジュースをグラスに注ぎ、夜行に差し出した。
夜行はオレンジジュースを飲みながら、暫しバーの中に静かに響き渡る曲に耳を傾けた。演奏中の曲は『ラウンド・ミッドナイト』だった。
こうして音楽を楽しんでいる時だけ、疎ましい世の中の事を忘れられる気がする……そう思いながら、夜行はステージの真ん中にいる、ピアノを弾いているハンサムな黒人、スタニスタラフ(スタン)・エロールの事をぼーっと眺めた。
演奏が終わると、スタンは立ち上がって、観客に向かって優雅な礼をした。すると、黄色い声援が沸き上がった。
「あいつに一杯奢りたい。呼んでくれるな?」
夜行はオレンジジュースの入ったグラスをテーブルに置いてから、バーテンに言った。
「……実はな、俺、今度アルバムを出す予定なんだよ。ラウンド・ミッドナイトはそのアルバムの中に収録される予定なんだ」
物憂げな歌声が響く中、スタンは琥珀色の液体が注がれたグラスをじっと見つめながら言った。彼がグラスを傾けるたびに、カランという氷が動く小気味いい音が響く。
「充実した人生を送ってるみたいだな。夜警団で凶悪犯罪を調査してた頃よりも余程楽しそうにみえる」
「嫌味言うなよ。俺だって悪かったって思ってるさ。相棒のお前に何の断りもなく夜警団を辞めた事に対して……」
「別に気にしてない。結婚したのにあんな危険な仕事を続ける奴の方がどうかしてる」
スタンはじっと、自分の左手の薬指に嵌められている指輪を見つめた。
「お前には女はいないのか? 夜行」
「いる訳がない。全部遊びだ」
「変わらないなお前は。歳とって多少は落ち着いたみたいだが、根本は13歳のやさぐれた時のままか」
「俺の人生は……実の父親を殺して、そして初めて始まるんだ」
「辛いな」
「もう慣れたよ。他の生き方を考えた事もない」
夜行はオレンジジュースを全部飲み干してから続けた。
「実はな……お前の力を借りたいんだスタン。今回の事件はちょっと訳ありでな……絶対にしくじりたくない」
「……そう畏まるなよ、お前らしくもない。俺達は何度も二人で死線を超えてきた仲だろ?」
「じゃあ……」
「ああ、手伝ってやるよ。但し、今回だけだ。もうこれ以上の火遊びは、俺はごめんだ」
「ありがとう。本当にありがとう」
「だから畏まるなって。気持ち悪いぞ」
スタンはそう言って快活に笑った。
「で? ここに来た目的は俺を誘う為だけ?」
「いいや、もう一つ目的がある。テロ組織の黎明に繋がる情報が欲しい」
夜行は体を動かし、バーテンの黒人の男を直視した。だがバーテンは夜行の視線に気づかないふりをして、グラスを拭き続けている。
「話聞いてただろ? 教えろよラッキー。お前ならなんか知ってる筈だ」
『ラ・ヴィ・アン・ローズ』の店主兼バーテン改め、情報屋のラッキーは尚も変わらず、夜行を無視し、グラスを拭き続けていた。
「……無論知っている。知ってはいるが……俺にも立場ってもんがあるんだ。そう簡単に教えられるか」
「お前いつからそんなに偉くなったんだ? 俺に協力する気がないのなら、今すぐにお前を刑務所に送ってやる。それとも煉獄棟の方が望みか?」
「……」
「今ステージで歌ってるあの女……随分若いな。成人じゃなさそうだ」
「なんだと!? 言いがかりも大概にしろ! 俺はちゃんと……!」
「いーや、俺にはガキにしか見えねぇ。お前まさかとは思うが、歌を歌わせる以外にもあの女になにかさせてるんじゃないだろうな。例えば……」
ラッキーは観念して、苦々しく口を開いた。
「……高見新一という男をあたれ。奴の表の顔は証券会社の職員だが、黎明のメンバーでもある。組織の資金繰りを任されてるんだ」
「名前なんかどうでもいいんだよ。そいつの居場所を教えろって言ってるんだ」
「知らん。だが奴の秘書の電話番号なら知ってる。後はお前等でなんとかしろ」
ラッキーは適当な紙に電話番号を書いて夜行に渡した。夜行はそのまま席を立った。
「行くぞスタン」
「よーし、久しぶりの命を懸けた仕事だ! 胸が躍るぜ!」
「おい夜行! ジュース代とチャージ料を忘れてるぞ!」
夜行はラッキーの叫びを無視し、スタンは例によって優雅な礼をして、店を後にした。残されたラッキーは舌打ちして毒づいた。
「クソガキが。くたばれってんだ」
「で? この先どうするんだよ夜行?」
二人が車に乗り込むと、夜行はラッキーから貰ったメモを見ながら、スマホで電話をかけだした。
「決まってるだろ。手掛かりが他にない以上、高見新一の秘書に電話して、場所を聞き出
す」
「うーん……だけど素直に教えてくれるのかねぇ?」
「教えてくれるさ」
夜行はニヤリと笑った。するとその直後に電話が繋がった、
『……はい、どなたでしょう?』
夜行は女の声色を作って答えた。
「あ、警戒しないで下さい。私、新一さんの彼女です。新一さんから、何かあったらこの
電話番号にかけてくれって言われてたんです」
スタンは思わず吹き出しそうになる衝動をなんとか抑えた。
『あ、そうなんですか』
夜行の嘘を相手の女はすんなり信用したらしく、相手の女は警戒心を解いた。
「実は私、新一さんと待ち合わせしてたんですけど、はぐれちゃって……。新一さんの電話番号にかけても、電源を切ってるのか音信不通で……」
『ああ、今日高見さんは会合を行ってるんです。それで多分スマホの電源を切ってるんだと思います』
「会合? どこでやってるのかご存じですか?」
『ちょっと待ってて下さいね。ええっと……』
夜行は相手の女が言った場所をメモに記した。
「ありがとうございます。お陰で助かりました」
『いえいえ、お安い御用です。……あの』
「なんでしょう?」
『余計なお世話かもしれないけど、あのクソ野郎……あ、ごめんなさい。高見さんとは付
き合わない方がいいと思いますよ。あの人確かに金払いはいいけど、色々悪い噂があって
……』
「ははは。大丈夫ですよ、その事なら十分過ぎるくらいに知ってます。でも私、色々と事
情があって、お金が必要だから……」
『そうなんですか。大変ですね……』
「それはお互い様ですよ。お互い頑張りましょうね」
『はい! ありがとうございます。では……』
そして電話が切れた。スタンは夜行に拍手を送った。
「Bravo! 素晴らしい! 今年のアカデミー主演女優賞はお前だな!」
「このような名誉ある賞を頂き大変光栄です。これからも女優として一層の精進を……」
「なあおい、ふざけてる場合か? 早く目的地に向かった方がいいんじゃないか?」
「お前がボケたから乗ってやったんだろうが。言われないでも分かってるよ」
夜行はエンジンをかけ、悪態をつきながら車を発進させた。
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